いくつかの「輪郭」についてーーピナ・バウシュ、アンジェリカ、そしてジョアン

 それぞれの被写体が属する空間の層の差異を増幅することによって、本来ならば可視化されるはずもない「輪郭」なるものを過剰に捏造する装置、それが3D映画であると考えることは勇み足かもしれない。けれども、「3D」という時空の中でスクリーンに映し出される「人間」たちは、かつて表現主義という名の下に「光」と「影」の対立の間に生み出された幾多の「怪物」たちの方へと、その存在感を近づかせているように見える。ただしそれはそこに映し出される「人間」という形象それ自体が変化したということを示すわけではない。「CG」という技術が、まだどちらかと言えば「人間」なるものに対する「侵略者」たちの形象をそこに「生み出す」という方向に力を発揮していたことに対し、「3D」は「人間」こそを「侵略者」そのものとして「映し出す」ことに力を向かせる技術であるということなのだ。ジェームズ・キャメロン『アバター』において、イメージたちが徹底した「侵略者=人間」の殺戮と放逐へと向かったように、3D空間における「人間」とは、その世界の存在の論理に最初から反する、異様さそのものとしての形象である。ティム・バートンの生み出した『アリス・イン・ワンダーランド』は、唯一の「外部」であるアリスの「人間」としての何の特別さもない身振りによってこそ(マッド・ハッターとの抱擁)、パラドックスの支配するその世界の普遍的な「秩序」を失うことになるだろう。そしてその問いをアメリカ映画において最も先鋭化させているのが、ロバート・ゼメキスの『クリスマス・キャロル』だ。つまり、どんなに映画の「内部」において、「人間」たちの生(なま)の身体を徹底的に排除することが技術によって可能になろうとも、それを「見る」主体である「観客=人間」だけは、「キャメラ」という装置を介した視点を決して捨てることができないという事実。ここで3Dという技術によって「輪郭」を与えられることになるのは、映画の内部から徹底的に隔離された、他ならぬ「観客=人間」という「外部」からの「侵略者」なのだ。
 
 ヴィム・ヴェンダースによる初の3D作品『PINA』において、その身体を舞台上や屋外のロケーションの中で酷使し、その「輪郭」をはっきりと浮き上がらせたダンサーたちの姿は、しかし2Dのまま「上映」されるピナ・バウシュの生前の映像よりも圧倒的に虚ろに見えてしまう。映写機と煙草の煙を燻らす技師の姿が手前に、椅子に腰掛けた観客たちがその少し奥に「配置」された、古めかしい上映室のシークエンスで、ヴェンダースは「上映」というプロセスを介在させることで、「ピナ・バウシュ」という存在をダンサーたちと文字通り「別次元」の存在として提示する。モノレールや公園といった空間を「背景」に、あるいは小さなミニチュアの内部を「舞台」に、ヴェンダースは「ダンス」を世界に導入していく。映画としての世界、そしてダンスとしての世界。しかしその創造主たるピナ・バウシュその人は徹底して2Dという映像の世界に留まったままだ。
 あるダンサーの「私たちはピナの一部なのです」という美しい言葉を耳にするとき、しかしこのフィルムにおける彼らとピナ・バウシュとの間には、声と表情とを分離された彼ら自身のインタヴュー・カットと同じくらいのはっきりとした距離があるということを、誰もが認識することになるだろう。ヴェンダースは、3Dがある種の「断絶」を内在する技術であるということを、おそらくはっきりと自覚した上で『PINA』を撮っているはずだ。いや、ひょっとすると彼はその「断絶」に、この企画に着手したことによって初めて気づいたのではないだろうか。彼女の残した世界を映画において再生させようとする試みが『PINA』というフィルムの根幹にあるとすれば、おそらくヴェンダースにとってピナ・バウシュとは、世界に色彩を与えてくれる「天使」そのものとしてあったことだろう。かつて「天使」が自らの死と引き換えに「人間」との恋を願ったように、3Dという形式を敢えて選択することによって、ヴェンダースはいま再び「天使」との出会いを模索したのではないか。
 けれども2Dのスクリーンの手前を揺らぐ3Dのカーテンは、ピナ・バウシュに触れることはない。白と黒だけで映し出されたピナ・バウシュの姿に色彩が宿ることはない。そう、私たちはまぎれもなくその世界の外側にいる。その地点に徹底して踏み留まることを選んだ『PINA』のヴェンダースはいま、『アメリカ、家族のいる風景』の廃墟へと向けていた感傷的な視線とは、決定的に異なった視点によって世界に対峙しようとしている。
 
