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最終更新: 9年 39週前

クリストファー・ノーラン「映画館は生き残る」について

金, 07/11/2014 - 10:39

クリストファー・ノーランがWSJに寄せた「映画館は生き残る」という文章が話題になっていたのですが、まず日本語訳が良くなくて内容が分かりにくいってことと、もう一つ、論理的に飛躍していて、特に新しい視点もない気がしました。

本家の英語版はこちら。
http://online.wsj.com/articles/christopher-nolan-films-of-the-future-will-still-draw-people-to-theaters-1404762696
WSJ日本語版で読める該当記事はこちら。
http://jp.wsj.com/news/articles/SB10001424052702304188504580018153711393826

もちろん、有名監督が映画館大丈夫だぜって言うことには一定の意味があると思いますが、とりわけ日本では情緒じゃなく明確なロジックでものを考える必要があると思うんですよ。映画好きな人たちが映画素晴らしいって言ったって解決にならないってのが今の問題な訳だし。

全体の中で論旨として重要なのは後半の二つのパラグラフ。

The theaters of the future will be bigger and more beautiful than ever before. They will employ expensive presentation formats that cannot be accessed or reproduced in the home (such as, ironically, film prints). And they will still enjoy exclusivity, as studios relearn the tremendous economic value of the staggered release of their products.

The projects that most obviously lend themselves to such distinctions are spectacles. But if history is any guide, all genres, all budgets will follow. Because the cinema of the future will depend not just on grander presentation, but on the emergence of filmmakers inventive enough to command the focused attention of a crowd for hours.

意味が通りやすいようにザックリ訳すとこんな感じ。

「未来の映画館は、かつてなく大きく美しいものとなるだろう。そこでは、家庭では到底不可能なほど高価な上映形態が採用されるに違いない(たとえば、皮肉なことにフィルムがそうなる)。そして、その体験は映画館でのみ味わうことができるのだ。というのは、映画会社は自社の作品を映画館へと優先的に供給することの経済的価値を再び学ぶであろうから。

明確に違いを際立てるのはスペクタクルである。しかし、歴史に学ぶならば、あらゆるジャンル、あらゆる予算の映画がこのあとに続くだろう。なぜならば、未来の映画は壮大な作品ばかりではなく、何時間も観客を集中させることが出来るほど独創的な映画作家が登場するかどうかにもかかっているからだ。」

ここで彼は、1:映画館はスペクタクルを体験するための場所になる、2:未来の映画はスペクタクルばかりではなく、独創的な映画作家によっても支えられる、という2つの内容を語っている。

まず、1に関しては、すでに多くの人が指摘している通り。映画館は特別な日に家では味わえない特別でスペクタクルな体験をするための場所になる。しかし、それはすなわち映画が大衆娯楽ではなくなるということでもある。さらに、スペクタクル産業としては競合するライバルもたくさんいる。

おそらくハリウッドは十分やっていけるでしょうし、むしろこの分野での世界の需要をますます独占するでしょう。しかし、それ自体が問題である。つまりハリウッド以外のマイナー映画に生きる道はあるのか?

次に、2番目のポイント。スペクタクルに牽引される娯楽産業となった映画の中で、独創的な映画作家の居場所はあるか?もちろん、あるでしょう。ノーランのように独特のテイストを備えた作家もまたハリウッドは必要としている訳ですから。

とは言え、それがすなわち、独創的な映画作家やマイナーな映画作家が生まれてくる土壌が成立することを意味してはいない。この辺、ノーランの文章は曖昧でずるいと思いました。あるいは真面目に考えていないか。
意地悪く言えば、自分は成功者ですからね。これから成功したい人間や成功しなくても生きていくべき人間のことは彼には考える必要がない。

いずれにせよ、大衆娯楽ではなくなった映画には、そのようなオルタナティヴのための土壌を自前で用意する余裕はないでしょう。むしろ、ますます効率優先になるばかりですよね。

ハリウッドとスペクタクルの殿堂となった豪華な映画館以外はどうなるか。映画というものが特別な日に味わうスペクタクルになるのであれば、そしてそれが同じ程度の値段であるならば、誰しも潤沢な予算で作られた高価なハリウッド映画を選択するでしょうし、豪華な映画館を選択するでしょう。

つまり、多様性の存在する余地がなくなっている。これが問題である訳ですが、ノーランの文章はそれに関して何も答えていない。かなり積極的に曖昧で、何か中身の伴わない希望ばかり語ってる気がします。

N10Y

月, 06/16/2014 - 09:01

数年前から分かってたことだし、これに向けて準備も進めてきたんだけど、やっぱり今の日本ではもうちょっとでも非効率なものは全て切り捨てられてしまう。映画ならブロックバスターだけ、文化は萌えやアイドルだけ。それらが悪いと言うんじゃなくて、それ以外がもう何もなくなってしまう。

これは勿論経済的理由ですけど、でもそれをほぼ国民全体で推し進めてる。政府がって言うんじゃなくて、雑誌などのメディアから文化人からネットに至るほぼ全てがその方向性を加速させてる。抵抗している人たちはあちこちに少しずつはいるけど、それは形にならないし力も持っていない。

でも、じゃあそこで切り捨てられるものを愛している人がいないかと言うと、そんなことは全然ない。それはちゃんと一定数いる。多くはないけど無視できる数でもない。ただやっぱり形にならないし力もない。ネットはこうしたものに力を与えるかと一時は思ったけど、どうもそうならない。

ネットはいまんところ世の中酷いねってみんなで首をすくめて、何かしようとする人が立ち上がろうとするとみんなで足を引っかけて転ばせて二度と立ち上がれないようにボコボコにするだけ…って言うと言い過ぎでしょうけど(笑)。でもあんまりポジティブな力にはなってないね。
もちろん、ネットにだってそうじゃない人たちはいるのよ。でも、それがまだ形にも力にもなってないのが問題。

これはしかし、映画だけの話ではないし、日本だけの話でもないです。世界中で似たような事態が進行している。だとすると、切り捨てられる文化や芸術を愛している人たち、世の中には多様なものが存在すべきだと考えている人たちで集まって、次の十年をどうするか考えなくてはいけない。

次の十年をどう作るか、自分たちで実際に手も足も使っていく人たちが集まって考えるべき、って話ですね。そして残念ながら、どんなに世の中が悪くなり事態か悪化したとしても、自分自身の行動や選択としてそれを考える人は実はそんなに多くない。世の中もネットもそういうものです。

だからこそ、映画だけ日本だけって発想じゃもう駄目。数が足りない。形にも力にもならない。今切り捨てられようとしている文化や芸術の次の十年を作るためにどうするか、ジャンルや国籍の垣根を越えて考え、そして実際に動いて行かないと駄目だと思う。しかもそれは既に緊急を要する。

