10/27(日)『ロックショウ』/『ムーンライズ・キングダム』 田中竜輔

「週刊金曜日」964号に掲載された廣瀬純の「闘争はその継続を爆音でささやく」というテクストは、マイケル・チミノと樋口泰人が、「映画は同一の映像・音声を共有する体験ではない」という点において重なり合う存在であると論じる。「作品を爆音で上映することで樋口が『聞こえる』と言い張る記号を無理やり聞こえるものにしようとする発狂した試み」としての「爆音上映」とは、私たちがすでに「見た」と信じていたものを、実はそうではんかったのだと、ほとんど暴力的に私たちに気づかせようとする批評的実践である。「爆音収穫祭」というタイトルを誤解してはならないのは、これが決して「収穫されたもの」を愛でるための品評会ではないということだ。収穫しなければならないのはほかならぬ私たち観客である。 

ということで、先週土曜から吉祥寺バウスシアターにて開催中の爆音収穫祭について、これから断続的にレポートをお送りしたい。 本来ならばこけら落としの爆音『スプリング・ブレイカーズ』から参加したかったところだが、初日はどうしても都合つかず。ということで私の収穫祭は27日(日)の『ポール・マッカートニー&ウィングス ロックショウ』からスタート。ポール・マッカートニー&ウィングスの1976年のアメリカ・ツアーを撮影したライヴ・フィルム。兎にも角にもバキバキなポールのベースラインに身も心も委ねてしまえばよいというものだが、このフィルムのポール・マッカートニーは、その複雑な曲調に併せ、様々な時代における「ポール」の瞬間的なイメージを楽曲毎、フレーズ毎に創出しているように思えた。それはポールひとりのものによるというよりは、デニー・レイン、ジミー・マッカロクのサイケなふたりとの関係においてこそ構築されたものだったように思える。この作品に参加しているキャメラマンはエンドロールによれば14、5人だったように記憶しているけれども、要するにこのライヴのキャメラ・アングルはほぼ15種類前後しか存在していない。しかしまるでそうは見えない。というのも、ポール、デニー、ジミーの頻繁なパートチェンジが、ステージ上に視覚的な流動性を導入しているからだ。 レフティのポールと、デニー、ジミーの3人がステージ中央で正面を向いて演奏するとき、上手のポールと下手のデニー、ジミーの姿は、ちょうどステージの真ん中を境に鏡写しのような位置関係にある。年齢の離れた彼らの顔が、一種の分身的なものをステージ上に断片的に織り成しつつ、しかし突然プツッと切り離されるような感覚があると言えばよいだろうか。ポールがステージのやや隔離された場所でピアノを弾いているとき、ふとステージを見るとそこにもポールがいるような錯覚……とまで言ってしまうと極端かもしれないが、このステージの上にはそんなことも実現させてしまえるような不思議な時間感覚があった。 

食事を獲ってなかったのでチョコチップ&バナナの爆音マフィン(180円)をつまみ、続けてウェス・アンダーソンの『ムーンライズ・キングダム』へ。 冒頭、レコードプレイヤーから流れるベンジャミン・ブリテンの管弦楽のこもった音色が、少女が窓を開けるアクションに合わせて一気にヴォリュームを解放する瞬間に、『ムーンライズ・キングダム』はこれこそが適正なヴォリュ−ムなのだと確信。

昔宮沢章夫さんが、いわゆる「箱庭療法」の本についての文章を書いていたことを思い出す。患者であるひとりの少女のエピソードで、彼女は箱庭に人形たちを横にして並べていた。普通は人形たちを立てて配置するものだというのに、わざわざ人形を横に寝かせることを療法士たちは不思議がっていたとのことだが、少女は最後にそこに水を流し入れたという。するとその水によって箱庭の中に寝かされた人形たちがスックと立ち上がった。たしかそんな内容だったように覚えているが、『ムーンライズ・キングダム』の鉄砲水は、まさしく再生を呼び起こすための流れだ。きわめて理知的に構築され制御されたウェス世界の時空に流れ込むあの濁流は、そして雷鳴は、登場人物たちを押し流し焼き尽くすためのものではなく、絶望した彼らを再び大地に立ち上がらせるためのものなのだ。徹底してコンセプチュアルにつくりあげられた世界に吹き込まれる決定的な息吹、それがあの濁流であり、そしてこの濁流はこのヴォリュームがなければ決して立ち上がりはしないものだと知る。

ところで終盤、少年たちが向かうレバノン島の、そのほんの少し南西に、「シュトックハウゼン島」という場所があったことに気付いた。『ムーンライズ・キングダム』は、ひょっとするとウェス・アンダーソンによる「少年の歌」に限りなく近いところに位置する何かなのではないか…という妄想もありうるだろうか。シュトックハウゼンによって徹底的に構築された世界に、ばらばらに切刻まれながら響かされた少年たちの歌声のように、あの鉄砲水と雷鳴は残酷さとともにどこかスウィートな響きのようにも聴こえてくる……のかもしれない。

 

田中竜輔