 その一方で、細い杖を小脇に抱えステージへの階段をスキップのごとく駆け上ってしまう102歳、マノエル・ド・オリヴェイラの最新作『O Estranho Caso de Angélica(アンジェリカの奇妙な事件)』は、それはもう軽々と生者と死者の世界を横断してしまう。『アンジェリカ』において死者はそこに残されてしまった生者たちよりも、明らかに艶やかな顔を携えてその姿を「写真」のなかに表出させ、地に根ざした労働にシャッターを切っていたはずの若きカメラマンを一瞬で魅了する。そしてそのカメラマンは、身の回りのあらゆる事象に気を配ることをやめた「怪物」として、己の欲望へと視覚や聴覚を集中させていくことになる。「映画は変わらない、変わったのは技術だけだ」と述べたオリヴェイラにとって、CGや3Dという技術など些細な問題に過ぎない。溌剌とした肉体的な「生」を謳歌する「昼」と、自身の精神を苛む罪という「死」に直面する「夜」との混交を、子供たちの姿を被写体に残酷にも描き出す最初の劇映画『アニキ=ボボ』からすでに、オリヴェイラにとってそもそも「人間」とは、現実そのものでありつつ、同時にそこに異物を生成することを可能とする「怪物」に他ならなかったのではないか。
 メリエスというよりは、ほとんどバートンのワンシーンであるかのような死者と生者の空中飛行において、彼らの半透明の身体の表面が放つ白い光は、3Dによってもたらされる「輪郭」とはまったく別のものだ。彼らの身体はそのファンタスティックな夜の世界と何も区別されていない。写真に映り込む「アンジェリカ」の微笑みは、あり得ないものがそこにあることを示すことではなく、あり得ないものを見い出すための「視点」こそを生み出す、映画の「嘘」の力がそのまま具現化された微笑みだ。その見開かれた目に取り憑かれた男は、徹底してその「嘘」の論理の中に没入する。その男の姿を外側から見つめる我々「観客」は、その男がいったい何を見ようとし、何を見ようとしていないのかというサスペンスに宙づりにされることになる。なぜならオリヴェイラの映画には、そのフレームの内部に映り込む全てがあっけらかんと映し出されてしまうからであり、そこには「見る」という行為に対するいかなる区別もないからである。
 そのとき私たちは、カメラマンの男が「見ようとしないもの/見ることができないもの」たちの生み出す豊かさに、逆説的に気づかされる。たとえばそれは部屋に飼われた一匹の鳥に対し、いまにも襲いかからんとする猫の挙動だ。それを発見した私たちの「視線」は、カメラマンが「アンジェリカ」に誘惑されていく過程のその「背景」にそっと示された、まったく別種の「奇妙な事件」を生み出す主体となり、『アンジェリカの奇妙な事件』の「怪物」と「輪郭」を共有することになるだろう。オリヴェイラはその「輪郭」を、登場人物にも、観客に対しても新しく「捏造」することなどに興味を持たない。それはすでに私たち「人間」なるものにおいて、どうしようもなく内在するものなのだと、鮮やかな軽さを持って断言してしまうのだった。
 
 そしてラウル・ルイスは、その4時間半(ロングヴァージョンはおよそ6時間)という長大な最新作『Mystères de Lisbonne(リスボンの謎)』を、名前以外に自身の出自を知らない「ジョアン」というひとりの孤児、その過去をめぐる無数の視点の構築物として、真実と虚偽、過去と未来、現実と空想といった区別の無効な、混沌そのものとして私たちに提示する。どれほどに時間が進んでも、ジョアンの「輪郭」はーーつまりそれを見つめる私たちの「視線」はーー明瞭な形をとることはない。このフィルムには、(記憶にある限り)例外なく厳格に守られるひとつのルールがある。それは、屋内と屋外との境界を絶対にキャメラが横断しないということだ。無数の絵画や鏡が配置された屋内という閉鎖的な空間と、草木が揺れ激しく雨の降る屋外という開放的な空間とを、断絶/接合させるルイスの手腕には、カール・ドライヤーの『怒りの日』や『ゲアトルーズ』にも似た抽象への意志を見出さずにはいられない。
 この恐るべき傑作については、後日また改めて何か書き記したいと考えているのだけれども、最後にもうひとつだけ。私はこのフィルムを見ながら、あたかも3D作品を見ているような心地になった。もちろん単純なスペクタクルとしてではなく、ひとつの映像の中に納められたいくつかの事物に堆積している無数の時間が、その秩序を無視するかのように、次々と運動として浮き上がってくるような、そんな感覚を「3D」的なものとして感じてしまったのだ。それは『クリスマス・キャロル』においてゼメキスが視覚化した時制の問題と似ていることのようで、何か決定的に違うことであるように思う。とりあえずはそう書くに留めておきたい。