My Funny Valentine

2011年2月15日  

 恥ずかしながら──ぜんぜん恥ずかしいことじゃないけど──初めてミッドタウンに行った。倉俣史朗とソットサスの展覧会を見るためだった。ちょっと楽しみにしていたので、雪が残っている午前中に家を出た。倉俣史朗の名声について論を待たないが、エットーレ・ソットサスについても、個人的な思い入れがある。フィリップ・ド・ブロカの映画に『おかしなおかしな大冒険』(1973)という作品があった。ベルモンド扮する売れない冒険小説家が、小説を書いているうちに自分の作品の登場人物になり、大暴れするおバカな作品。大好きだった。実生活ではモテないんだけど、小説の中ではすごくモテる。共演はすごく綺麗なころのジャックリーン・ビセット。ジーンズをカットオフしたミニスカートが良かった! ベルモンド扮する小説家は、常に机の上のタイプライターを打っている。「なるほど、小説家ってのはタイプライターで小説を書くのか!」(http://www.pariscinema.org/fr/2004/cycles/belmondo.html)20歳のぼくは思った。ぼくもタイプライターが欲しい。カタログを集めた。映画で出てくるタイプライターよりも格好いいものが見つかった。オリヴェッティのカタログだった。機種の名前はヴァレンタイン。名前もいいね。その機種のデザイナーがエットーレ・ソットサスだった。パリに住んでいた頃、論文を書く必要があり、最初に買ったタイプライターは、もちろんオリヴェッティのヴァレンタインだった。

 中目黒から地下鉄に乗り換えて六本木で降り、そのまま地下を通ってもミッドタウンに行けるようだったが、わざと昔の誠志堂があったあたりの地上に出て、交差点を俳優座の方に渡り、左折してミッドタウンに向かった。交差点の三菱銀行はそのままだが、周囲の店舗はすっかり変わっている。かすかな記憶を辿ると、この辺りに、「レオス」という名のユダヤ系のデリカテッセンがあったように思う。ぼくがデリカテッセンという言葉を覚えたのも、その店がきっかけだったような気がするんだけど……。初めてその店を覗いたときは、何も買わなかったけれども、カッテージチーズの入ったサラダや多種多様なソーセージなどがあったのを覚えている。

 初めて六本木に行ったのは高校時代だった。60年代の末期のことだ。高校があった外苑前からバスに乗って日比谷に映画を見に行った。青山1丁目で右折し、六本木の交差点に向かうバス。それから飯倉片町で左折して虎ノ門、新橋を経て日比谷まで通っていた。確か晴海行きだったように思う。六本木の交差点の停留所に止まると、前にはGOTO FLORISTと英語で店名が書かれた花屋があった。もちろん、これは今でも健在な高級な花屋GOTO FLORISTだが、花屋のことをFLOWER SHOPではなくFLORISTというのだと初めて覚えたのが、その屋号を記した英語を見たときだった。つまり、DELICATESSENでもFLORISTでもいいけれども、六本木は、英語の看板ばかりが溢れた街だった。当時の高校生には足を踏み入れることもできなかった気がする。そして六本木を過ぎると、狸穴という奇妙な地名のバス停があり、右に郵政省、左にソ連大使館があった。

 もちろんミッドタウンがあるのは、旧防衛庁の敷地だったし、「レオス」のことは知らなくても、旧防衛庁のことを覚えている人はたくさんいるはずだ。六本木の交差点から青山1丁目方面に向かうと、自衛隊の詰め所みたいなところがあって、大きな門の向こうはオフリミットだった。戦前からこの辺りのことを知っている人は、ここの記憶は完全に陸軍と結びついているだろう。今は新国立美術館になっている旧東大生産技術研究所(糸川英夫氏のロケット開発に関わるページにこの研究所の写真が掲載されている。http://www.isas.jaxa.jp/j/japan_s_history/chapter01/01/index.shtml)だって、旧歩兵第三連隊兵舎だった。東大の生研で働く友人のいたぼくは、ここの駐車場を彼の名前を使って何度も使っていた(六本木の真ん中に無料で駐車できる場所を知っているのは、かなり便利なことだった)し、中庭はテニスコートになっていて、六本木のど真ん中でテニスをしたことも何度もあった。

