荻野洋一 映画等覚書ブログ

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最終更新: 7年 25週前

『白ゆき姫殺人事件』 中村義洋

月, 04/07/2014 - 16:49
 つまらないというより、不可解な作品である。
 信州・茅野市にある石鹸会社の美人OL(菜々緒)が殺害され、地味な同僚OL(井上真央)が容疑者としてメディアで報道され、追いつめられていく。この作品のコンセプトは真犯人が誰か(ミステリー)ではなく、無実の罪を着せられた主人公の抗い(サスペンス)でもない。では、何を中心にこの映画は回っているのか?
 ツイッター上で無責任にインフレ化する無数の言葉によって、ヒロインのOLは何度も何度も断罪され続ける。こんなネガティヴな扱いだというのに、米Twitter社は製作協力にクレジットされる契約によく同意したものである。おそらくTwitter社としては、自分たちのテクノロジーの伝播力の強さが伝わればそれでよく、そこで交わされる無数の言語の無責任さ、不毛さは埒外なのであろう。言論のインフラをめぐるスタンスはそれでいいと私も思う。
 Twitter社はいい。無責任な報道をくり返すテレビのワイドショーも、この際どうでもいい。問題はこの映画の当事者たち(原作者の湊かなえも含む)のニヒリスティックな立ち位置であり、現代人の無責任さ、陳腐さを弾劾する批判精神はいいとして、作品の基盤自体がその批判精神を支えるだけの理性も、威厳も、正義も有していないのである。まるで、現代の風俗をリアルに描く場合、その無責任さ、陳腐さに作品の側も染まる必要があるとでも言わんばかりである。ワイドショー番組の雇われディレクター役を演じた綾野剛はいったいどこに、この作品に参加した意義を見出すのだろうか。
 職場で目立たない平凡なOLを、井上真央は女優魂で演じていると思う。女優は、とくに主役を張るようなスター女優は誰だって輝くようなヒロインを、他者を魅了するヒロイン、映画史に名を刻むヒロインを演じたいだろう。決して美貌でないわけでもない井上が、地味で冴えないOLを一心に演じたのだ。ただその精神を、映画それ自体が保証しているだろうか。ラスト近くの、窓と窓の光の点滅による手旗信号のシーンはいいシーンではあるが、あれだけでいいのだろうか。


丸の内ピカデリー(東京・有楽町マリオン)など全国松竹系で公開
http://shirayuki-movie.jp

『家族の灯り』 マノエル・ド・オリヴェイラ

金, 04/04/2014 - 23:03
 ある貧困家庭の粗末なダイニングルームの1セットだけで、ほぼ全シーンが終始する。時は20世紀初頭。おそらく映画作家自身の地元ポルトとおぼしき港町のT字形に折れ曲がった裏通り、ガス灯に市の職員がひとつひとつ点火していく美しい光景が、舞台となる家のドアと窓から垣間見えるけれども、この家屋の住人が外の世界に踏み出すことは極力避けられ、大航海時代以前の大洋のごとく恐れられている。それでもミニマリズムのスタイル性にまとまらないのは、キャスティングの豪華さによるものか。それとも、とめどなく続く愚痴めいた台詞の途方のなさゆえにだろうか。
 老いた会計士(マイケル・ロンズデール)と老妻(クラウディア・カルディナーレ)のあいだには一人息子がいたが、8年前に蒸発してしまったらしい。残された息子の妻(レオノール・シルヴェイラ)は、さっさとこんなシケた家など放っておいて新しい人生を送ればいいのに、と見る側は勝手に思うが、けなげに舅と姑の面倒を見ている。老妻は「あの子を私から遠ざけたのは、あなたたち二人だ」などと言って、夫と嫁をののしる。まるで成瀬巳喜男の『山の音』のようだ。『山の音』にも似たようなシーンがある。父(山村聰)と息子の妻(原節子)の仲が睦まじすぎて、息子(上原謙)がよそに女をこしらえている原因を作ったのは、あなた方のほうだ、などと姑(長岡輝子)が夫をある嵐の晩に執拗になじるのである。
 この『家族の灯り』の主旋律となっているのは、息子の不在、貧困への隷属といった悲哀に満ちた事柄だけれども、その深層心理には、「母&一人息子」「舅&息子の妻」というスワッピング的カップルが、悪魔のように成立しているのである。これは直視しづらい画面上のスキャンダルで、オリヴェイラという映画作家の意地悪さが露呈している。先に寝室に下がる老妻は、おそらく毎晩ドアに耳をぴったりとくっつけて、夫と嫁の会話に──息子の不在を嘆いてばかりいる彼女をなにやら思いやっているような内容を装いつつ、秘密がどんどん塗り重ねられていく──聞き耳を立てているにちがいない。そんな晩があまりにも続くので、こうした貧しい現実でさえもシュールな幻想性を纏いはじめてしまったのではないだろうか。