そしてその場所においては、ネットは力としても形としても有効に機能してくれるはずだとわたしは思ってます。自分たちの存在を根底から脅かしているものは、実は敵でも味方でもない訳で、だからそれを敵にしてしまうのではなく味方として使える方法を考えないといけない訳だから。

—————
ヨーロッパ映画とか作家映画、アート映画、ちょっとマイナーな映画が好きなみなさん、気がつくと、もうあれもこれも消えてるじゃないですか。でも、これからまだまだ消えますよ。色々まだ言えないけど。これに危機感を感じる人はいる筈で、でも感じてるだけじゃもう駄目って話です。

と言う話をもう2年くらいわたしはずっとしてきて、ジョアン・ペドロ・ロドリゲス・レトロスペクティヴもその中でやったし、今もまた次の企画を1年くらいずっと進めてきてます。でも難しいんですよ、なかなか。世の中には経済の他にも無関心とか既得権益の壁とか強敵がいっぱいいて。

取り敢えず、法に触れない程度にうまく立ち回らないといけないね。まともにやってたら勝てる相手じゃないし、味方にもなってくれないから。

—————
私も色々オーガナイズしているから分かるけど、責任者としては経済的にもう終わりですって上から言われたらそれまでなのよ。でも、周りは本当にそれで納得できるの?爆音だってあれだけ若い人たちで盛り上がって、終わりです、はいそうですかって、本気で世の中に疑問持ったな。

ネットの署名活動はあったし、それはそれで素晴らしいことだけど…私もオキュパイ・バウス!とか口走ったけど、納得できないって人が直接行動の一つくらい計画&実行して良かったと思うんだけどな。無関係な群衆にナイフ持って突っ込むだけがこの国の直接行動のあり方になりつつあるのかな。

有名な話だけど、1968年に当時の文科相アンドレ・マルローによってシネマテーク館長の座を一方的に奪われたアンリ・ラングロワの解雇に反対して署名とか大規模なストライキとか様々な直接行動が起こって、結果彼を元通り復職させることになった。

それはいわゆる5月革命につながって、映画でもカンヌ国際映画祭粉砕事件へと結びつく。そこで映画祭会場を占拠した若者たちの一人であったゴダールが半世紀後、今年のカンヌに招かれてやはり欠席したかわりに作った作品の内容は先日inside IndieTokyoで訳出した通り。
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=508358125960156

もちろんゴダールやトリュフォーたちの行動も、全て賞賛されるべきものではなかったでしょうが、でもそれがあったおかげで守られたもの、変化してきたものはたくさんある。ところが、とりわけ日本だと学生運動に対する過度な反省と反発ばかり残ってしまって、今や何の運動も起きない国になった。

学生運動に対する過度な反省と反発は事実として世間にあるから、これは考えなくちゃいけないのよ。でも一方で、群衆にナイフ持って突っ込むしかもはや行動しようがない社会になっちゃったというのも事実としてある。だから、そこで本当に必要とされてるものは何か。それを考えなくちゃいけない。

シネクラブ2014/06/14

水, 06/11/2014 - 15:36

アンスティチュ・フランセ横浜シネクラブのお知らせです。

6月14日(土)
会場:東京芸術大学馬車道校舎
http://www.fm.geidai.ac.jp/access
※上映終了後、私のトークが付きます。

14時〜
『公共のベンチ(ヴェルサイユ右岸)』
(フランス/2009年/115分/カラー/デジタル/英語字幕付)
監督:ブリュノ・ポダリデス
出演:カトリーヌ・ドヌーヴ、ドゥニ・ポダリデス、オリヴィエ・グルメ、ジュリー・ドパルデュー、ティエリー・レルミット、キアラ・マストロヤンニ、エマニュエル・ドゥヴォス、マチュー・アマルリック、イポリット・ジラルド、ミシェル・ロンズデール、ニコール・ガルシア

リュシーが会社にやってくると、向かいの建物の窓に「独身男」という黒い垂れ幕が下がっていた。これは冗談なのか?心の叫びなのか?誰かが助けを求めているのか?リュシーと同僚は真相を究明する決意をするのだが…。

「ポダリデスの作品は、ジャック・タチの映画の伝統を引き継ぎ、喜劇の中に詩情が溢れている。そして、よりいっそうパーソナルな自由がある。オリヴィエ・グルメ、ブノワ・ポールヴールドらをはじめとする、豪華な顔ぶれの仲間の俳優たちが映画に花を添える。バーレスクな調子と、まれに見る的確さで描かれた感受性溢れる映画に。」

http://www.institutfrancais.jp/yokohama/events-manager/cahier5/

—————————-
16時半〜
『7月14日の娘』
(フランス/2013年/88分/カラー/DCP/日本語字幕付)
監督:アントナン・ペレジャトコ
出演 : ヴィマラ・ポンス、ヴァンサン・マケーニュ、ブリュノ・ポダリデス

7月14日、 勤務先のルーブル美術館でトリュケットという娘に出会ってからというもの、エクトルの頭は彼女でいっぱい。友人パトールも巻き込んでトリュケットとその友達シャルロットを海に誘う。シャロットの弟ベルティエも仲間に加わり、いざ海を めざしてフランスの田舎道を進むが彼らのほかに車はない…。というのも、世の中は経済危機のただ中なのだ。そんな時、政府はバカンスを1か月短縮することを決定し、国民に早々に仕事を再開するよう要請?!はたして「7月14日の娘」たちは無事に海にたどり着けるのだろうか…。

2013年カンヌ映画祭監督週間出品作品。
「本作は喜ばしい成功であるだけではなく、最近のフランス映画では放棄されていた領域に果敢に踏み込んでいる。それは非自然主義的コメディという領域である。」(シリル・ベガン、「カイエ・デュ・シネマ」)

http://www.institutfrancais.jp/yokohama/events-manager/cahier6/

—————————-
当日券のみ。会場にて開場時より販売。一般1200円、会員600円、芸大生無料 (同日2本目は一般も600円) 1本目と2本目のチケットの同時購入可能。開場は、各回30分前より。整理番号順でのご入場・全席自由席。
問い合わせ:045-201-1514

会場:
東京藝術大学 (横浜・馬車道校舎)大視聴覚室
〒 〒231-0005
横浜市 中区本町 4-44

中国で上映禁止となった『紅い夜明け』(抄訳)

金, 06/06/2014 - 17:47

CINEUROPAに掲載された『紅い夜明け』についての記事を以下に抄訳します。
I translated this article in Japanese to show our solidarity with Joao Pedro Rodrigues and Joao Rui Guerra da Mata.
http://cineuropa.org/nw.aspx?t=newsdetail&did=258394&fb_action_ids=10203669863288395

