GOOD GIRL? BAD GIRL?

五所純子

 金払え。働いた分はきっちり払えよ、この野郎。
 紳士のハットが改造されて鏡面加工がほどこされた小道具をくるくる回して光をあちこちに乱反射させるショーガールたちのラインダンスは、警察が踏み込んできたことで中断される。ステージで微笑を振りまいていたショーガールたちも客席でグラスを傾けていた紳士淑女たちも一様に面食らうが、そこは裏で違法賭博が営まれている場所だった。そら検挙だ検挙だ、ここは今からキャバレーから事件現場に変わるんで、客も踊り子もただちに出て行け出て行けと急き立てる警察たちに、勝ち気なダンサーのバブルス(ルシル・ポール)が食ってかかる。金払えよ、経営者が賭博屋だとか何屋だとかダンサーたちは知ったことじゃないんだわ、それより今の今まで働いてた分の金はきっちり払ってもらわないと困るんだよ、この野郎。そうですそうです、国家権力の末端で働くあなたが行動原理としている法律が正しいのもわかりますが、わたしたちにのしかかっているのは金がなければ飢えて死ぬという現代社会の冷たい真理のほうでして、どちらが上位にあるかおわかりになりませんか、というふうに生真面目なダンサーのジュディ(モーリン・オハラ)も続いて歯向かう。ダンスホールは事件現場へ、次には労働争議の場へとめくるめく間に転回する。場の意味が転回すれば、そこで起きる現象の意味も変わる。見世物はラインダンスから労働争議へと移ったのだ。すると客席に残って騒動を見ていた一人の富裕層の男性ハリス(ルイス・ヘイワード)が立ち上がる。よう、このお嬢さんがたのおっしゃるとおりさ、へいへい紳士淑女に警察の諸君、彼女たちへの賃金を我々が肩代わりしようじゃないか。めくるめく間に場はチャリティ会場と化し、善良な市民によるノブレス・オブリージュの精神と、それによって一時的な安心を得る労働者たちの関係とが見世物となる。次にくるのは恋の鞘当てで、機転を利かせたハリスに注がれるバブルスとジュディの熱い視線が映されると、ハリスはジュディのほうの手を取ってソーシャルダンスを踊りだす。それは束の間、まるで労働者から富裕層へと社会階級を引き上げられるかのように、ラインダンスからソーシャルダンスへと芸術の序列を上昇するかのように。ところがハリスは「ブルー・アイズ」は好きじゃないからとジュディの手を離し、自分が求めているのは「ゴージャス・ブロンド」だとバブルスの手を取ってその場から去っていく。
 この冒頭場面だけでも、『恋に踊る』のダイナミズムが凝縮されている。監督のドロシー・アーズナーはサイレント期の1920年代からトーキーへと移行する1940年代におけるハリウッドで唯一の女性の監督といわれているが、いまだくりかえされる女性的/男性的などという表現性の類別をたやすく超えている。鋭敏でメリハリの強いショットの連続や、女性と定義される身体の様々なありようを遠慮会釈なく映しだすフレーミングに目を見張りながら、このような先行作にいま出会えることを喜びたい。ドラマの軸にあるのは対照的な二人の女性、ジュディとバブルスだ。二人はロシア帝立バレエ団出身のマダム・リディア・バジロヴァが主催するクラシックバレエのカンパニーに同じく属しているが、カンパニーが経営不振のためバレリーナたちはキャバレーの営業にくりだし、ラインダンスやフラダンスなど〈格下の〉ダンスの営業にまわって生計を保っている。ジュディとバブルスはともに現状に満足しておらず、ある意味では野心的なのだが、その志向性が異なる。ジュディは正統的なバレリーナとしての自己実現を夢見ており、そのための努力を惜しまない。いわば芸術的な階級上昇を望んでおり、自分の才能の限界が見え隠れする現状に葛藤をおぼえている。一方、バブルスが望んでいるのは経済的な階級上昇で、富に近づくためなら性的魅力を披露することなど厭わないし悪知恵も利く。つまり生存戦略に長けており、うぶな内省に足を引っ張られたくない。相反する志向性の二人はいかにも反発しあいそうで、のちに二人の衝突は『カリフォルニア・ドールズ』のリングでくりひろげられた女子プロレスラーのキャットファイトさながらにバーレスクショーのステージで観客たちに晒されるのだが、じつに面白いことに、彼女たちの衝突はつねに見世物の場で起こり、アパートや稽古場など〈見られる身体〉から解放された場ではたがいの境遇を慰めたり讃えたり、だれかが滞納した家賃を内緒で支払うなどして支え合っている。〈見られる身体〉としてあるダンサーおよび女性の姿を全面に押し出しながら、その内実を差し挟んで描くところにアーズナーの機微がうかがえる。またモーリン・オハラの安定した肉体的な動きと、ルシル・ポールの性的かつ喜劇的な演技がじつに効果を上げている。
