やっと『トゥルー・グリット』を見た

2011年5月20

 

 やっと『トゥルー・グリット』を見た。試写を見逃し、封切りからすでに2ヶ月以上経過していると、上映している映画館を探すのも一苦労。丸の内東映で朝1135分から1回だけ上映されている。最近、超多忙で銀座にも出ていない──といっても2週間くらい前に行ったけど──ので、遅い昼食にすれば見ることができる。早速、出かけた。

 『これでいいのだ』と『抱きたい関係』が通常上映されていて、『トゥルー・グリット』はポスターさえ出ていない。コーエン兄弟という「作家主義」的固有名も神通力がもうないだろうし、ジェフ・ブリッジズが『クレージー・ハート』で最近いくら頑張っているにせよ。ジッちゃんでは客を呼べない。さらにたくさんノミネートされていたオスカーもひとつも取れなかった。客も十数人。それもぼくが若い方。もちろんガラガラで寂しい限りだが、東京の映画館では、こんな風景が当たり前だ。それにさっきこのフィルムのオフィシャル・サイト(日本版)を見たら、「試写会中止のお詫び」から始まっていた。最終の試写会が3.11だったらしい。

 『ホテル・シュヴァリエ』でナタリー・ポートマンのファンになってしまったので、『抱きたい関係』も『ブラックスワン』も見たけれど、「なんだかなあ」と中原昌也の口癖を真似たくなった。この女優さんも「女優さん」したいのかな? 『ホテル・シュヴァリエ』では、ただホテルの部屋にいて、ちょっとだけ服を脱いでいけば見事な存在感を出せたのに、小津や成瀬の映画の彼女ではない舞台の杉村春子みたいに演ると、「すごいなあ」と思う人もいるかもしれないけど、演技にしている女の人という側面ばかりが目立って、ナタリー・ポートマンその人の良いところがぜんぜん見えなくなってしまう。『ブラックスワン』を見ていると、彼女はきっと背の低いことにすごいコンプレックスを持っているんだろうな、とか、こんなフロイトみたいな演出して、「深いな」を喜ぶ「浅い」人たちが多いんだろうな、とか、いろいろ思い悩んでしまった。

 それに比べると、ジェフ・ブリッジズはやはり凄い。デブなだけ。飲んだくれているだけ。そこにいるだけ。つまり、『クレージー・ハート』と同じ。映画っていうのはフィクションなんだけど、「そこにいる人」が「そのまま」見えてしまうわけで、徹底的にドキュメンタリーなのだ、ということが分かるね。共演しているマット・デイモンも、さすがに最近はイーストウッド・ファミリーだけのことはある。立派にジェフ・ブリッジズに対抗していたね。ナタリー・ポートマンだって、無理しなくていいんだ。君がそこにいるだけでかなりいいんだよ。

 「そこにいる」のは人ばかりではなかった。『トゥルー・グリット』を見ていると、「そこにある」ものの存在感も際立っている。帽子の布の質感。古い拳銃の引き金の重そうな存在感。ゆったり流れている川の水。樹木の大きさ。しばらく映画でそんなものたちを発見したことがなかった。『センチメンタル・アドベンチャー』で、クルマのホコリを払うと、見事な質感のボンネットが見えたのを思い出す。イーストウッドは『グラントリノ』でも同じことをやっていたね。イーストウッドを除くと、今、アメリカ映画の中で、そんな「質感」が出せる例外的な人材が、コーエン兄弟なのかもしれない。昔のアメリカ映画だったら、そんな「質感」なんて当たり前に出せていたのに。

 ぼくらがそういったアメリカ映画──もちろんアメリカ映画ばかりじゃなくて、ルノワールの映画でも、トリュフォーの映画でもいいんだけど、つまり、映画と単に呼んだ方がいいなら、映画の「質感」についてはっきり意識したのはいつからだったろう? もちろん、後からジョン・フォードの『捜索者』や、ニコラス・レイの『夜の人々』を見たときでもあったけど、そのとき、ぼくらはすでに蓮實重彦の批評を読み込んでいて、そうした映画の「質感」に敏感になっていたはずだ。「いつから」というぼくの疑問は、蓮實さんを読む前に、そんなことを朧気にでも感じたのはいつごろからだったろうか、ということ。かすかすの同時代に『ハタリ』だって封切りで見たことがあったけど、小学生のぼくが見たのは、アフリカの大自然の中の猛獣狩りであって、サバンナの草原の質感ではなかった。

 はっきり思い出すのは、あの頃だ。そして、あれらの作品だ。まずトリュフォーの『恋のエチュード』。『大人は判ってくれない』や『突然炎のごとく』のヌーヴェルヴァーグ的なるものから、トリュフォーがちょっとスタイルを変えた時期だった。後から思えば、それはネストール・アルメンドロスの力もあったと思うけれども、ラスト近くに見えるベッドの上の真っ赤な血だった。すごく即物だな、と思った。映画というビロードみたいな保護装置がすっかり外されて、生身の何かに触れたときのような感じ。『恋のエチュード』と、確か前後して見たアメリカ映画の1本にもそんな感じがした。南北戦争時代のアメリカで逃げ惑う少年たちの話だった。食べ物がなくなって、草原を走るウサギを捕らえた少年たちは、ウサギを「さばいて」料理する。それも後になって見れば、エルマンノ・オルミの『木靴の木』で豚を捌くところが詳細に演出されていたのも思い出される。そして、何と、ウサギを「さばいて」見せてくれたのは、『トゥルー・グリット』で、ただのデブのマーシャルを演じていたジェフ・ブリッジズだった。1972年の映画『夕陽の群盗』でのこと。監督はロバート・ベントン。ハーヴィー・シュミットの唄『トライ・トゥー・リメンバー』が本当に美しく使われていた映画だった。

 『トゥルー・グリット』のコーエン兄弟は、確かにそんな「質感」が十分に伝えてくれるし、このフィルムは決して悪い作品ではない。だが、『夕陽の群盗』にあって、『トゥルー・グリット』にないもの、それこそ『トライ・トゥー・リメンバー』みたいな素敵な主題歌だった。

 映画が終わり、銀座に出ると、五月の陽光が眩しいくらいだった。『トライ・トゥー・リメンバー』を口ずさみながら──この歌は9月の唄だけど──、光に溢れた横断歩道を数寄屋橋の方へ渡った。