中国で上映禁止となった『紅い夜明け』(抄訳)

先頃北京で開催された「Where is China?」展覧会からジョアン・ペドロ・ロドリゲスとジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタ監督による2011年の短編『紅い夜明け』が取り下げられた。ポルトガル短編映画エイジェンシーAgenciaはこの件に当惑している。
Agenciaによると、作品はイベント開催の一時間前になって突然上映禁止になったとのことだ。(作品が記載されている)パンフレットも回収された。開会式にはポルトガル大統領アニーバル・カヴァコ・シルヴァも出席していた。

AgenciaのSalette Ramalhoは次のように語っている。
「『紅い夜明け』は詩的で視覚的に驚くべき力を持つドキュメンタリーです。客観的な観察に力点が置かれており、マカオの有名な市場レッド・マーケットで動物たちがいかにして食用に供されるか、その儀礼的動作の現実をとらえています。この作品が何故上映禁止になった中国政府からの説明はまだありません。作家たちとの連帯を表明すると共に、大統領が出席する場でこのような事態を招いたことに対するポルトガルの外交的力不足を残念に思います。」

展覧会キュレーターの一人であるLuis Alegreは次のように語る。
「私は個人的にも職業的にも検閲には絶対に反対です。私たちはこの展覧会を企画した当初から、中国が検閲国家であることに常に意識的でした。
展覧会の名称「Where is China?(中国ってどこ?)」とは、現在世界的に拡張しつつある中国それ自体を問うための反語的なレトリックです。
それは、今日の世界に於けるイメージの重要性を意識したものでもあります。
どのような体制であれ、イメージを隠そうとするものは、手酷いしっぺ返しを食らうことになるのです。
残念ながら、今回そのような暴力が27作品中の2作品に対してふるわれてしまいました。
この暴力が及ぼす結果は、作家たちばかりではなく、中国の観客たちにとっても明らかに感じられたでしょう。イメージの不在として。」

ジョアン・ペドロ・ロドリゲスは次のように語る。
「映画監督として、私たちは常に最大限の観客に自分の作品が届けられることを願っています。そして今回は、中国とポルトガルのアーティストの対話という場で北京の観客に自作を見てもらえる素晴らしい機会でした。
『紅い夜明け』は中国の一部であるマカオ文化省支援の元、マカオで撮影されたものです。そしてそれはマカオの有名な市場のドキュメンタリーでもあり、この作品が検閲問題を起こすとは私たちは全く考えていませんでした。私たちは北京にはおらず、中国政府からもいまだにこの受け入れがたい状況に対する説明を得ていません。
ポルトガル大統領がこの件に対して何のコメントを出さないことも、同様に受け入れがたいことです。

ポルトガル大統領および大統領府はこの件について何のコメントも出していない。

2014.05.10 シネクラブのお知らせ

金, 05/09/2014 - 07:58

5月10日(土)アンスティチュ・フランセ横浜シネクラブ

14:00〜
『壁にぶつかる頭』La tête contre les murs
(フランス/1959年/95分/モノクロ/デジタル/日本語字幕付)
監督:ジョルジュ・フランジュ
出演:ジャン=ピエール・モッキー、アヌーク・エーメ、ピエール・ブラッスール、シャルル・アズナヴール
http://www.institutfrancais.jp/yokohama/events-manager/cahier3/

高名な弁護士のジェラーヌ氏は、反抗的で情緒不安定な息子のフランソワを精神病院に入れた。フランソワは、伝統を重んじる院長のヴァルモン医師と、現代的なメソッドを採用するエムリー医師の対立を目の当たりにする。精神病ではないフランソワは、癲癇患者のウルトゥヴァンとともに病院から逃げ出すが…。

——————————————
16:00〜
『燈台守』Gardiens de phare
(1929年/フランス/82分/モノクロ/35mm/サイレント/日本語字幕付)
監督:ジャン・グレミヨン
出演:ジェニカ・アタナジウ、ガブリエル・フォンタン、ヴィタル・ジェイモン、ポール・フロメ
http://www.institutfrancais.jp/yokohama/events-manager/cahier4/

ブルターニュ地方の海沿いの小さな村に住む燈台守の父と息子は一ヶ月の間、女たちのもとを離れ、海の上での任務に就く。息子イヴァンには婚約者との別れがつらい。そのイヴァンが燈台の中で狂犬病を発症し、苦しみ始め、徐々に父親に対して攻撃的になっていく。海はどんどん荒れ始める。父は、息子の攻撃をかわしながら、遭難船を救うために灯をともさなければならない…。海と陸、男たちと女たち、光と闇、両者のコントラストが本作に宇宙的な広がりを与えている。
「グレミヨンは事後の映画作家である。不幸が起こった後、人間がどのようにそれを生きていくのかを描く。『燈台守』、『父帰らず』、そして『愛慾』でも殺人はほとんど見せられない。」(ステファン・ドゥロルム)
東京国立フィルムセンター所蔵作品

本作のフィルムは毎秒18コマで制作されていますが,上映設備の都合により毎秒24コマでの上映となります。映写速度が早まった状態での上映とな ります。
あらかじめご了承ください。

※上映後、映画評論家・大寺眞輔氏による講演があります。

——————————————
当日券のみ。会場にて開場時より販売。一般1200円、会員600円、芸大生無料 (同日2本目は一般も600円) 1本目と2本目のチケットの同時購入可能。開場は、各回30分前より。整理番号順でのご入場・全席自由席。
045-201-1514

東京藝術大学 (横浜・馬車道校舎)大視聴覚室
〒 〒231-0005
横浜市 中区本町 4-44

試写日記『収容病棟』

金, 04/18/2014 - 02:54

試写日記『収容病棟』ワン・ビン:素晴らしい!ここには口当たりの良いメロドラマがなければ、社会へと向けられた紋切り型のメッセージもない。ただ、彼らと共有する時間の強度、日常の反復、鉄格子、マージナルなものへと向けられた真摯でおだやかな眼差し、そして様々な人生だけがある!

4時間もの時間を精神病院に収容された人々への凝視に費やす体験は、たとえば『それでも夜は明ける』といった作品を鑑賞して、主人公の境遇に共感して涙を流したり、社会に対して怒りを感じて拳を振り上げるのとは全く違った時間と感動と体験の質を観客である私たちにもたらします。

それは精神病院という特殊な境遇の中で生きる人たちと共有する時間そのものであり、私たちの世界からは隠された場所に生きる者たちの人生そのものであり、さらには人生そのものであるかもしれません。もしかすると、ただ映画だけが発見することの可能な人生の輝きこそがそこにはあるのです。

『収容病棟』6月にイメージフォーラムで公開みたいです。必見!

