山田五十鈴さんを思い出す

7月11日

 もう別れた方がいいんじゃないか、と菊田一夫に説得されて、頷いてはみたのだが、花柳章太郎は、結局、日比谷から愛人が待つ世田谷の郊外へと向かってしまう。戦後間もない東京。世田谷・赤堤。住宅がまだまばらにしかなく、畑がたくさん残っている。夜半まで着かないと暗い道を歩くことになる、と考えた花柳章太郎は早足で愛人宅へと向かう。花柳章太郎は、愛人宅で過ごすことはあっても、そこで一夜を過ごすことはなかった。妻の勝子を持つ身として、たとえ勝子との愛情が冷めてしまっているからと言って、家に帰ることだけが彼にとって唯一の矜持だったのかもしれない。菊田の説得は、的を射ていて正しかった。そして、愛人宅にたまたま妻・勝子の日記を置いていってしまい、それを愛人が読み、勝子の哀しみを深く理解してしまった現在、別れを切り出したのは、愛人の方からであり、決して花柳章太郎からではなかった。そこに菊田一夫からの説得が加わり、花柳章太郎が、愛人宅に向かったのも、これを最後にしようと思ったからかも知れない。

 愛人宅に到着したが、暗い。合い鍵を回して中に入る。薄明かりの中に、ガランとした部屋が見えてくる。家財道具はいっさいなくなっている。台所の真ん中に小さなテーブルと、そして椅子が2脚だけ残されている。ふたりで買った装飾品のすべても持ち去られている。花柳章太郎は、ことのすべてを悟る。もう彼女は戻ってこない。だが、それを悟ったにせよ花柳章太郎は簡単にその場から立ち去ることなどできはしない。台所に転がっていた空き缶をテーブルの上に乗せ、懐からタバコを取り出し、一服点ける。電球さえも持ち去られた室内は暗く、マッチの火が部屋の空白を強調する。寂寞感。ゆっくりと巻の中に灰を落としながら、何もない部屋に目をやると、愛人との生活のすべてがまぶたの向こう側に確かに映し出されている。父が同じ劇団に属したことがあるので、愛人のことを幼少時代からよく知る花柳章太郎。成瀬巳喜男の『歌行燈』で彼女と共演したのは、トップスターの彼女と共演することで、彼が所属する劇団新派の窮状を救うのが目的だった。あのころはまさか彼女と花柳章太郎がこんな関係に立ち至るなどと考えた者は周囲には誰もいなかった。だが、女形としての所作を彼女に教えるうちに、手と手が触れあい、身体と身体が近付き、ふたりはこんな関係になった。そして、そんな関係がいつかは終わることは、菊田一夫に言われなくとも、花柳章太郎には分かっていたはずだ。空き缶に落とすタバコの数が増えていき、部屋の暗さは次第に深まっていった。

 山田五十鈴はこうやっていつも彼女の方から男の許を去っていった。花柳章太郎の心情を共有する男たちは、嵯峨三智子の父親でもある月田一夫、二番目の夫である映画プロデューサー、そして、花柳章太郎の後に五十鈴の相手になる加藤嘉、下元勉……もっとたくさんいるだろう。「通り過ぎる男たちを芸の肥やしにする」という常套句は正に山田五十鈴に与えられたものだと言ってもいい。もちろん溝口健二の『浪速悲歌』、『祇園の姉妹』を見れば山田五十鈴の持つ信じがたい吸引力に誰でもが納得するだろうが、とりわけ『鶴八鶴次郎』と『流れる』の2本の成瀬巳喜男の映画での山田五十鈴、さらに小津安二郎の『東京暮色』での山田五十鈴を見ていると、それぞれの年代の山田五十鈴自身のドキュメンタリーを見ているような気持ちがしてくるのは、ぼくだけではないだろう。実生活での山田美津(本名)がいて、映画に主演する女優としての山田五十鈴がいるのではない。山田五十鈴にとっても、山田美津などデビューした12歳のときに捨ててしまったのではないか。山田五十鈴に魅了された数知れぬ男たちは、ぼくらが、『鶴八鶴次郎』の山田五十鈴に惚れ込むように、『流れる』の山田五十鈴の立ち居振る舞いに魅了されるように、実生活の山田五十鈴に魅了されていったのだろう。1本の映画は何度も繰り返して見ることができるが、映画に出演する主演女優にとっては、1本の映画の撮影が終わると、もう次の現場が待っていて、そこでは別の恋人がいるのだ。

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 神楽坂の登り口にある紀の善の「抹茶ババロア」も嫌いではないが、紀の善がビルになってからは、どうも風情がなくなってしまった。ビルになってからもう30年近く経つのではないか。紀の善で買い求めるのは、いつも「抹茶ババロア」ばかりではない。「クリームあんみつ」だってかなりおいしい。でも、神楽坂だと、紀の善よりももっとおいし生の和菓子が手に入るのではないか。神楽坂をかなり登って、少しだけ下りに差しかかる場所に和菓子司、五十鈴がある。昔は、紀の善と同じように、喫茶が併設されていたと思うが、建て変わってから、喫茶はなくなってしまった。甘納豆と始め、伝統的な和菓子が並んでいて、季節によっては「クリームあんみつ」もあったような気がする。そして、記憶を辿ると、紀の善で買わずに、神楽坂を登ってきたかいがあった、と思ったこともある。

 五十鈴を「いすず」と読めるようになったのは、もちろん山田五十鈴の読み方を知っていたからだ。その山田五十鈴さんも亡くなった。晩年は、おひとりで帝国ホテルにお住まいだったが──オペラ歌手の藤原良江も帝国ホテル住まいだった──、ホテル住まいの女優なんて山田五十鈴が最後の人だろう。きっともっと安いホテルを住まいにしている女優さんならいるかもしれないが、大女優だったら、やはりどうしてもライト以来の帝国ホテルだ。その山田五十鈴が脳梗塞で帝国ホテルを出てからもう10年が流れている。

 神楽坂の五十鈴の裏には、まだ芸者さんたちが済んでいる場所がある。その周囲を通りかかると、芸者さんたちが稽古をしているからだろうか、今でも三味線の音色が聞こえてくる。ぼくは、それを聞く度に『流れる』のラスト近くで、山田五十鈴が弾く三味線を思い出してしまう。