1話
不和を生きる
三浦光彦
アルド・モーロ誘拐事件を「赤い旅団」メンバーの内側から描いたマルコ・ベロッキオの作品『夜よ、こんにちは』(2006)において、モーロは専ら、「赤い旅団」唯一の女性メンバー・キアラから眺められる隔絶した他者として、常に声と身体とが遊離しているような、実体なのか幻影なのかも定かではない存在として描かれていた。実際、モーロという政治家はイタリアにおける「鉛の時代」の空白の中心とも言える人物であり、その存在の欠如が現代のイタリア政治にまで、暗い陰を落としているであろうことは想像に難くない。一方で、再び同事件の映像化に取り組んだ『夜の外側』において、ベロッキオは第1話でモーロを実体を持った生身の人物として描くことを選択し、6話構成のドラマ全体は1話の最後でフレームの外へと姿を消したモーロがそれぞれの人物に対して、どのようにフレームの内へと帰還してくるのかをめぐって構築される。それゆえ、1話でのモーロ(を演じるファブリツィオ・ジオーニ)の存在感や肉体性に相応の厚みがなければ、計6時間弱のドラマ全体を持続させること自体が可能ではないだろう。
©︎ 2022 The Apartment – Kavac Film – Arte France. All Rights Reserved.
しかし、モーロという人物の魅力は単にこの場面における演説に由来するのではない。むしろその演説における彼の肉体や声のありようが政治的なテクニックではないこと、彼が政治、宗教、家族といった諸々の権力的な磁場において不変であろうとしていることに根差す。そのことはコッシーガに対するセリフの中にも現れている。コッシーガが家族との関係について、「私は家に帰ると消える」と公私の抗いがたい非連続性を打ち明けると、モーロは「我々の政治は聖職でもあることを忘れるな 家庭内の苦悩に耐える力を信仰が与えるはず」と、政治-宗教-家族の不可分をコッシーガに諭す。その後、帰宅したモーロは家族たちにおやすみをいい、妻・エレオノーラがいるベッドに自分も入る。ベッドに寝る女の形象は6話全体で最も印象的に反復されるモチーフだ。コッシーガの妻、ファランダ、ファランダの娘、そして事件後のエレオノーラ。彼女らは権力闘争が行われる男たちの昼の舞台の「外側」に取り残されたものたちとして、夜のベッドに横たわる。それゆえ、エレオノーラの横に並び、彼女に声をかけるモーロの姿は、やはりドラマ全体において特権的なものとして刻印されている。
©︎ 2022 The Apartment – Kavac Film – Arte France. All Rights Reserved.
第1話のOPクレジット前、つまり映画劈頭には、事件の顛末を知るものからするといささか奇妙なプロローグが置かれている。その意味は第6話の最後でわかることになる。生と死、現実と虚構とがないまぜになるその展開は、『夜よ、こんにちは』のラスト以上に倒錯しており、まさにベロッキオの面目躍如と言ったところだろう。既に完了してしまった事態、つまり歴史と呼ばれるものに対して、映画的想像力は何を成しうるのか。不在、あるいは死に対して残されたものはいかに応答しうるのか。現実に起こったことをフィクショナルに仮構する際に求められるのは現実への忠実さではない。完了したものを未完了のアスペクトに差し戻し、過去に潜在した可能性を現在に向けて充填しつつ、現実の変容可能性に賭けることこそが、そこでは求められる。その点において、モーロの肉体が宿す態度は、イタリア国民のみならず混迷を極めるこの時代を生きる全ての観客が参照すべき倫理となる。