『収容病棟』は、男性が収容された3階の鉄格子で遮られた廊下をグルグル回り続けるような(腰の高さくらいの?)カメラに独特の世界観とスタイルがあってそれも本当に素晴らしいんだけど、過度に審美的にならない映画作家としての倫理観みたいなものも強く感じられる。

『収容病棟』では、邪気のない笑顔を振りまくんだけど、体中に文字を書き続け、隣にいる年長者をボコボコ殴ろうとする少年も登場して、彼はブカブカの服が奇妙にかわいくて、その寝姿で前半が終わるように下手するとキャラ化寸前なんだけど、やっぱり人間としての手応えがすごくてそれを許さない。

映画の持つこうした凝視の力ってのはやっぱり圧倒的であって、現代において映画を作ろうとする者は、もちろんその試みの方向は多様であるべき何だけど、いずれにしても、こういう力強い作品と対峙しつつ、では自分はどうやってその圧力に対抗するかって覚悟を持って欲しいと思った。

「映画は映画である」についてもう少し

水, 04/16/2014 - 03:32

私はしばしばシネフィル批判するシネフィルなんだけど(笑)、それはシネフィルというトライブを批判しているのではなく、その中の「映画は映画である」という同語反復にのみ安住する心の傾向とそれに伴う様々な弊害を批判したいから。

よくシネフィル批判してる人見てると、トライバルウォー仕掛けたいだけの単純な言説が多く、あまり興味ないし不快なケースも多い。一方、日本映画界ではあまりに「映画は映画である」が君臨しすぎてると思う。色んなタイプの人がいるけど、でも殆ど共通して同じ傾向がある。

「映画は映画である」については先日も書いたけど、そこで何が問題になるかというと、一つには新しいものへの知的好奇心が失われがちだってこと。勿論変われば良いってものではないけど、変わらなすぎるのも問題あるわけよ。とりわけインディペンデントでやってる人間には死活問題だよ?

あ、私はインディペンデントだろうがDIYだろうが、喜んで使いますよ!それで伝わるもの、拡がるものがあればそっちの方がずっと大事だから。ももクロよく知らないんだけど、ももクロが個人映画やってたとしてこういう言葉回避したりdisったりするとは絶対思えないしな。

よく知らない憶測を何重にも重ねた不用意なこと喋ってますが(笑)。まあ、そういう言い方が良いのではないかと思った。間違いだったらいつでも訂正しますー

「映画は映画である」は、人を敬虔な信徒かファナティックな狂信者か、いずれにしても線の細い真面目なタイプにしがちなんだけど、それを否定的に乗り越えようとする人たちは基本的にロックとかヒップホップとかヤンキーとかワイルドな方向に行きがちで、これもパターン決まっていて実につまらない。

「映画は見世物である」から始まるあれこれ

月, 04/14/2014 - 02:35

「映画は見世物である」という定義に対し先日私が書いた疑問について、もうちょっと。映画は見世物か?まず、これは必ずしもそうとは限りません。なぜなら、見世物として大成功した作品より、それより見栄えせず観客も少なかった方が人の心に深く残り映画史に刻まれる場合も多いから。

あるいは、殆ど誰も見ることのできない、すなわち見世物としてそもそも成立していない作品が映画としてとても大きな力を持つという不思議なケースもあります。「映画は見世物である」という定義を絶対なものと思い込んでしまうと、こうしたダイナミクスが見失われてしまう。

では、映画とは何か?「映画は映画である」。この同語反復が唯一正しいようにも見えるかも知れません。しかし、ここにも問題がある。つまり私たちがそう断言するとき、それが見世物である、科学技術である、芸術である、現実である、浮薄な現在であるという様々な可能性が意気阻喪するから。

だから、まずはここから始めるべきだと思うのですね。まず、映画は映画である。そしてそれと同時に同じ重要性を持って、映画は映画以外のものでもありうる。それは、見世物でもあるし、文化でもあるし、芸術でもあるし、娯楽でもあるし、それらとは逆のものでもあるかもしれない。

ただし、ここで一気に多様な可能性を開示してしまうと、それらが単なる漠然とした全体として曖昧に放棄されてしまう。とりわけ、日本というのはそういう国です。だから、私たちは常に「映画は○○である」という言葉が口にされるとき、同時に映画は非○○かもしれないと考えるべきだと思う。

例えば、ゴダールが「映画は1秒間に24コマの真実だ」と言って、それに対してデ・パルマとかが「24コマの嘘だ」と言ったという話があって、こうした時、私たちはそのどちらか(とりわけ最近の日本では後者)のみを正しいものとして主張しがちだと思う。

でも、やっぱりそれは違う。両者は同時に存在するから意味があるわけです。あるいはさらに言うと、ゴダールの言葉にその弁証法が既に含まれている。ゴダールという映画作家は大きく言うと編集(嘘)によって自分の作品を作るタイプのシネアストです。それがああいう言葉を口にすることに意味がある。

弁証法ってのはポストモダン以降とても評判の悪いものの考え方の作法だと思いますけど、でも、弁証法を否定した後、私たちはそこで豊かな多様性の側に行くことができれば良いですが、現実にはとてつもなく単一のファシズムの側に行き着きがちな訳ですよ。私たちの現在がそれを証明してる。

あるいは、個人的な話ですが、冨永昌敬が「亀虫」をDVDにしたとき、私はそのライナーノートで彼のリアリズム性みたいな話を書きました。これも同じことです。冨永昌敬はどう考えてもフィクション性の強い作品を作る作家ですが、そう断じてしまうとそこで見えなくなるものがたくさんある。

だから、敢えて逆に考えてみるのはとても重要だと思うのですね。敢えて冨永昌敬をリアリズムの作家だと考えてみる。映画は見世物じゃないと考えてみる。映画は映画じゃないと考えてみる。こうした弁証法を通じて私たちはそこから先に様々な可能性が拡がっていることに気づく。

その可能性の拡がりこそが重要なのです。誰か偉大な映画人が「映画とは○○である」と口にする。そしてその言葉を唯一絶対なものとして信奉する人々がそれ以外の可能性を愚かなものとして排撃してしまう。これでは、映画はあっという間に滅んでしまう。この映画という言葉を日本に置き換えても同じ。

映画とは何か?その問いかけというものは、それに一度答えを与え、しかしまたその正解だと思える答えに対して自ら敢えて否定を試み、別の可能性に置き換えていくという一連の作業と時間の中でのみ意味を持つものなのだと私は思います。

あるいは、自らを否定しにやってくる他者を受け入れる。それも同じことだと思います。そして、批評家というのは、しばしばそういう存在であろうとする者のことだと私は思いますね。それは、映画とは○○であるという心地よい断言が支配する空間に否定と逡巡による時間を導入する。

もちろんここでまた、いや、映画批評家とはそうした存在ではないのだって否定が併置されるべきなのですが(笑)、まあ後は以下同文と言うことで。

アラン・ギロディ特集@シネクラブ

日, 04/06/2014 - 14:28

4/12(土)アラン・ギロディ特集@アンスティチュ・フランセ横浜シネクラブ!