岩波ホール(東京・神田神保町)ほか全国順次上映
ahttp://www.alcine-terran.com/kazoku/

グランドシネマ 坂東玉三郎『日本橋』

木, 04/03/2014 - 16:10
 春で 朧ろで ご縁日
 とくれば、泉鏡花の新派悲劇『日本橋』である。春爛漫の東京でいま、1914年発表のこの戯曲を齋藤雅文と坂東玉三郎が共同演出した公演(2013 日生劇場)の、上演スタイルそのままに映画化された「グランドシネマ 坂東玉三郎『日本橋』」が上映されている。会場は先月下旬に「COREDO 室町 2」にオープンしたばかりのTOHOシネマズ日本橋。医学士・葛木晋三(松田悟志)と名妓の稲葉家お孝(坂東玉三郎)が運命の出会いを果たす一石橋からほど近いこの地で『日本橋』の上映とは、まったく粋な計らいで、これほど究極のご当地映画もあり得まい。映画鑑賞後に、舞台となった各所のロケーションを散歩してみるのも一興だ。ふところに余裕のある方は、そのまま日本橋地区で唯一残る料亭、人形町の「玄冶店 濱田家」で芸者をあげて、葛木晋三よろしくふられてきていただきたい(笑)。

 第一幕の第一場、お孝のライバル芸者である滝の家清葉(高橋惠子)が葛木の求愛を拒むシーンでは、高橋惠子にカメラが寄りすぎて、女優の肌について非情なカットが続くが、これは美も醜も併呑しようとする玉三郎演出の鬼の部分だと解釈させてもらった(玉三郎は編集も担当している)。怪談的要素も強いこの戯曲はまさに、かつて『夜叉が池』を演った玉三郎にうってつけの演目だ。一昨年にNHKで放映されたグレタ・ガルボの秘めた恋についてのドキュメンタリーに、ガルボをリスペクトする玉三郎が旅人として出演していたのだが、この時のスウェーデンの風景に溶け込む玉三郎のカメラの映り具合、そしてナレーションの質の高さ、どれをとっても一流で、このあまりにも高名な歌舞伎役者に対するわが視線を改めさせられるものがあった。

 主人公・葛木の心には、自分の学資を稼ぐために妾になった姉を慕う気持ちが、オプセッションとして取り憑いている。実の姉弟か、擬似的なそれかにかぎらず、弟が姉に執拗に思慕を寄せているうちに、おそろしい悲劇へと転落していく、というのは新派悲劇のひとつの典型的なパターンであろう。
 溝口健二監督の戦前の傑作群を思い出してみよう。ぱっと思いつくだけでも『滝の白糸』(1933)、『折鶴お千』(1935)、『残菊物語』(1939)などはいずれも弟のような男の出世のために犠牲となり、転落していく年上の女を、残酷きわまりない、情け容赦のないタッチで描ききってはいなかったか? そして、忘るるなかれ溝口健二こそ、泉鏡花『日本橋』の最初の映画化をおこなった人物である(1929 フィルム現存せず)。二度目の映画化は市川崑、このたびの映画化は、私の知るかぎり三度目ということになる。それぞれ、稲葉家お孝/滝の家清葉/医学士・葛木晋三/半玉お千世を演じた俳優陣をリストアップしておこう。
溝口健二版(1929)──梅村蓉子/酒井米子/岡田時彦/夏川静江
市川崑版(1956)───淡島千景/山本富士子/品川隆二/若尾文子
坂東玉三郎版(2014)─坂東玉三郎/高橋惠子/松田悟志/斎藤菜月
 こうして書き出してみると、改めて溝口健二版を見てみたいという、見果てぬ夢が狂おしく広がる。あの夏川静江が半玉を演っている姿が目に浮かぶようだ。岡田茉莉子のお父さんの岡田時彦が葛木晋三を演っているのもお誂え向きだ。


