『港』発売記念 湯浅湾3時間ライヴ (@六本木スーパーデラックス)

4月も中盤に差し掛かってなんだか生暖かい日々が続き、神田川などに目を向ければ桜の花びらが川面を覆っている。暖かさに誘われるように夜の街に出かけてみると、人々が地面の下に向かって列をなして潜っていくところに出くわした。六本木の土の中ではこの夜、果てしない営みが行われていた。
湯浅湾。6年ぶりの3rdアルバム
『港』の発売を記念して彼らが敢行した3時間ライヴの模様をお伝えしたい。

ごろんと音楽がそこにある。
「音楽」が、横たわっていて、座っていて、あるいは佇んでいる。それは何かについて語ろうとしているように聴こえるのだけれど、しかしそれは自身の語りそのもの以外については決して何も語ろうとしない。それはどうしようもなくただただ「歌」としてそこにあり、それはどうしようもなくただただ「音楽」としてそこに響きわたっている、それが湯浅湾だった。
「シェーの歌」によって幕を開けた3時間にわたるこの日のライヴの、その序盤で湯浅学は客席とほとんど高さの変わらないステージの傍らに並べられた沢山のギターに目をやって、「これ全部使うわけじゃないよ、散歩に連れてきた」と、ぼそっと呟いた。その言葉がこの日の湯浅湾の演奏にずっと重なって聴こえたのは、きっと私だけではないだろう。それはその「言葉」だけのことではなくて、ステージで散歩のお供に連れられた「彼ら」がこの空間に響き渡る演奏に共鳴してその弦を揺らし、好き勝手に掻き鳴らす歌のこと、聴こえてくるはずもないが、確かにその場に生れていたかもしれない音楽のことであり、彼らの鳴らす聴こえない音楽が湯浅湾の演奏の原動力であるような気がしたのだ。
湯浅学の手首でなくて腕で刻みつけるぶっきらぼうなストロークが、牧野琢磨の恐ろしく饒舌に歌いあげるギターと、それはなんともデコボコなやり取りを織り成し、松村正人と山口元輝のボトムがその瞬間を拡散し持続させる。このバンド・アンサンブルの素晴らしい味わいを、たとえばロートレアモンの「ミシンと洋傘の手術台の上での不意の出会い」なんて一節になぞらえて「『茶柱と骸骨』の湯浅湾の上での喜ばしき出会い」とでも呼んでみたい気持に駆られる。もちろん出会うのは「茶柱」と「骸骨」ばかりではなく、悪くない豚だって猿みたいなおばさんだって干からびたミミズだって出会う。そんな万物が出会い奏でる歌について、湯浅湾は歌っている。 だから湯浅湾の音楽を、たとえばこの手の常套句「唯一無二のオリジナリティ」とかいう言葉で掲揚してしまうのは全く失礼なことだ。演奏を終えた自分たちの曲を「もろにニール・ヤングでしょ」と湯浅学が述べ、続いて「次はフリーみたいな曲やります」と曲紹介をすればベースの松村正人は「いや、ストーンズでしょ」と掛け合いをする。ここで演奏されているのはまぎれもない「湯浅湾」の曲でありながらも、その多くが「~みたいな曲」であり、でもそれを単に「コピー」などと呼ぶことなんか絶対にできない。ここにあるものはまさしく「カヴァー」なのだ。たぶんロックはすべてが「カヴァー」である音楽なんじゃないかとさえ思う。「コピー」は誰でもできる、でも「カヴァー」はそこに愛も、そして憎悪さえもなければ成立しない。だから数えきれない人々が「愛と憎悪」を歌い続けてきたロックは「カヴァー」そのものなのだ(と、とりあえず思い込ませてほしい)。湯浅湾が実現しているのは、そんな単純なことであり、とても凄まじいことだ。  湯浅湾は「湾」だ。ここではすべてが出会う。この日の最後の楽曲である圧倒的な「ミミズ」の後に残されたギターとベースたちの奔放なハウリングの中心で、「彼ら」の声と戯れる湯浅学の姿は、さながら海の声を聴き続ける灯台守のようだった。大海原に漂う見捨てられたモノどもの声を聴き逃さぬように、そしてその歌を自らが歌い継ぐことで、「彼ら」をそこに引き寄せている。