 さらにアーズナーは〈見る身体/見られる身体〉、また歴史的にある程度はそれと等しくあった〈男性/女性〉の二元的な構造を撹乱する。本作のピークタイムと称されることの多いジュディの演説場面に顕著だ。キャバレーのラインダンスからフラダンスショーへ、さらにバーレスクショーに引き抜かれ、バーレスクダンサーとして人気を博したバブルスはブロードウェイにまで接近する。するとショーの構成上、バブルスの引き立て役が必要となって駆り出されたのがジュディで、ジュディはバーレスクショーに卑賤なものを感じつつも週休二十五ドルという破格の給金に引き受ける。経営者の要求どおり、お星さまに夢を見る無垢なバレリーナとしてステージに登場するジュディだが、猥褻から離れて性的刺激を抑制するようなジュディのダンスに観客たちはブーイングをはじめ、バブルスを出せと叫ぶ。しかしそれこそ経営者の思惑どおりで、バブルスとジュディのダンスはブーイングとセットでさらなる人気を博す。奔放で空気の読めるバッドガールと、無垢で場違いなグッドガール。バーレスクショーという場は、バッドガールであるはずのバブルスをグッドガールに、グッドガールであるはずのジュディを場違いなバッドガールに転回させるわけだが、いやおうなくバッドを極めていく自分の立ち位置に沸騰したジュディは、ステージでバレエダンスを中断し、つかつかとステージ中央まで歩くと仁王立ちで観客を睨みつけ、演説する。「気がすむまでご覧なさい。笑いなさいよ、誰も傷つかないわ。服をひん剥けば入場料の元が取れるわね。50セントで娘を凝視する権利を手に入れた。踊り子たちからどう思われてるかご存じ? 着飾って私たちを嘲笑しに来る。冷笑しヤジを飛ばすあなたを私たちも嘲笑ってやりたい。何のため? ショーが終わったら妻や恋人の前で強い男性ぶる自信が欲しい? あなたの本性は誰だってお見通し」。この演説の最中、カメラはジュディの顔のアップと観客席を正面からとらえたショットの切り替えをくりかえす。〈女性/男性〉〈舞台/観客席〉を正対させる台詞と構図ではあるが、それらとずれて観客席には数人の女性が映されている。つまり決して二項対立ではとらえきれない権力構造のあらわれをアーズナーは示しており、ひいては、続くジュディとバブルスの揉み合いが、〈見る/見られる〉〈女性/男性〉〈舞台/観客席〉のみならず、〈グッド/バッド〉の境界、あるいは〈自己実現/生存戦略〉〈与えられた人生/選びとる人生〉の葛藤を攪拌しつくす。つけくわえるなら、続く法廷の場ではまた調子を取り戻したように、証言や陳述が見世物となり、〈グッド/バッド〉が入れ替わる。最後まで転回のダイナミズムが衰えない。
 もうひとつ重要なのは、マダム・バジロヴァの存在だ。ひっつめ髪にパンツスーツのマダム・バジロヴァは本作においてただひとり両性的な意匠がほどこされているのだが、アーズナーはマダム・バジロヴァを唐突に交通事故で死なせる。それは華々しいほどの死で、レズビアンであったと証言されるアーズナーが描いた社会批評かもしれない。つまり、あからさまに二項をまたぐ者は抹殺される。筆者は実のところ、ジュディの演説にはその説得があまりに正面的なことからそれまでジュディとバブルスの生きざまによって累乗されてきたものが挫かれるようで鼻白んでしまったところがあるのだが、どれほど感情が昂ぶったとしても正当性を失わないよう努めるジュディの性格がよくあらわれているし、ジュディが述べた権力構造はいまなお変革されていない。マダム・バジロヴァの死も同様で、正しい説得に比べると華々しい死の契機のほうが筆者の好みではあるが、変革の遅さを刻みつけただろうシークエンスとして忘れがたい。
 フィクションは時代の限界をも映す。ジュディはある意味で自己実現を遂げるのだが、そう呼ぶことを筆者はためらう。「前も怒っていたね。その感情は君の命取りになることも(あるだろう)。(これまで)好きにしてきたろ。今は話を聞きなさい」(※( )は筆者による補足)。そんな言葉でモダンダンスカンパニーの主宰者の男性アダムスにたしなめられ、その胸に身を委ねるジュディの姿は、一概にハッピーエンドとはいえない。ふりかえれば、アダムスのカンパニーによる演目の舞台背景は、高くそびえるマンハッタンのビル群と煙突だった。上昇志向の象徴である。
 最後に、筆者がもっとも興奮したのは、本作がダンスの序列を撹乱しまくっていることだ。ソーシャルダンス、クラシックバレエ、モダンバレエ、フラダンス、ジルバと様々なダンスが登場するが、西欧的な価値基準に照らすといま挙げた順にだいたい格上とされるのではないだろうか。この価値基準こそ疑わしい。西欧的な価値基準からすると、性的な部位とされる足や胸や臀を露出させて振り乱すダンスが卑猥で下賤だとされるが、別の観点から見れば、他人どうしが手を握り肌を密着させ抱き合って動きまわるソーシャルダンスのほうがよほど卑猥であるともいえる。舞踊と姿態の〈グッド/バッド〉を覆そうとしたアーズナーの芸術的野心をここに感じる。対照的な女性二人の恋の鞘当てゲームなど、企画を通すための口実にすぎなかったのではないか。ジュディとバブルスの対比は、デュー・プロセスの自意識とアメリカン・ドリームの虚妄という米国の二面性の喩えだったのではないか。そんな放言さえ口を突いてしまいそうだ。

