『サン・ソレイユ』から25年経った

 ヤバイ。感動してしまった。川本三郎の『マイ・バック・ページ』が平凡社から復刊された。最初に出版されたのは22年前。1988年のことだ。ぼくは、その書籍版を読んでいない。その前の年と前々年に「Switch」誌の連載で読んでいた。その当時は、感動したことはなかった。むしろ、自らをマイナスのヒーローに仕立て上げるような川本三郎の姿勢が嫌だった。もちろん、ぼくも時代の子だから、川本三郎が関わった「朝霞自衛官殺害事件」について、知らないわけではなかった。だが、当時、高校生のぼくを含めて、その時代に生きていた人たちは、何らかの意味で、殺人にまでは至らなくても、大なり小なり関係の濃い薄いはあっても、この種の事件に関わりを持っていたわけで、彼は決して例外ではなかった。だから、自らの「例外性」をことさら強調するのは、逆にとてもヒロイックで嫌な感じがしたのだろう。だが、22年後の今、再読するとホントヤバイ。感動してしまった。

 『マイ・バック・ページ』にも登場する高校にぼくは通っていた。「ここも日比谷高校と同じ、東京の中では恵まれた中産階級の子どもたちの多い高校だった。バリケードを作った子どもたちのことを心配して夜になると父兄が学校にかけつけた。彼らに取材してみると一流企業の父親が多かった。だからこそ子どもたちは「家族帝国主義粉砕」と反抗した」と川本は書く(77ページ)。本当のことだ。当時、私立の名門中の名門、麻布高校を出て東大法学部を卒業し、就職浪人を1年したとは言え、朝日新聞に入社した川本三郎は、超エリートだ。だが、その超エリートの挫折を描いたこの本は、同じ時代を生きていたぼくが、共感できる点が多いという点だけでも、膨大な資料を基に、68年について書いた小熊英二の『1968』よりは、ずっと良い。『1968』には、ぼくが通っていた高校について、次のような記述がある。「青山高校での叛乱の背景には、(……)学校群制度があった。青山高校は、67年に学校群制度が導入されるまでは、都立名門校の一つであり、旧制中学風の「自由で自主性を重んじる校風」を自負する学校の一つだった。/ところが学校群制度で学力の劣る生徒が入ってくるにしたがい、学校側は「自由で自主性を重んじる校風」を掲げる余裕を失い、実力テストなどを導入して大学受験指導に力を入れるようになった」(下巻、58ページ)。

 たとえ小熊英二が調べた文献がどんなものであろうと、その時間を共有したぼくには、そんな実感はまったくない。むしろ事実は逆だ。原因が「学校群制度」にあったことは、必ずしも間違っていないが、「学校群制度で学力の劣る生徒が入ってくる」というのまったく事実と異なっている。しっかり資料を調査して欲しい。学校群制度が導入される以前の青山高校は、大学受験おいて卒業生の上位の生徒は一橋あるいは東工大という感じだったが、学校群制度が導入されると、一挙に東大ベスト20に名を連ねる高校になってしまった。学校側は何もしなかったのに、生徒たちは「自由で自主的な校風を重んじて」自分で受験勉強した結果だ。学校側と生徒との間の齟齬は同じでも、小熊が指摘するのとはヴェクトルが完全に反対だ。一カ所でも、こんな部分があると、この長大な書物全体をまったく信じられなくなる。

 つまり、紛争中で授業のなかった高校2年の勉強なんてまったくやっていない青山高校の卒業のぼくに比べて、麻布から東大法学部で朝日新聞就職という超エリート街道をまっしぐらに歩んだ自らを棚上げしている川本三郎、という構図がぼくに刷り込まれていて、その彼が挫折を語ろうが、結局、彼は朝日新聞という大会社の名刺を持っていた人間でしかなかった。

 朝日新聞をクビになって以来の川本三郎の仕事もあまり好きになれなかった。どの仕事もとてもノスタルジックで、つまり、かつてあった素晴らしいものが、今はもう失われてしまっていて、という心情ばかりがほとばしり出ていて、「今、ここで」その時間と空間を更新しようと頑張っている人たちの傍らに居ようとはしない態度は、結局、新たな作品に与しないことになり、それでは、なぜ批評が存在するのか、という根本的な問題にも顔を背けることになると思えた。

 では、なぜ22年後に『マイ・バック・ページ』を読んで感動したのか。もちろん、彼が後生大事にするノスタルジーの源になる諦念が、彼の挫折にあることを確認したことで、彼の仕事が容易に理解できるようになったこともあるだろう。彼の永井荷風や林芙美子への容易ならざる執着も分からないではない。しかし、今回の感動と、その書物以降の川本三郎の仕事への理解とは、余り関係がない。彼の仕事をより良く理解できるにせよ、彼のノスタルジーを共有することは決してできないだろう。今回の感動の理由は、ひとつだけ。この書物の冒頭の「『サン・ソレイユ』を見た日」という章を読んだことが原因だ。ぼくは、河出書房新社から出版されたこの本の初版を読んでいないと書いた。「Switch」誌の連載で読んだと書いた。おそらく、この連載の第1回は読んでいない。この『サン・ソレイユ』についての件はまったく覚えていないのだから。

 たぶん、いろいろなことの趣味も嗜好も異なる川本三郎とぼくが交錯するのは、『サン・ソレイユ』だけだろう。川本は、この本の最初の方で、『サン・ソレイユ』のナレーションを引用している。「愛するということが。もし幻想を抱かずに愛するということなら、僕は、あの世代を愛したといえる。彼らのユートピアには感心しなかったが、しかし、彼らは何よりもまず叫びを、原初の叫びを上げたのだった」。クリス・マルケルならではの、時空をいくつも駆け巡り、そこには山谷も三里塚もあり、アフリカも猫もいる。日本とあの時代についての詩的なリフレクションになっていた『サン・ソレイユ』。感動の原因は、川本三郎とぼくは『サン・ソレイユ』に共振していたからだ。川本も引用した先のナレーションの言葉を、ぼくは、ほとんど空で書くことができる。理由は簡単だ。その台詞を、福崎裕子さんの翻訳をもとに上映用に書いたのが、ぼくだからだ。今から20年以上前の青山1丁目のスタジオの深夜。クリス・マルケルに厳密に秒数まで指定された日本語のナレーション原稿を書いて、隣にいてそれを読んでくれた池田理代子さんに差し出していた。