山形国際ドキュメンタリー映画祭2025 レポート

10/15
最終日

結城秀勇

 エアコンもない家に暮らしていた両親にとって気密性の高い新しい家は快適そのものらしく、母はエアコンの性能や人感センサーの照明などについて嬉々として語る。しかし、いまはなき古い家の台所の半ば腐りかけてたわんだ床や、いくら掃除してもきれいになりっこない風呂場や洗面所について、あの家に住んだ誰よりも詳しく知っているのもまた、母なのだ。

 『A Window of Memories』(清原惟)では、監督のふたりの祖母が自らの半生について語ったテキストが、俳優たちによって読み上げられる。その中で印象的なのは、ふたりの祖母がともに家にまつわる話をすることだ。夫も姑も知らない間にお金を貯めて、新しい家を建てたこと。古い家が嫌だったけれど、解体されていく家を感傷とともに見つめたこと。夫が好きなようにデザインした家に不満はなかったけど、ホコリが入るから食器棚にはガラスをつけて欲しかったこと。その家を出るとき、壊してしまわなかったことが心残りだったこと。家父長制の象徴としての「家」とはまったく違った表情をした「家」がそこにはある。というか、たわんだ床やガラスの仕切りのない食器棚やミシンや植物たちのような、見覚えのあるような、それでいてよく知らないような細部からなる「家」に見つめられている、という気になる。
 インターナショナル・コンペティションで優秀賞を受賞した『愛しき人々』(タナ・ヒルベルト)でもまた、ありふれた映像ではあるがだからこそ撮影者にとっては他の誰かに置き換えることなどできない映像に、複数の女性が融合しもはや誰が誰か見分けることのできなくなった語りが重なる。その点において『A Window of Memories』と『愛しき人々』に共通点を見出すこともできそうだが、それだけでなく、アジア千波万波で奨励賞を受賞した『炭鉱奇譚』(ソン・チョンイン、フー・チンヤー)が、過ぎ去った時代というだけでなく、そもそも映像化することなど不可能そうな現象についての語りを記録していることや、コンペ最優秀賞『ガザにてハサンと』(カマール・アルジャアファリー)の、発見された在りし日のフッテージに、それとは時系列を異にする文字を重ねるという処理を施していることもまた、どこかでつながっている気はする。
 ある時代、ある日ある場所で、他の誰でもないある人をその人として記録し保存することと、同時にそれをいつのものとも誰のものともわからぬかたちに変えて、当事者からははるか遠くにいる誰かにも伝える方法を見つけること。生成AIがつくりだす映像や、ただ量が圧倒的なだけの稚拙なデマによって、いまここにある映像への信頼が決定的に失われているこの時代において、映像に信頼を回復するためにその正当性や当事者性を声高に主張するだけでは不十分であるように思う。上にあげた作品における語りが、どこか民話や昔話、神話や怪談のようなものになっていることは、ただの偶然ではないように思う。
 映像として見聞きした誰かを信じること。あるいは、そこに映る顔も声もその「誰か」ではないことを知りつつ、それを「誰か」として信じること。それは一般にフィクションと呼ばれるやり方で、映画が探究を続けてきたことだと思う。以前にも何度か言ったことだが、いまの私たちに決定的に欠けているのは、真実と嘘を見分ける能力である以上に、誰がどう見ても嘘でしかないなにかを真っ赤な嘘そのものとして信じ、生きる能力なのではないか。
 『公園』(スー・ユーシェン)に私が見るのはそこだ。さまざまな国の植民地としての歴史を持ち、日本に比べればよほど社会的公正性が実現されているように見える台湾という土地においても、外国人労働者の問題はいまだ十分に可視化されていないと監督は言う。若い日に読んだひとつの新聞記事が忘れらないと、彼は話してくれた。犯罪を犯した外国人労働者の逮捕を報じるその記事に添えられた写真は、茶畑の中で、ひとりの外国人労働者の両脇をふたりの私服警官が抑えているもので、なぜかその三人はカメラに向かって微笑んでいた。それを目にしたときの薄ら寒さ、権力勾配のおぞましさこそが、彼が台湾で外国人労働者についての作品を撮るひとつの理由なのだそうだ。
 前回の映画祭期間中に迎えた2023年10月7日から2年が過ぎ、そして、空虚な「停戦合意」のニュース。正直、それに対してなにを思えばいいのかすらよくわからない。なにが変わったのか、なにが変わらないのか、なにが取り返しのつかないほど失われたのか。そして、会期中に聞いた安井豊作の訃報。かつて安井はジャック・リヴェットの「ホークスの天才」の末尾に置かれた「あるものはある」という言葉について文章を書いた。黒岩幹子の優れた考察が示す通り(『シネ砦 炎上す』を読んだ)、いま一度それを「わかったような気になる」ことなしに読み直す必要がある。その上で、それでもなお私たちは「明白さ」についていま一度考えなければならないところに来ていると強く感じる。そしてリヴェットが別の文書で書いたもうひとつのこと、「卑劣さ」についても。(結城)

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