ドロシー・アーズナー Dorothy Emma Arzner (1897 – 1979)

カリフォルニア州生まれ。ハリウッド関係者が集う飲食店を営む両親の元で育つ。大戦後、パラマウントの脚本部、ついで編集の仕事に就く。1922年に『血と砂』の編集を務めた際、演出の能力も評価された。27年にサイレント映画『近代女風俗』で監督デビュー。29年にはパラマウント初のトーキー『ワイルド・パーティー』を監督した際にはブーム・マイクを考案したと言われている。32年にパラマウントを離れてフリーとなり、『人生の高度計』(1933)、『クレイグの妻』(1936)、『恋に踊る』(1940)などで従来の女性像を揺るがす作品を輩出。私生活では、レズビアンであることを隠さず、俳優など著名人と浮名を流した。生涯で20本の作品を監督した後、監督業を引退。その後はCM制作のほか様々な教育機関で教鞭をとる。晩年はUCLAでフランシス・フォード・コッポラらを教えた。


五所純子⦅ごしょ・じゅんこ⦆

文筆家。著書に『薬を食う女たち』(河出書房新社)、2021年)共著に『虐殺ソングブックremex』(2019年)、『1990年代論』(2017年、ともに河出書房新社)、『心が疲れたときに観る映画』(立岩舎、2017年)など、映画・文藝を中心に雑誌・Webメディア等に多数執筆。

←戻る