(田中竜輔)

ふとある日/粉と煙と/どっちがいいかと/問われたの/飲まず食わず/三日三晩考えて/土と答えたが

 アルバム『港』のオープニングチューンでもある「煙粉」は上記のような出だしで始まる。「ふとある日」、そうしたさりげなさからこちらが身構えるより先にさらりと曲は始まり出し、タイトルである「煙粉」の間に「と」が差し挟まれる。コンテクスト上「or」であるはずのそれは、ワンコーラスの激情とその沈静の果て、気付けば文字通り「and」になってしまっている。そしてまた、続くフレーズで新たなる「と」が提出され、「煙」「粉」「土」という取捨選択できない羅列に次々と「山」や「海」といったもの(具象的な抽象とでも呼びたくなる)が付け加えられ、膨張肥大していく。ここで大事なのは、二者択一を回避して妙意即答第三の選択肢で切り返したのではないということで、やっぱりそこには不器用ながらも誠実な「飲まず食わず三日三晩」という真っ当な時間がある。
 というのが4/8スーパーデラックスで行われた3時間ライヴの体験の感想でもある。野菜カレーを食い終わった頃に、おもむろにメンバーがステージ上に集まり出す。徹夜明けの脳みそには、それがひとつのイヴェントのスタートと言うより、半日かけて行われるフェスでやっと真打ち登場というような錯覚が起こる。といってももったいぶった感じではなく、気付けば曲は始まり、さらに気付けば始まったその曲の中で、山口元輝と松村正人そして湯浅学のバッキングギターが形成するゴリゴリのリズムの上で牧野琢磨のギターが踊り綱渡りめいたアクロバットが展開している。それはときにクイーン(ストーンズ?)でもあり、ときにニール・ヤングでもありする、などなど「煙」と「粉」めいた足し算の比喩で考えることはできるが、しかしてその総体はと言えばロックでありど真ん中のポップスであるということに尽きる。いや、尽きるかと言えば尽きないのであって、ブルース、フュージョン、めくるめく展開のなかに歌謡曲の香りが漂う。アメリカ南部のバーのようで昭和な光景、ときに大人の男が集まる都会のクラブでありながら、実態はローティーンの頃と同じ話題で馬鹿騒ぎすることもできるいい大人がたむろするパブ。そこで流れる空気は、「飲まず食わず三日三晩」というものではなく、どうぞご自由にご飲食ご歓談くださいといったもので、チューニングをしてるのかもう曲が始まっているのかわからない時間が展開して拍手と歓声に至り、次第に解きほぐされ繕り合わされしながら、気づけばステージ上のメンバーたちは次第にその姿を消していって、最後には爆音のフィードバックの直中に心地良く飲み込まれている自分が見える。
 3時間のライヴという法外な巨大さ(それでもまだまだ演りきれない楽曲があって、終盤幾つもの曲がカットされたのだった)は、しかしながら実感としてはそうした前置きにある仰々しさとは無縁なのだった。三時間という時間の流れ(あるいは澱み)を全体として語ろうとすれば、すげえよかったという陳腐な一言につきてしまうので、やはり「煙」と「粉」式に、あるいは「牛も豚も猿もミミズも楽しめます」(アルバム『港』チラシの湯浅学による文章より)式に、人間基準の評価からはこぼれおちていく様々な動物たちの差異を持って表現するほかない、豊かな時間なのであった。

(結城秀勇)

ザ・バンドからグレイトフル・デッド、はっぴいえんどから裸のラリーズ、そしてブラック・ミュージックから歌謡曲まで、大衆音楽の歴史をたっぷりと飲み込んで、溢れ出ては渦を巻く音の泉。
牛も豚も猿もミミズも、みんな喜ぶ
湯浅湾、6年ぶりのサード・アルバム

湯浅湾『湾』
発売日:2009年4月17日
定価:2,310円(税込)
制作・発売:boid

湯浅湾インストアライヴ@吉祥寺ディスクユニオン
4/19(日)20:00より(入場無料)
詳細はこちらからどうぞ boid.net : http://www.boid-s.com

取材・構成:結城秀勇、田中竜輔、宮一紀
撮影:鈴木淳哉