——監督の映画はどれも会話が非常に多いですね。俳優たちは映画の中でもずっとおしゃべりに興じています。「話す」ということを重要視してるのでしょうか。

MP:それは私にとってすごく自然なことです。私自身がおしゃべりだからかもしれませんが、あまり考えごとをしないほうですね。それに映画が会話劇になることを恐れる必要などないと思うんです。映画は世界を映し撮るものですが、実際の世界で人々はよく話し合っていますよね。だから、逆に映画の中で誰もしゃべっていないと、かえっておかしく感じます。私とよく映画を作る人たち、周りにいる人たちは、常にしゃべりっぱなしです。スカイプをしているか、電話をしているか、何かしらコミュニケーションをとっています。私にとっては、映画におしゃべりを入れるかどうか決めることその自体が不自然なことです。

そういう意味でも、「言葉」は私が取り組むことのできる別の素材だと思います。この場合、問題は「言葉」そのものにあるのではなくて「言葉」をどう扱うかによります。「言葉」を基にどういった映画的な取り組みができるのか。自分の映画で「言葉」をどう扱うのか。『ビオラ』では、シェイクスピアの同じ文章を何度も繰り返しています。「言葉」は繰り返されることで、多数の異なる視点を作り出す過程となります。純粋なアイディアなんです。ただし、もし口だけで「言葉」を繰り返すだけならそれはまったく空虚なものとなってしまいます。それは俳優のテンションにも表れることでしょう。「言葉」はその意味だけでなくて、感情や意志、アイディアや精神的な動きなどを取り入れるときに役立ちます。すると「言葉」について、より深く、完璧な理解ができるようになります。「言葉」はとても曖昧で、複数の意味合いを持っています。ですから、やっぱりどう扱うかに尽きますね。

——あなたの映画の俳優たちはおしゃべりに興ずるとともに、楽器を演奏する人が多数出てきますね。おしゃべりすること、飲みながら食事をすることがそうであるように、楽器を演奏することや歌を歌うことが生活の一部のように感じられます。映画の中で音楽が流れるとき、そこには必ずと言っていいほど演奏している人の姿があります。

『ビオラ』Viola

MP:撮影の前に音楽を決めるようなことはありません。私の俳優たちは音楽でいうところのミュージシャンでもあって、映画における「言葉」のようなものです。音楽とは世界に関わるものです。だから自分の映画に音楽がないのは変だと思い、どうにかして音楽を入れる必要がありました。出演している何人かの俳優は実際にミュージシャンでもあって、私は彼らの音楽が好きで、演奏しているところをドキュメントするのも興味深いと思いました。単に音楽だけでなくて、楽器を演奏している動作が好きなんです。それまで映画にはなかったものが、音楽によって発展しもたらされる、そのようにして音楽を使っています。音楽が生まれていく過程をドキュメントするのが好きなんです。フォトジェニックなところがあると思います。

——『ビオラ』で仕事中のマリア・ビジャールとシャイクスピアの演劇に取り組む舞台俳優のふたり、3人がたまたま出会い車のなかで議論しながら会話をするところがあります。そこで突然劇伴の音楽が流れると思います。あそこの音楽の使い方だけ他の映画と違うなと思ったんです。

MP:あれはカーラジオから流れてくる音楽なんです。車のエンジンを付けるとCDが流れ始めます。「トゥトゥトゥ!」と音楽が始まります。そしてカットが変わると音楽が消えます。確かに急すぎるかもしれませんね。というのは、私にとって突然であることが、最もよかったからなんですが……。あの曲はドン・ジョン・エドワードという友人が作ったものです。彼は現代音楽家でハーヴァード時代に一緒でした(編註:ふたりは同時期にハーヴァード大学ラドクリフ研究所からアーティスト向けの奨学金を提供されて滞在していた)。私は映画の編集をしていて、彼は隣りの部屋でずっとリハーサルをしていました。どんな音楽を入れるのかアイディアもないままに編集していると、隣りの部屋から聴こえてくる音楽が突然映画の中へと入ってくるんです。そうすると、私の映画と彼の音楽それぞれが、バラバラかと思えば、急にお互いに作用し合うといったように不思議な動きをするんですね。私からすれば、この場面の3人の女性たちはそれほど似ていません。3人は何かに賛同したと思ったら今度は否定し合ったりと、ああだこうだと話し続けています。ですから、私はこの音楽と女性たちのふたつを一緒にすることがいいアイディアだと思いました。彼女たちが男性たちに恋しているといったセンチメンタルなことを話していると、突然あの音楽を聴くことになります。彼女たちの世界にあのような実験的な音楽が流れることが面白いと思いました。

『フランスの王女』La princesa de Francia

——音楽に関して言うと、『ビオラ』のエンドクレジットのところで、マリア・ビジャールとボーイフレンドが自分たちの部屋にミュージシャンを呼んで、歌う場面が僕は好きなんです。彼らは決して上手に歌うというわけではないのですが、その姿を見ているとなんだかほんわかした気持ちになります。

MP:あれは唯一即興で歌ったものでした。この場面では、ほんの数秒間だけでも彼らが幸せであることを示すショットが必要でした。そして、私はそれがカメラの前で引き起こされなければならないと確信していました。「アクション!」「ハハハハ!」といったふうに彼らが幸せを演じるのではまずいんですね。だから、彼らが幸せであるためには、実際にリラックスしている瞬間、楽しい瞬間を作る必要がありました。私がこの場面を即興でやるほうがよいと確信したのは、ふたりを一緒にいさせるだけで、最終的にマリアは自分のキャラクターに関係なく、彼のことを笑わざるをえないと思ったからです。そのショットの準備をしたとき、まだ歌詞はありませんでした。私は彼らに音楽に沿うように、即興で歌うように伝えました。お互いがまるで楽しい突っつき合いでもするようにです。このショットを10分もの長さにしようと思い始めました。普通と感じさせない「何か」をカメラの前に引き起こさせなければなりません。そのためには実験的である必要がありました。だからこそ特別な瞬間なのです。そして運よく、彼女は笑いました。このエンディングは私も気に入っています。

しかし、この撮影はとんでもないものでした。というのもこの男優が出演する舞台の時間に遅れていたからなのですが……。このショットに取り組んでいるあいだ、タクシーがドアの前で彼を待っていました。あまりにもメイキングのようになるので使ってはいませんが、撮影したこの10分間のショットの中には、彼は即興で歌い、それが終わると急いでタクシーに向かって撮影現場を後にするところも含まれています。とても密度の濃い、とても強烈な撮影でした。それが、エンドクレジットのところなんですね。

取材・構成:渡辺進也 翻訳:楠大史
写真:白浜哲
協力:Happy Tent、アテネ・フランセ文化センター

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