11/4(月)『ホーリー・モーターズ』田中竜輔

レオス・カラックスが目覚める部屋は、そしてその壁の先に繋がる映画館は、いったいどこなのか。窓の向こうには空港に降り立つ飛行機が垣間見えるが、一方でその部屋にはまるで船の汽笛のような音色も、あるいは海の、潮の響きも差し込んでくる。重厚な機械の捻り出す振動音の、その奥底からこそ響いてくる世界の音響。映画館とはおそらくそのようにして生まれ出ずる音を聴き取るための場所なのだ。

『ホーリー・モーターズ』において、あらゆる事物は「人工/自然」という二項対立など生きていない。機械のような森だとか馬のような自動車といった比喩を超えて、あらゆる事物がハイブリッドとしての宿命を背負っていることを、このフィルムは私たちに気づかせる。知覚の再生産装置としての映画は、私たちに無垢なる自然をそのものとして与えてくれるわけではない。メルド氏の徘徊する墓地のあらゆる墓石に刻まれた「私のサイトを訪れて下さい」という一節は、そのままに受け取らねばならない。「死」でさえもまたすでに「自然」へと還るための純粋な手段ではなく、デジタルの信号のなかに自らの新たな生の様態を刻み込む行為と不可分なのだ。

オスカー氏の「森」への憧れは決して成就しない。「森」はもはや私たちの周囲に広がる人工物と不可分に融和しているのであり、そのざわめきを膨大なノイズの中から掠め取る術を介してしか、私たちは「森」に触れる術はなく、そしてそれはもはやかつて憧れた「森」と同じものではない。そのような「機械」それ自体としての「森」こそが、レオス・カラックスが目覚めた「映画館」という場所ではなかったか。

無数の役柄を渡り歩くこと、それは無数の生を引き継ぎ続けることであるとともに、そのたび毎に新たな死を自らに刻み続けてゆく行為である。機械のように、否、機械そのものとして自らの身体を躍動させ運動させるドゥニ・ラヴァンは、己の身体をフィルムそのものとして無数の死を刻み続けたまま、決して辿り着けぬ「森」の方へと足を進めている。『リアル』の「首長竜」が唸りを上げ、あるいは『マーヴェリックス』の「大波」が轟き、そして『スプリング・ブレイカーズ』の「銃声」が炸裂する、そんな「森」の方へ。

 

田中竜輔