『ソング・サング・ブルー』(2025)

梅本健司

 タイトルクレジットのあと、フォーカスの定まらない画面からぬっと前に出てくるヒュー・ジャックマンの顔が、まず印象に残る。正確には、彼の左の目元にある、アザなのかクマなのか判然としない黒ずんだシミに目が引き寄せられる。映画を見終え、役のモデルとなった実在の人物の顔を確かめても、同じような黒ずみは見当たらないから、おそらく撮影時のヒュー・ジャックマン自身の顔にあったシミそのものなのではないかと思う。以後、それが物語のなかで言及されることはないし、カメラがあらためて強調することもない。それでもふとした瞬間、彼が左の目元を擦るたびに、その黒ずみはいまもそこに残っているのだろうと思いながら『ソング・サング・ブルー』を見続けた。
 ヒュー・ジャックマン演じるマイク・サルディーナはアルコール依存症で、20年間断酒を続けている。クロースアップは彼が断酒会(AA)で語る場面のものだった。アルコール依存症を扱ったアメリカ映画は多いが、この作品は断酒の困難それ自体を主題にしているわけではない。映画を通して、彼がふたたび酒に手を伸ばすのではないかと感じさせる瞬間はほとんどない。自宅のガレージで、ずっと前に隠したらしい酒瓶を見つけても、ためらうことなく流しに捨ててしまう。それでも彼は自分をアルコール依存症だと言い、断酒の記念日には欠かさずニール・ダイヤモンドの「ソング・サング・ブルー」を歌う。
 やがてニール・ダイヤモンドのトリビュートバンドを組み、マイクの公私のパートナーとなるクレアもまた、鬱病の薬を飲み続けているらしい。そのことは彼女からマイクに告げられるのではなく、互いの娘同士の会話のなかで示される。放っておくと混乱してしまうから、自分が面倒を見ているのだとクレアの娘は言う。マイクとクレアは出会う以前から、それぞれに病を抱えて生きてきた。そして、マイクの娘が「父は酒の代わりに音楽に依存している」と言うように、音楽が彼らの生を支えている。

2025 Focus Features LLC. All rights reserved.

 中盤、クレアはガーデニング中に車に突っ込まれ、左脚を失う。そこからマイクとともに舞台へ戻るまでの過程が、この映画の一つの山場になる。鬱病と薬の副作用が重なり、一時的に精神病棟に入れられた彼女は、セラピーの場で、冒頭のマイクと同じようなクロースアップに収められながらこう話す。「歌うことで救われた。パッツィー・クラインを歌うと、曲のなかに自分が消える。脚は失ったけれど、歌うことまでは失っていない。歌うことは自分のものだ」。自分が音楽のなかへ消えていくことと、歌うことが自分のものであること。この一見相反する二つが、このとき彼女のなかでは無理なく両立している。それは冒頭のマイクの言葉とも響き合う。「ライトニングはスターで、ロックの神様で、チャック・ベリーやバリー・マニロウやビートルズが混ざった存在で。みんなが好きな歌、みんなに必要な歌、自分に必要な歌を歌う。生き続けるために……歌が終われば、ただの酔っ払いだ。おれはマイク、アルコール中毒だ」。マイクは舞台上でライトニングというキャラクターとして生きているが、それはマイク自身と対立するもう一つの顔ではない。ライトニングの説明が、そのままマイクとしての自己紹介へと滑り込んでいくように、両者は切れ目なくつながっている。マイクであると同時にライトニングでもあり、クレアであると同時にサンダーでもある(そして見るものにとってはヒュー・ジャックマンとケイト・ハドソンでもある)。一つの身体に複層的な時間が流れ、重なり合っていく。
 このことは終盤、クレアの息子が「ときどき脚のことを忘れてしまう」と彼女に言うこととも響き合う。この映画では、アルコール依存症も、片脚の喪失も、さまざまな身体の変化は時間をかけてその人に馴染んでいく。常に意識されるわけではないが、完全に消えることもない。「ときどき忘れてしまうくらい」のものとして、生活のなかに組み込まれていく。音楽が彼らを支えているのは確かだし、マイクもクレアも「音楽に救われた」とは言うのだが、不思議と癒しや救いの物語に思えないのは、この作品がそもそも回復を描いていないからだろう。傷は消えず、むしろ身体の一部として残り続ける。その状態のまま、彼らは歌う。

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 何よりそう考えさせられるのは、ニール・ダイヤモンドのミルウォーキー公演と重なるかたちでマイクとクレアがライブをするという晴れ舞台の直前に、マイクが心臓の発作で倒れ、そこでさらに頭を打ってしまう終盤の展開だ。マイクは、序盤から彼を苦しめている心臓の病について、クレアに語ることはない。元になったドキュメンタリーには、入院したマイクにクレアが付き添う場面があるから、実際には彼女も知っていたはずだが、映画ではそのくだりが省かれている。互いに困難を抱えた者同士が夫婦となり、助け合うことはあれど、それが慰め合いの関係からどこか距離を置いて見えるのは、必ずしも互いの困難すべてが語り合われないからだろう。実際、マイクは頭の怪我について誰にも告げることなく、密かに血を流しながらライブを行い、やがて死んでしまう。その顛末は、歌わなければ助かったかもしれないのに、と見るものに思わせる。ただし、ここで強調されているのは、音楽の無力さでも、あるいは音楽のための自己犠牲でもない。今までと変わらず彼は「生き続けるために歌い」、そして死んだのだ。そのことは矛盾せず、地続きのこととしてある。
 映画の最後、クレアの娘はマイクから習った車のオイル交換をし、クレアの息子はマイクの22年目の断酒記念日に撮ったビデオを見て、クレア自身は事故にあった日と同じようにガーデニングをする。マイクはいない。それでもそこには彼の「ソング・サング・ブルー」がなお響く。「おれたちはみんなときどきブルーになる。でもそれを歌にすれば、また歌い出せる」。