14時『キング・オブ・エスケープ』日本語字幕フィルム上映
http://www.institutfrancais.jp/yokohama/events-manager/cahier1/
16時『湖の見知らぬ男』英語字幕DCP上映
(この傑作が本当に見られるべき正しい形で日本で見られるのは、きわめて高い確率で今回が最後になると思われます。万難を排して駆けつけるべき!)
http://www.institutfrancais.jp/yokohama/events-manager/cahier2/

当日券のみ。会場にて開場時より販売。
一般1200円、会員600円、芸大生無料 (同日2本目は一般も600円)
1本目と2本目のチケットの同時購入可能。
開場は、各回30分前より。整理番号順でのご入場・全席自由席。
045-201-1514

東京藝術大学 (横浜・馬車道校舎)大視聴覚室
〒 〒231-0005
横浜市 中区本町 4-44

上映後私のトークが付きます。
2本立てで両方見ると2本目は半額ですよ。
よろしくお願いします!

映画のことやゲームのこと

金, 03/28/2014 - 16:32

下で書いた『それでも夜は明ける』における現代映画のエッジなメソッドを古典的物語映画と折衷してあのように大成功収めたことに対する肯定ないし否定を議論するってのはとってもアクチュアルな問題だと思うんだけどなあ。根本的に現代映画という問題自体がこの国では不在なのかも知れない。

もちろんある種の古典映画は現在でも撮られているし、見られるべきだし、面白いし、インスピレーションの源なんだけど、そこで古典的物語映画(A)/現代映画(B)という世界映画の現在へと到達すべき最初の溝ないし亀裂ないし転換点となる大きな問題が認識されず、あくまで(A)一元論、ないし(A)とその不可能性という否定神学的構造の中で映画がとらえ続けられているのが日本の映画状況ないしそれを取り巻く言説における今日まで続く最大の問題の一つであるのかも知れません。

————————
今年に入ってAAAタイトル作ってた大手ゲームスタジオがバンバン閉鎖してバンバンレイオフ進んでるし、インディーゲームへの流れとかEarly Access現象ってのもあるから、今、映画からゲームへの物語媒体の移行って図式を作るのはやや首を傾げる部分がある。

むしろ、ハリウッドに憧れて大型化を進めてきたゲーム業界にあって、ごく少数の圧倒的勝ち組を除いた本格的危機に直面しているのがこの一二年の流れで、その中でもう一度「ゲームとは何か?」って根源的な問い直しが起きているのが現状だと思う。

例えば「バイオショック」シリーズを作り世界的に影響力の強いケン・レヴィンなんかが、自身が作り上げたイラショナルゲームズをわずか15名のスタッフにまで縮小したんだけど、その背後にも同じ危機感があったし、一つの物語を作品にするまで7年もかかるような現在のAAAタイトル製作はあまりに不合理だしリスクが大きいし、それ以上にゲームのあるべき姿じゃないって発言をしてる。彼の次の作品は物語をレゴブロックのように自由に組み合わせたり展開出来るという野心的なものになるらしい。

だから、当たり前のことなんだけど、映画とゲームはやっぱり「違う」。その絶対的な違いを前提にお互いの良いところや問題点を見て学んでいくべきであって、安易な比較やあっちはこんなに新しい!とかすごい!みたいな話はとても危険だと思う。

『それでも夜は明ける』

金, 03/28/2014 - 09:41

『それでも夜は明ける』スティーヴ・マックイーン:試写逃しちゃったので、ようやく見ました。すでにアカデミーはじめ多数の大きな賞に輝き賞賛に包まれている作品なので改めて言うまでもないですが、これは確かに素晴らしかった。マックイーン作品としても完成度が図抜けて高い。

現代映画の一つの傾向として、ある極限状態の中で人間性を奪われ動物や物として扱われる人物への執拗な凝視を通じて、フィルム体験を圧倒的な強度の中に置き、観客を同様の状況内部に引きずり込むというものがあります。ペドロ・コスタや王兵が典型的ですが、マックイーンもまたそれに近い。

ハンガーストライキを描いた処女作『ハンガー』はまさにそうした作品で、ただマックイーンの場合、現代映画のエッジを保守的な物語映画の中へうまく折衷的に取り込む技術にも長けていて、それが今回の大成功へと結実したように思う。それが良いことか悪いことかは議論されるべき問題として。

(こういう議論はちゃんとすべきだと思うんだよ。)

ただ、日本タイトルの『それでも夜は明ける』は個人的に違うと思う。黒人奴隷問題を扱った作品ですが、白人による黒人の奴隷化と搾取と人間性の剥奪という問題以上に、同じ状況に置かれた筈の黒人同士さえ隔てる(カポ問題にも近似する)支配システムの残酷さこそ描いていて、

だから主人公が奴隷から解放されることが決して単純な勝利のカタルシスを観客に感じさせることがなく、それこそこの作品の主眼となっているから。

また、ポール・ダノ(最高!)らに縛り首にされそうになった主人公がそのまま苦痛に耐えつつ長い時間衆人環視(他の奴隷は手出し出来ない)の中で絶え続ける姿など、この作品で最も美しく、かつ凡庸なメロドラマからは限りなく遠い場面でしたが、あれもまた同じ主題に基づいてる。

マックイーンとしては、だから彼の作家性が最も活かされた成功作になったと思うのですけど、ただし、一つ思うのは、こうした極限状況下における人間性の剥奪=フィルム体験の強度という映画メソッドって、本質的にマージナルやマイノリティ、地方へと向かわざるを得ないんですよね。

勿論それが悪いわけじゃないですし、また、マージナルであればあるほど映画は世界的なものになるってルノワールの言葉に忠実だとも言えるんですが、でも同時に映画はやっぱり現代世界をその真ん中で描きたいって野心が一方であると思うんですよ。そこが引っかかる。

(こういう議論もちゃんとすべきだと思うんだよ。現在の日本の映画界隈って、こういう現代映画にとって最も重要な筈の議論が根こそぎ欠けてると思う。)

で、マックイーンの第二作『シェイム』はそれをやろうとしたと思うんですね。つまり、セックスアディクトという切り口を使うことで、極限状況映画メソッドを都市の映画として、ある種のメロドラマのタッチと共に発展させようとした。