 この外苑東通りを六本木から青山一丁目方面に向かうと、すぐに左折するグリーンベルトがある道路に出るが、この道が、旧歩兵第三連隊兵舎へのメインストリートだったわけだ。だから短い道のわりに立派な幅を持っている。旧東大生産科学研──つまり、旧歩兵第三連隊──にクルマで行くと、そこから先が突然左折し、細い降りの道になっていることに気がついた。この辺りは龍土町と呼ばれた場所だ。龍土軒という1900年創業のフランス料理店があった。ここに集った柳田國男を中心にした龍土会というグループがあって国木田独歩や島崎藤村などが、文学談義を戦わせた場所だそうだ。今でも龍土軒は存在している。まだ食べたことはないけれど、左折した細い通りは、ぼくらにとって龍土軒のある通りではない。星条旗通りと呼ばれる道だった。敗戦後、当然のように歩兵第三連隊兵舎は、米軍に接収される。ミッドタウンの敷地を合わせた広大な場所にハーディー・バラックスと呼ばれる米陸軍の広大な基地が生まれたのだ。次第にこの基地の土地が返還され始め、東側が防衛庁になり、西側の一部が旧東大生研になったわけだ。だが、星条旗通りの名はそのまま今も続いている。なぜこの通りが、星条旗通りと呼ばれているのか? 簡単なことだ。この通りに星条旗新聞社があるからだ。

 星条旗新聞とはStars and Stripes──星条旗のこと──と呼ばれる米軍機関紙だ。その狭い道路の左側に星条旗を掲げ、鉄条網に囲まれた何の変哲もないモダンなビルの星条旗新聞社はある。その周囲は、今ではちょっと寂れてしまったが、バブル以前は六本木のお忍び場所といった感じで、ちょっと素敵な店が揃っていた時代もあった。ぼくが、高校生時代に見た六本木がまだ保存されているような感じ。六本木に米語が氾濫したのは、ここに基地があったからだ。次第に返還されたとはいえ、星条旗新聞社はずっとあり、さらに、その後方には麻布ヘリコプター基地がまだある(http://home.att.ne.jp/sigma/azabu/jittaitop.html)。米軍基地の問題は、普天間や辺野古ばかりではない。東京23区の港区の問題でもあるわけだ。ぼくらは、高校時代、「Yankee, go home !」と叫びながら何度もデモをして、でも、大学生になると龍土町のヤンキーが集まる店でもちょっと遊ぶという実に矛盾に満ちた生活をしていたことになる。そこからはちょっと離れているが、ロアビル近くには、ジャズスポットの「ミンゴス・ムジコ」があって、安田南が出ると必ず聞きに行ったものだが、ある晩のライヴは、何とアニタ・オデイが出演していた。昔は、こんな小さなスポットにも一流中の一流のミュージシャンが出ていた。確か『Live at Mingos』というアルバムになっていると思う。よく考えてみれば、70年代まで、六本木全体がまだオキュパイド・ジャパンの雰囲気を呼吸していたのかも知れない。

 六本木ヒルズの森美術館(自分のビルの上階にある美術館に自分の苗字を冠するなんてすごく恥ずかしい。自分の苗字を付けるときは、死んでから功績が称えられるときにするものだ。○○メモリアルといった具合に)と、旧東大生研跡地にできた国立新美術館と、ミッドタウンのサントリー美術館を結んで、六本木アートトライアングルと呼ばれているが、その中心には、立派に米軍のヘリコプター基地と星条旗新聞社があることを忘れてはならない。六本木アートトライアングルの三角形の内部には、二二六事件(この事件の中心には歩兵第三連隊がいた)から、米軍が進駐する日本、そして、六本木ヒルズやミッドタウンなどの東京の再開発の問題まで、全部の歴史が詰まっている。

 東京ミッドタウンは、六本木ヒルズよりも高いミッドタウン・タワーがありながら、周囲にも複合的に高層建築が建てられ、タワーそれ自体が自己主張をしていないためか、(もちろん構造的な同じだろうが)それほと威圧感を感じる場ではなかった。森ビルと三井不動産の差異かもしれないし、いろいろなカムフラージュのために、ミッドタウンに動員された隅研吾をはじめとするデザイナーの力が、威圧感を押し隠しているのもしれない。モールを抜けて、倉俣史朗とソットサスの展覧会が行われているミッドタウン・ガーデンを目指す。デザイン的にちょっと素敵な橋が道路をまたぎ、ミッドタウン・ガーデンを含む檜町公園に続いている。昨夜の雪が嘘のように空が広く、そして青い。そこここに残る雪が、ここが東京の中心であることを忘れさせてくれる。

 安藤忠雄設計の21_21 DESIGN SIGHTは悪くない。広場に貼り付くような湾曲する広大な屋根とガラスによる透明な壁。ガラスには残っている雪が反射して眩しい。ゆっくりと公園を横切って21_21 DESIGN SIGHTに近づいていく。人影がほとんどない。入口にたどり着くと「火曜日、休館」の文字が目に入る。また出直すしかない。