映画日記 パリ―東京―カンヌ2 2013年6月24日(月)

 1913年7月21日、カフカは日記に次のような言葉を書いた。「絶望しないこと、またお前が絶望しないことにも絶望しないこと。もはや万事休すと見えるときにも、新しい力は押しよせてくる……」。その「新しい力」を窮地に立たされているときにこそ見出すこと、それこそが「お前が生きていることを意味している」と書かれているように読めるこの一節から感じるのは、少なくともこれを書き付けた瞬間は、カフカは絶望の側よりも希望の側に立っていた、ということだろう。つまり、人間はそう簡単には絶望しきることはない、なぜならそれに達する前に、「新しい力」をある種の希望として見出すはずだからだ、という、そのロジックないしは直感自体がひとつの希望として書かれているように読めるからである。だが、それからちょうど100年の時間が過ぎ、至るところに希望が満ち溢れている現代において刊行された廣瀬純『絶望論』の新しさは、そうしたカフカ的希望を反転した点にあると言えるのかもしれない。絶望とは、人がなしくずしに陥ってしまうものではない。ましてや、絶望に陥る寸前のところで何らかの「新しい力」が希望として訪れることもない。むしろ絶望とは、「新しい力」を見出す以前に、能動的に獲得すべき何かなのである。ヴェトナム反戦運動や公民権運動がまだ続いていた時代から、それが終息へと向かう時代にかけて(本書もまた大飯原発再稼働決定後にそれでもなお続けられたデモに触発されて書かれたものだそうだ)、ニコラス・レイは『We Can’t Go Home Again』(1971〜76)を撮りつつ、「あまり期待するな」と学生につぶやいたが、何事かを通じて突破口や救済を見出すことを初めから期待=希望してはならないのだ。重要なのは、己の無力さを認めたうえで、それでもなお、その無力さを己の眼前に屹立した「問題」そのものとして打ち立て、そこから逃走線を描出することなのだ、と廣瀬は言う。そうした絶望の壁に突き当たったときにこそ、人はドゥルーズが言うところの「革命的になること」「創造的になること」を始めることできるのだと。

 この『絶望論』とほぼ同時期に邦訳が刊行されたネグリ=ハートの『叛逆』もまた、2010年から2011年にかけて世界各地で行われたデモに触発されて書かれたものだ。「アラブの春」や「ウォール・ストリート占拠運動」などの一連のデモにマルチチュードのグローバルな反乱――つまり世界同時革命的なものの兆し――の可能性を見出そうとしている点では、ネグリは廣瀬の出発点(デモの無力さを創出するデモ)からやや遅れた、ないしは異なる位置に立っているのかもしれない。とはいえ『絶望論』と共振する部分もやはり多い。このふたつのテクストを並行して読むと、人々の行く手を阻む資本経済と結託した権力、ネグリ=ハートが言うところの「かくも数多くの頭を持つ、多頭の怪物」と対峙していくためには、つまるところ、来たるべき「出来事」に備えて、つね日頃から準備をしておくことが重要なのだと再確認させられる。『絶望論』は、その準備のためのひとつの方法として、あるいは準備のための出発点として、多くの示唆を与えてくれるものだろう。

 そうしたことを考えながら、カンヌ映画祭でこれだけは見逃すまいと3時間並んで見たゴダールの3D映画「The Three Disasters」は、とても美しい作品だった。『映画史』の映像や、人が爆発したり船のマストの先端に女性が突き刺さる変なホラー映画の映像――僕は見たことがないのでタイトルはわからないが――を再活用しながら3D映画を撮っていたゴダール作品は、このオムニバス企画に参加していたピーター・グリーナウェイとエドガー・ペラの両者の作品とは比べ物にならなかったというのが正直なところだった。おそらく、他の監督たちの問題は、「3D」というものに何か新しい可能性を感じていたという点にこそあるのではないか。ゴダールの映画は、当然ながら3D技術そのものに新しさを見出していたのではなく、むしろ3D技術によって導き出される「奥行き」の理念を、『映画史』に投射しようとしているように見えた。映像というよりも、歴史に「奥行き」を与えようとしていたと言えばいいのだろうか。いまだ決して近づけられることのなかったような事物を結び付けることで生まれる歴史、もしくはベンヤミンが言うところの「想起としての歴史」を、「奥行き」と結び付けて提示している映画に見えたが、それはいったいどういうことなのか。見終わってからいまだにアイディアが浮かばないので、ひとまず書くのをやめておきたい。

 ゴダールの3D映画を見るために(列に並びにきた人はみんな、オムニバス映画「3X3D」ではなく、「ゴダールの3D映画の列はここ?」と言っていた)、警備員に追っ払われながらも頑張って先頭にいた僕の次に並んでいたアルゼンチンの映画批評家が傑作だと教えてくれたフィリピンの映画監督ラブ・ディアズの「Norte, the End of History」もまた、本当に素晴らしい作品だ。4時間を超える作品だったので行くのが躊躇われていたのだが、「3時間前からゴダールの列に並ぶ奴なら信用できる」と思い翌日に見に行ったかいがあった。ある視点部門だったため、パルムドールには関係ないセクションだが、僕としては本作にパルムドールをあげたい。マルコスによる独裁政権以降のフィリピンの歴史と、ソ連解体以降、グローバリゼーションと新自由主義によっていまだ継続されている「歴史の終焉」(the End of History)の世界を交錯させつつ、経済発展に伴って生じる人々の軋轢を、おそらくドストエフスキーの『罪と罰』を翻案した物語で語っているのが本作と言えるだろう。哲学談義に花を咲かせていた主人公の破滅的軌跡と、それと並行して提示されるこの世の不条理をすべて背負わされたかのような心やさしい男の物語が、あるときふと交錯する瞬間の戦慄は忘れ難い。たしかに、いささかこれ見よがしに映し出される長回しもあるように思える。だが、画面全体に溢れる頽廃的なまでの世界の美しさとどうしようもない「絶望」感を、これだけの持続力を持って画面に同居させながらとらえることができる映画監督は、ちょっと他には思いつかない。金と欲望が渦巻いているようにしか見えなかったカンヌ映画祭のなかで、もっともこの映画祭に似つかわしくない、本当に素晴らしい作品だった。

 2012年10月にアンスティチュ・フランセ東京で行われたセルジュ・ダネーをめぐるシンポジウムで、ジャン=マルク・ラランヌや梅本洋一は、映画批評家の役割とは、映画の知識(savoir)ではなく映画の思想・アイディア(idée)をどうやって映画に提示していくかが重要であると語っていた(nobody39号掲載予定)。そうした意味で、この日記で言及した廣瀬純の『絶望論』は、この世界を生きるための、そして映画をより面白く見るための思想やアイディアを、読者に大いに与えるものだと言えるだろう。同様に、ゴダールとラブ・ディアズの映画もまた、知識よりも思想とアイディアによって貫かれた映画だ。どちらも何らかのかたちでこの日本でも公開されることを、いまは待つことにしたい。