必ずしも成功作だとは思いませんけど、でもその作家的野心は理解出来るし、面白いと思った。で、ジョアン・ペドロ・ロドリゲスの『ファンタズマ』は、同じラインでたぶんずっと成功した作品になってると思う。自分が公開したってこと抜きにしても、あれはきわめて重要な意義を持つ傑作です。

マックイーンとしては、今回の作品が主題的にも、自らの本来の作風と保守的なドラマ映画との噛み合わせという意味でも、あらゆる意味でうまく運んだ作品になったとは思いますが、今後どうなるかはまだ微妙ですね。ハリウッドのシステムに入っちゃうとまた難しい部分も出てくるでしょう。

ちょうど良い規模と主題の作品に恵まれ続ければ良いなあと願います。まあ、それが現代社会においては一番難しいんだけど。ともあれ、『それでも夜は明ける』は素晴らしい作品なので、未見の人は絶対に見るべき。

世界を相手に(と共に)闘うために #2

木, 03/27/2014 - 06:00

昨日、日本ヤバイ、文化も映画もヤバイって話書いたら、もう海外に出ないとどうしようもないってコメント幾つかもらって、それは現状としてある程度その通りだと思うし、実際、私の周りの若くて優秀な人はどんどん留学したり海外に出て行ってる。

で、可能なら是非そうすべきだと私も思いますが、ただ、本質的な部分では海外も日本も変わりないってことも考えるべきだと思う。日本特有の問題もあるけど、でもバブル期のような特殊なことは世界的にあまり期待出来ないし、それは日本に限ったことじゃないってこと。

例えば、昨日書いた『エイプ』のジョエル・ポトリカス監督だって、今や世界中の映画祭で引っ張りだこになってますけど、最初にロカルノ映画祭にエントリーした時なんて、渡航費なくて卒業した映画学校にサポート頼んだらTシャツ2枚渡されて、これ売ってお金にしなさいって言われたらしい(笑)。

シェーン・カルースの処女作『プライマー』だって製作費たった70万円だよ?バイトで稼げる額だよね。ただし、彼は完成までに数年かけていてその間ものすごいエネルギーと時間をそこに注ぎ込んでる。だからこそminiDVで編集した作品がハリウッド映画に負けず世界中で話題になった。

実際、彼はハリウッドからも熱い注目を浴びて、ソダーバーグやデヴィッド・フィンチャーのプロデュースで数十億かけたSF大作を作ろうって話でその後10年動いたんだけど、みんな君の才能はすごいって言うくせに全然財布のひもを緩めようとはしなかったって(笑)。

で、諦めた彼は自力で数百万円集めて『アップストリーム・カラー』作って、これがまた世界中で年間ベストテンにランクインするほど賞賛を集めて、彼は今回配給も全て自分でやってるから、その資金でまた次の作品を撮ろうと準備してる。

だからアメリカでもポルトガルでもフランスでも、本質的には変わらないのであって、つまりいわゆる顔のないシステムに属する蜃気楼のような1%と私たち99%の戦いがそこにある訳ですよ。その世界的な戦いの現状が何故か見えない日本って問題はあるけどね。

1%に入りたい、実際には入る手前で抜け殻になるまで搾取されて終了かもしれないけど、それでも1%に入りたいって人はそうすれば良いと思う。でも、それだけが私たち99%に許された可能性だというのではあまりにも希望がないよ。

実際、今の映画業界の人と話していても、その目線は全然若い人の方に向いていないから。もちろん、中にはまだまだ良心的な人や良質な文化はあるから侮っちゃ駄目だけど、でも本質はそうだよ。過去を向いてる。だから、そこからステップアップしてって夢を描いても現実厳しいと思う。

1%だけを目指して、憧れて、夢を抱いて、そして必然的に絶望するからこそ、私たちは孤独や疎外感を感じるし、シニカルにもなっちゃう。でも、逆に言えば同じ孤独を感じている人は世界中にいる訳であって、なにせ私たちは99%もいる訳です。圧倒的です。だから、その中で繋がれば良いわけです。

もちろん、99%の人間と繋がる必要は全然なくて(笑)、逆にそれだけ数がいるわけだから、その中で繋がるべき人を厳選して繋がれば良い。と言うことはつまり、自分もまた相手から選ばれる人間にならなければいけないってことだけどね!

こうした自覚と幾つかの必要条件さえ満たせば、私たちは素晴らしいインターネットとSNSの時代に生きてるんだってことを驚きと共に発見すると思うよ。孤独な場所で自分一人で何かやってた人が、次の瞬間には多くの人々と連帯してしまっている自分に気づく。それが今だと思う。

で、私は今そういうことの手伝いをしたいと思って、昨年からずっとひそかに動いてます。去年、ジョアン・ペドロ・ロドリゲスのレトロスペクティヴをインディペンデント映画祭として自力でやって、こうした試みが世界的にもものすごく意味のあることだって分かった。いろんな可能性が見えた。

その可能性を、だから今度は多くの人たちと共有したいと思ってる。そしてそれが、99%の私たちが1%を目指さず、芸術的野心を捨てず、そして人間性を捨てず、でもチャンと自分なりの充実感と手応えを持って生きていくことのできる道の一つになれば良いと思う。

あと、シネフィル×アンチ・シネフィルって下らない対立図式はそろそろやめようよ。シネフィルに問題あるのは事実だし、膨大に映画見なくても映画作れるのも事実だけど、でも、他人の作った素晴らしい映画知らずに自分だけは良い映画撮れる才能あるって、その根拠はどこにあるの?

それに、アーティストとか映画作家とか批評家とかってのは、そういう溌剌とした興味や好奇心を備えているべき人種じゃない?そうあって欲しいと思うし、逆に言えば、少なくとも私はそういう人にしか興味ないな。だいたい、映画に関わる人間が映画見てなくて、じゃ、誰が映画見るわけ?

もちろん、誰しも膨大な可能性の中から常に選択して生きているわけで、全てのものに関心を寄せる必要なんて一つもないけどね。

それに、国内であれ海外であれ、とりわけ国際的関係においてそうだけど、映画の世界の人間は映画の話することでお互いの場所を確認し合うし、友達になるわけ。それは国際映画祭で爪痕残すための戦略じゃなくて、あるいはそれ以上に、映画の世界で生きることの本当の意味じゃないかな?

