ロッテ・レニアと『Speak Low』

2011年5月31

 

 大学で長い会議が終わった夜、職場の同僚をクルマに乗せて、ある駅まで送ったときのことだ。キーを差しこみ、エンジンがかかると、CDが回り始めた。突然、『Speak Low』が流れた。そのアルバムは、ダイアン・シューアの『Love Songs』というアルバムで、そのころクルマの中で毎日聴いていた。『Our Love is Here to Stay』や『September in the Rain』という大好きな曲も収録されていた。ダイアン・シューアは、生まれながらに盲目のジャズシンガーだ。ダイアナ・クラールみたいにセクシーじゃないけれど、彼女のヴォーカルは極上だ。

 同乗していた彼は、ぼくに言った。「男しか乗っていないクルマには似合いませんね。それに家族の待っている家に帰る時に聴く曲じゃない。仕事が終えて愛人の部屋へ急ぐときにはピッタリだけど」。正しい。「愛を語るときは、小声でね」で始まる歌詞は、シェイクピアの『空騒ぎ』の台詞から取られたものだ。確かに、妻子の待つ家庭へ帰るのに、『Speak Low』は合わない。「まあ、いいじゃない。夜の第3京浜には合っていると思うけど」。「ええ、まあ。でも、この曲、確か、クルト・ワイルですよね。クルト・ワイルのメロディー・ラインっていいですね」。フリー・ジャズや現代音楽の専門家である彼の耳に、ぼくがクルマで聴いている曲を聴かせるのはちょっと恥ずかしいことだったけれど、「クルト・ワイルのメロディー・ラインがいい」という彼の指摘はちょっと嬉しかった。

 あれから何年経ったろうか。それからクルト・ワイルの楽曲をよく聴くようになった。たとえば、ここ20年くらいクルト・ワイルと言えば、必ず彼女を思い出すといってもいいくらいの、ウーテ・レンパーが歌うワイル。彼女も『Speak Low』は歌っているけれども、レンパーだったら、『マック・ザ・ナイフ』などのブレヒト=ワイル時代の曲の方がいいだろう。レンパーのドイツ語によるワイル──ヴァイルと書いた方がドイツ語っぽくていいかな──を聴いていると、正調・ブレヒト=ヴァイルも聴きたくなる。もちろんロッテ・レニアの出番だ。(http://www.youtube.com/watch?v=iJKkqC8JVXk)  ロッテ・レニアは、クルト・ワイル夫人だ。Youtubeなどでロッテ・レニアのパフォーマンスを見ていると、ヴァイマール共和国時代のベルリンが思い浮かぶ。ブレヒトやマックス・ラインハルトが活躍し、多くのキャバレーがあって……。たった15年間のことだったが、ヴァイマール文化がなければ、今のぼくらの文化なんてぜったいあり得なかったろう。ブレヒトやワイルばかりじゃない。グロピウスやミースのバウハウス、パウル・クレーなどの絵画……数え上げればきりがない。乳母車一台分の紙幣でやっとパンが買えたという例え話があるほどのインフレで、生活は大変だったろうし、そのことがナチの勃興の一因にもなっているわけだが、それでも、ヴァイマール文化の果たした役割の大きさは計り知れない。

 ウィーンに生まれたロッテ・レニアは、女優を志してチューリッヒの演劇学校に通い、後に、ベルリンに出る。そして、オーディションの末、『三文オペラ』のジェニー役を得る。ヴァイマール末期、ロッテ・レニアは、ブレヒト=ワイルの舞台の中心にいた。そして1933年、この年にベルリンを去った多くのアーティストたちと同じように、彼女もパリを経由してニューヨークに亡命する。ワイルはニューヨークでグループ・シアターの人々と知り合い、後でミュージカルになる『ジョニー・ジョンソン』をポール・グリーンと一緒に作っている。いろいろ調べてみるとロッテ・レニアは大変な女性だったようだ。周知の通り、クルト・ワイルとは1度離婚して、もう1度結婚している。クルト・ワイルとロッテ・レニアは、ワイマール時代のベルリンからナチの勃興によってアメリカに亡命していたのだが、ロッテ・レニアは、ワイルとの最初の結婚のドイツ時代にも、そして2度目の結婚をしたアメリカ時代にも、何人もの愛人がいたらしい。クルト・ワイルとの2度目の結婚は、クルト・ワイルが亡くなった1950年まで続くが、『ジョニー・ジョンソン』のポール・グリーンは、ロッテ・レニアの「最初のアメリカ人の愛人」と言われている。『Speak Low』が生まれたのもそんな頃の話だ。ワイマールのベルリンから、パリを経由してニューヨークへ移住するという大変な時期に、クルト・ワイルは同じ女性と2度結婚し、2度目の結婚直後に、ロッテ・レニアはもうアメリカで最初の浮気をしている。「愛を語るときは、小声で」というとってもロマンティックな曲は、そんな公私共々「激動」の時代にできたということだ。

 クルト・ワイルが亡くなった年、彼が音楽を担当した映画が封切られた。『旅愁』だ。監督は、やはりウィーン生まれのウィリアム・ディターレ。ジョセフ・コットンとジョーン・フォンテインが演じる甘い甘いメロドラマ。主題歌を歌っているのはモーリス・シュヴァリエ。あの『September Song』だ。ここでもまたメロディー・ラインが極めて美しいラブソング。激動の時代をかろうじて生き抜き、妻に裏切られ続けても、ワイルは、ラブソングを書き続けた。ケン・ラッセルが、クルト・ワイルの名曲を歌うロッテ・レニアを1962年に映像に収めている。(http://www.dailymotion.com/video/x6gtsw_lotte-lenya-sings-kurt-weill-ken-ru_music

 ぼくと『Speak Low』をクルマの中で聴いたのは、一昨年に亡くなった大里俊晴だ。彼とクルト・ワイルのことをもっと話したかったな。