山本理顕さんの言う「閾」からいろいろ考えてみた

 2011年4月28

 大学の同僚の山本理顕さんの最終講義があった。理顕さんが最近、熱心に考えている「地域社会圏」が中心でとても興味深く聞いた。そのときに配られた小冊子に理顕さんが「atプラス06」に書いた記事「建築空間の施設化──「一住宅=一家族システムから「地域社会圏」システムへ」が採録されていた。この最終講義とその文章はエコーのような関係になっていた。

 最終講義の方は、建築が社会の関係性を創出するという建築原論から、個々の関係の間にある「閾」について語られ、それが「地域社会圏」にハンナ・アーレントを介して接続されていた。「atプラス06」の方でも、やはりハンナ・アーレントがアジャンスマンになっているが、現代社会における建築の置かれた立場についての解説に重きが置かれている。インフラの整備に伴い、建築はインフラの先端にある「施設」に過ぎないものになり、建築家は、「施設設計者」に成り下がってしまった。社会の中の、人間たちのビヘイヴィア(アーレント)が画一化され、住宅は住むための施設に、ホテルは泊まるための施設になることで、これまた画一化され、画一化されることによって「官僚制」が担保されていく。アーレントばかりではなく、フーコーの権力論の展開に近い現代社会の描写になっていた。問題なのは、施設設計者の役割しか与えられていない建築家は、いったい何が提案できるのかということだ。建築家・山本理顕の作業とは、施設設計者としての役割しか与えられていない地位への徹底した反抗であり、反転攻勢だったように思う。

 そんな文章の中に、小田原市の多目的ホール(結局、市長が代わり、廃案になってしまったようだ)を設計した理顕さんを批判した井上ひさしの文が引用されている。「多目的ホールといった発想は貧弱です。必ず無目的ホールに堕落します。(……)世界のいい劇場はみんな、一見平凡な型をしています(そこに劇場の本質があります)。へんてこりんでいいのは演目だけです」。『こまつ座』の機関誌「the座」のために世界の1000もの劇場へのアンケート取材を行い、日本で一番劇場に詳しいと井上ひさしは豪語して、上記の発言に繋がっているようだ。ぼくの好きな世界の劇場には、パリのオデオン座のように、19世紀の首都(ベンヤミン)が生んだもっとも劇場らしい劇場もあるけれども、ナンテールのアマンディエ劇場のように「へんてこりん」な劇場もあるし、ピーター・ブルックが長年演出の場所に選んだ、平凡な劇場が焼け落ちた廃墟のようなブッフ・デュ・ノールのあるし、20世紀末の演劇史に偉大な名を刻み込んだ太陽劇団が常打ち小屋として使用したヴァンセンヌの森の中にある昔の弾薬庫だった大空間もある。もともと演劇史は劇場史と軌を一にしていて、ギリシャの円形劇場、ローマの半円の劇場、ルネッサンスのイタリア式劇場、シェイクスピアで名高いエリザベス朝式劇場などの空間的な造作が、演目をも支配したことは演劇史の常識だ。ぼくも、そうした演劇空間(セノグラフィー)の歴史を、かつて一冊の書物にまとめたことがあった(『視線と劇場』弘文堂、1987年)。井上ひさしは、そうした演劇史にまったく無知だったとしか言えない。むしろ空間は「へんてこりん」で良いのだが、演目はむしろ古典的な(平凡な)ものが良く、それを「へんてこりん」な空間でどうやって作り上げていくのかが演出というものだ。20世紀後半の演劇史は、既存の演劇空間への反撥として記述されるはずだ。日本でも、唐十郎の紅テント然り、佐藤信らの黒テント然り、喫茶店の2階を演劇空間にした初期の早稲田小劇場然り、そして街頭演劇を目論んだ寺山修司然り。それらの演劇実験に比べれば、井上ひさしの「こまつ座」の舞台など、従来の劇場構造にまったく疑いを持たない保守的な舞台にすぎない。

 つまり、劇場は施設ではない。舞台空間という生み出す、創造の源なのだ。一番有名な例は、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』のバルコニーのシーン(「なんであなたはロミオさまなのでしょう」とジュリエットがバルコニーを下から上がってくるロミオに言う件)だろう。エリザベス朝の舞台には、かならずバルコニーがあって、上層を下層のふたつの演技空間があった。だからこそバルコニーのシーンが想像できたことになる。つまり、エリザベス朝の「へんてこりん」な舞台空間がなければ、『ロミオとジュリエット』なんて生まれなかったろう。劇場という空間は、舞台にとって決定的な要素なのである。