アメリカとかポルトガルとかフランスとか中国とかで映画やってる面白い連中と友達になること目指して映画作家や批評家やる人が国内にもっと増えて欲しいと本気で思う。

世界を相手に(と共に)闘うために

木, 03/27/2014 - 06:00

80年代頃から日本の文化が世界最先端に躍り出て刺激的なものを次々に生み出したのって、その背景には海外文化が怒濤のように押し寄せてきたからってのがあって、これは戦後にドッと入ってきたアメリカ映画を浴びるように見たフランスの若いシネフィルがヌーヴェル・ヴァーグ起こしたのに近いけど、その後、不況になって今や誰もが知るように海外の新しい文化はなかなか紹介されなくなった。それでも音楽とかは言語関係ないしむしろネット時代のアクセスの容易さに助けられると思うけど、映画はやっぱ言葉の壁が大きくて国内外の情報格差がすさまじく広がってきてる。これは怖い。

しかも、映画批評家やライターでさえ国内に残った映画ビジネス内部で生きてるから海外の情報とか知らない人が殆どだし、そんなこと知らなくて良いんだ、映画は大衆と共に生まれるものなんだって保守的&反動的ロマンチシズム振り回す人ばかりって現状で、何度も書いてるけど私は大変危機感持ってる。

と言うか、若い人はもっと危機感持たないと駄目だよ。これは本当に危険な状況だよ。日本語しか出来ない人が日本の中で日本サイコーって唯我独尊に思い込んでるのって、別に排外主義者ばかりにとどまらないんだから。ほぼみんなそうなりつつある。文化やアートや映画でさえ同じってのが恐ろしい。

と言うのも、今映画も本格的にデジタル時代に入って、明らかに新しい表現や感性やスタイルが世界的に生まれつつあるのよ。それ知らずに恐竜時代のロマンチシズムで恐竜時代の映画を恐竜とは比べものにならない貧弱な肉体で生み出し続けても、それはなかなか世界相手に闘えないよ!

フィルムと共に自分はもう死んでいきますって覚悟決めた老人は良いのよ。明確な意志を持ってそうやってる偉い人もいるし、その気持ちはとってもよく分かるから。でも、それはそれであって、若い人は同じこと考えてちゃ駄目でしょ!デジタル時代の映画を生きてかなきゃいけないんだからさ!

以前、ユーロスペースの堀越さんにインタビューしたときにも、私たちは今映画史上最大の革命に直面しているって話を聞いて、これは他にも多くの人が述べているのですが、確かにものすごく大きな変化が起きているし、次々に新しい試みが生まれ、別種の可能性が模索されてると思う。

そうした変化のただ中で人はどういう態度を取りうるかって問題に関してよく言及されるのはアドルノとベンヤミンで、つまり芸術の深遠を見つめ浮薄な現在を蔑視することで、しかしまさに自らの足下で生まれつつあった映画という新しい芸術の誕生をみすみす見逃してしまったアドルノか、それとも軽薄の誹りを怖れずきらびやかな現在にとことん寄り添い、その最良の可能性を見出すことを志したベンヤミンかって選択であって、もちろんここには現在であるからこその反転や捻れもある訳で、ベンヤミン的であるためには時にアドルノ的言説に与する必要もあるように思うんだけど、でも、根本的な世界への応答の仕方として、やはりこの両者の対立図式は現在でも有効であると思うし、そこで私はもちろん基本的にはベンヤミン的でありたいと願ってる。

『エイプ』

水, 03/26/2014 - 10:05

『エイプ』ジョエル・ポトリカス:ポトリカスの処女長編であり、『コヨーテ』主演のジョシュア・バージと再び組んだ作品。続く『バザード』も同じくバージ主演で、アニマル・トリロジーと(たぶん冗談半分に)位置づけられてる。超超低予算故の疵もあるが、それ以上にその圧倒的なパワーがすごい!

ポトリカス&バージからは、カラックス&ドニ・ラヴァンやスコセッシ&デ・ニーロといった映画史上の名コンビをたやすく連想させられると思う。スコセッシからフェラーラへと続くアメリカン・インディペンデントのド本流を歩むと同時に現在のそれに対する暴力的なエイリアンでもある。

うんざりするほど退屈で肩すかしばかりの鬱屈した毎日を送るスタンダップ・コメディアンが少しずつ現在の資本主義世界が胎む暴力と狂気に犯されていくって作品で、『キング・オブ・コメディ』なんかすぐに思い出すし、ジャームッシュやクローネンバーグだったりもする。

ポトリカスは実際に一時ニューヨークでスタンダップ・コメディアンやってたらしく、その時感じた孤独と疎外感と退屈と怒りをたっぷり詰め込んだ作品になってる。「真実の映画だけを撮りたい」って彼は言ってる。同時にコミックやホラーのテイストもたっぷり。その壊れたバランス感が面白い。

週末に友人たちを集めて撮影し、お金が足りないときは家にあったビール缶を売ったりして撮影続けたらしい。で、友人の友人辿って映画見てもらう内にロカルノに呼ばれて2つの大きな賞と賞金を獲得し、それで作った第二作は先日のSXSWで大評判だったという、まさにエマージング・スター!

実際、私も彼の『コヨーテ』がメチャ良かったとTwitterに書いてた流れで友達になって、こうやって『エイプ』見せてもらっちゃった!超ラッキー!いやあ、すっごい時代になったよ!一方で私たちを隔てる壁は高く厚くなるばかりだけど、繋がるときにはこうやってあっさり繋がれたりする!

「顔のないシステムへの怒り」をポトリカスは様々なインタビューで口にしてるけど、そしてそれを前にすれば勿論孤独と疎外感ばかり私たちは感じちゃう訳だけど、でも、孤独なのは自分一人だけじゃないし、その繋がりは別に友人たちや日本国内だけにとどまる訳じゃないってことを忘れずにいたい。

『エイプ』や『バザード』が評判を呼んで世界中から買い手殺到したみたいなんだけど、ロカルノ後のインタビューでしばらくは世界中の映画祭サーキットに呼ばれて旅することを楽しみたいし、すぐに作品売るつもりはないってポトリカスは答えてる。だって、この瞬間を楽しみに生きてきた訳だからって。

いいなあ、そういうの。みんな、いや、みんなじゃなくて良いけど(笑)、インディーで映画撮ってる人とかこういう生き方目指そうよ!で、『バザード』の方はMCAが設立したオシロスコープが買ったようで、それも背景感じる本当にいい話だ!