TOHOシネマズ日本橋にて先行公開、以後全国で順次上映予定
http://www.shochiku.co.jp/cinemakabuki/news/nihonbashi.html

『LIFE!』 ベン・スティラー

日, 03/30/2014 - 19:30
 『LIFE!』はベン・スティラーの監督・主演作。頭のてっぺんからつま先までベン・スティラーを見るための映画だろう。ストーリーはJポップの人生応援ソングの歌詞のようで気恥ずかしいものがあるが、この映画はそういう見方ではなく、部分への偏愛で見るべきだと思う。気むずしい気質の主人公が一念発起して、ある名フォトグラファーの行き先を追いかけ、グリーンランド、アフガニスタンの僻地に旅に出る。ベン・スティラーは自分の冒険譚に仮託しながら、その実これらの土地の風景をカメラに収めることに無上の喜びを感じているのだろう。私たち観客も、素直にこれらのロケーションの奇観に感動すべきだ。
 と同時に、これはアメリカの写真グラフ雑誌「LIFE」へのオマージュでもある。「LIFE」は2007年に休刊、翌年よりGoogleイメージ検索でアーカイヴが閲覧可能となった。「LIFE」社のネガ管理係のベン・スティラーがネガ保存庫の暗い空間から冒険の旅に飛び出す瞬間、会社の廊下を走る姿が横移動のスローモーションでとらえられ、歴代の表紙の陳列が見られる。盟友ウェス・アンダーソンのやりかたを用いつつ、この雑誌の精神性を顕揚しているわけだ。私自身かつて「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」という映画雑誌の発行にずっぽりと創刊から休刊まで関わっていたことがあり、ひとつの雑誌への拘泥が、それをつくる人、それを読む人の人生をがらりと変えてしまう、ということを身をもって体感している。だから主人公の心情は、分かりすぎるほど分かる。
 そして、デヴィッド・ボウイー1969年のヒット曲「スペース・オディティ」。管財担当の新経営陣(ユダヤ的な髭を蓄えた合理主義者たち)がまずこの歌の歌詞を誤解し、歌の中の主人公トム少佐との連想から、主人公を揶揄する。その後、主人公が恋するシングルマザーが、彼らの歌詞の誤解を主人公に言い聞かせ、主人公を鼓舞する。彼女はひとつの歌の解釈を介して、自分と主人公が同類であることを間接的に主張しているのだ。昨年に日本公開された愛おしむべきベルトルッチの佳品『孤独な天使たち』(2012)で「スペース・オディティ」のイタリア語版の楽曲が使用されて感動的だったが、2年連続でこの曲に心揺さぶられることになった格好である。
 たしかに新経営陣はトム少佐の解釈を間違えた。そして、トム少佐の醸すロマンティシズムを、ベン・スティラーとシングルマザー役のクリステン・ウィグは共有した。しかし二人は、トム少佐のその後を知っているのだろうか? 知っていても触れないだけなのだろうか? 「スペース・オディティ」で月面着陸した宇宙飛行士のトム少佐はその11年後、1980年のヒット曲「アッシュズ・トゥ・アッシュズ」で薬物中毒になっているのである…


TOHOシネマズ日劇、TOHOシネマズ日本橋などで公開中
http://www.foxmovies.jp/life/