『エイプ』予告編 https://www.youtube.com/watch?v=S3qd3kdVzKw

『オーバーシンプリフィケーション・オブ・ハー・ビューティ』

火, 03/25/2014 - 08:20

『オーバーシンプリフィケーション・オブ・ハー・ビューティ』テレンス・ナンス:こーれはすごい!何て言ったら良いんだろう?ポスト・ゴダールのダブステップ/ヒップホップ・シネマ?ポエティックなディコンストラクティヴ・ブラックムービー?好き嫌いはともかく絶対見るべき作品だよ。

超複雑な構成と語りとビジュアルスタイルとテクニックを総動員して語られる、美しい女性と行き違った僕の感情と思考の全てをポエティックで音楽的に表現した作品って感じで、超難解で超抽象的な台詞がハードカバー一冊分ほど語られるけど、同時にアルバム一枚聞いた位の軽やかさもある。

タイトルは、「彼女の美に対する過度の単純化」って意味だけど、これは原題そのままの方が格好いいからそうした。

先に予告編貼ろう。見て、今すぐ!『オーバーシンプリフィケーション・オブ・ハー・ビューティ』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=COpJwAeuWHo

ガールフレンドとのちょっとした行き違いを描いた自らの短編映画に対する過度の注釈と反省と回顧と過ぎゆく時間と、それにまつわるQ&Aセッションなどのドキュメンタリーフィルムと様々なスタイルのアニメーションを後藤明生みたく一つの鍋にぶち込んで奇形的に膨張させたような作品。

とりわけインディペンデントで映画撮ってる人には必見のアイディアの宝庫だと思うし、新しいスタイルが映画にはまだ可能なんだってことにショック受けて欲しい。ゴダール好きだけど、あのクラシック趣味は合わないって人にも。面白い作品だと言うばかりでなく、色んな映画の可能性を感じる。

(いやあ、正直言うと、こういう映画を自分でも撮りたいとずっと思ってた(笑))

ラウル・ルイスの『失われた絵画の仮説』(必見!)とかリチャード・リンクレイターの『ウェイキング・ライフ』に近いかな?あの辺りをもっとゴダール風にカットアップ&ディコンストラクトして、ヒップホップでエレクトロニックにアレンジ加えた感じ。いやあ、これは刺激的な映画!

面白い映画、良くできた映画、立派な映画も良いだろうけど、映画の未来のためには刺激的な映画がもっともっとあるべき!刺激的な映画を撮るべきだし見るべきなんだ!僕たちはもうずっと長い間映画のご立派で娯楽に満ちた退屈さにあまりにも慣れちゃってたよ。こんなんじゃいけない!

これ普通だと日本公開される見込みないよね。映画祭?イメフォ?あるいは誰かがDIYでやるか?字幕付けるの超大変そうだからなあ。私も今他の企画で手一杯だけどやりたいな。これと『アップストリーム・カラー』はやりたい!

『カラー・ホイール』

月, 03/24/2014 - 08:25

『カラー・ホイール』アレックス・ロス・ペリー:ここ数年注目を浴びる新人監督の一人で、最新作『リッスン・アップ、フィリップ』もサンダンスで大評判だったペリーの前作。『ヤング≒アダルト』に似た部分もある負け組コメディだけど、あれよりさらに辛辣で苛烈で同時に温かい。

ペリーはこれまで全て16ミリのストックフィルムで撮影しており、主人公二人による即興的な掛け合い演技を中心にしたこの作品がデジタルじゃないってのはなかなか驚き。ビジュアル的にはビンセント・ギャロとかニューシネマっぽい無造作でザックリした撮影とつなぎが特徴。

映画としては、そうね、オフビートでマンブルコアなスクリューボール・コメディって言えば良いかな。かなりオリジナルなスタイルだと思う。すっごい早口で膨大な台詞が口にされるので、正直半分くらいしか聞き取れませんが、でも同時にすっごくローテンションで今っぽいという(笑)。

アンカーウーマンを夢見るビッチな姉とギークっぽい陰鬱な弟の小旅行を描いた作品で、脚本も主人公二人を演じるペリーとカレン・アルトマン自身によって書かれている。物語的にはペリー自身がフィリップ・ロスとピンチョンに最も影響を受けたと語っていて、これは確かにロスっぽい気も。

因みに処女作『インポレックス』は明らかに『重力の虹』。素材の遠近のバランスがなかなか面白くて、楽しみな才能だと思う。辛辣であけすけだけど夢を抱えたナイーブな子供でもある主人公たちが堅実に生きるかつての同級生たちに笑いものにされるパーティ場面とか実に痛いし。

『リッスン・アップ、フィリップ』を早く見たい!こちらはジェイソン・シュワルツマン、エリザベス・モス、クリステン・リッター、ジョナサン・プライスと、豪華(インディー系)キャスト総出演。

『カラー・ホイール』予告編(フランス語字幕付き)。なかなか良い感じでしょ?
https://www.youtube.com/watch?v=AG3K3vdy_Tk

『スペクタキュラー・ナウ』

日, 03/23/2014 - 10:07

『スペクタキュラー・ナウ』ジェームズ・ポンソルト:良い!パーティ好きのチャラくてリア充だけどブサイクめな高校生のフツーの青春ものかなって感じで始まって、やれやれと思いつつ見てたら、その繊細な内面と葛藤を正面から描いた普遍的な青春映画になっていて、これは本当に良い!

ありきたりな主人公とそのガールフレンドを巡るフツーの物語を描きつつ、そしてその王道的な記号をしっかり踏まえているにも関わらず、決して凡庸な紋切り型には収まらないスペクタキュラーな作品になっていて、それはやっぱり悩める若き主人公に等身大に寄り添った繊細な描写に負うところが大きい。

大人にとって陳腐で今更な当たり前の話でも、当事者である高校生にとっては人生を左右する大きな決断になる訳で、その苦悩と混乱に主人公と共に正面から向き合おうという気持ちにさせてくれるってのは、それが良い映画であるって証拠ですよ。

ガールフレンドとの初めてのキスシーンでの長回しとか、あとラストの曖昧なニュアンスとか、全然知らない監督でしたが素晴らしい演出だと思う。役者もみんな良い。主人公二人はさほど有名じゃないですが、それだけにフツーの高校生感がすごくて、あと周りに良い役者を揃えてる。

『ショート・ターム12』で素晴らしかったブリー・ラーソンとかメアリー・エリザベス・ウィンステッド、あと母親役のジェニファー・ジェイソン・リーが本当に素晴らしかった。登場場面は多くないですが、キッチリ見せ場があって映画全体がそれで引き締まる。

脚本が『(500)日のサマー』のコンビで、それで見てみたんですが、あっちほど美男美女は出てきませんし派手なギミックもないですが、うーん、『スペクタキュラー・ナウ』の方が良いんじゃないかな。今どきでカジュアルでありきたりなのに特別なことばかりって、それってまさに青春だよなあ。

正直、こういう映画に弱いです(笑)。泣いた泣いた。大好き!

『スペクタキュラー・ナウ』予告編 https://www.youtube.com/watch?v=XDTBLSkUmYk