いくつものパッサージュ

2011年7月24

 

 東横線の中で『旨い定食 途中下車』(光文社新書)を読んでいた。著者の今柊二さんの本は定食関連に限って何冊も読んでいる。「定食関連」と書いたのは、彼が書いたガンダム関連の本を読んでいないからだ。行ったことのある店もあったし、行ったことのない店もあった。行ったことのある店については、彼の感想に同意する部分もあったし、「そうかな?」と思う部分もあった。でも、この本を貫いている彼の姿勢は共感できる。

 どんな姿勢か? たくさんの定食屋さんが沿線別に記述されていて、たまたま東横線に乗っていたぼくは、東横線の部分(冒頭だ)から読んでいったが、私鉄沿線の駅でぶらりと降りて定食屋さんと古本屋を回る彼の姿勢が良い。がつがつしていない。めざす店に一気に向かうのではなく、まず駅についての記述から入り、街の雰囲気に触れ、そして定食屋さんに出会う。私鉄沿線の小路の商店街の雰囲気、なかなか良いよね。たくさんの人々が行き交っている。彼自身もベンヤミン風に書けば「遊歩者」なんだ。私鉄沿線の商店街を作っている小路は、ガラス張りの天井こそないものの(もちろん武蔵小山のパール街みたいにガラスの天井がある商店街も存在しているけど──アーケードって言うんだった!)、まるでベンヤミンが死ぬまで書き続けた「パッサージュ」みたいだ。

 そんなことを考えていたら、すごく悲しくなった。本家本元のパリのパッサージュのことを思い出したからだ。

 セーヌ左岸のぼくのアパートからは右岸にあるパッサージュはけっこう遠い。もともと映画館などパッサージュにはあまりなかったから(といっても当時ドミニク・パイーニがやっていたステュジオ43はモンマルトル通り43番地にあったので、いろんなパッサージュにも近かったが)しばらくの間、パッサージュと縁がなかった。パッサージュは、むしろ劇場の記憶と結びつく。サッシャ・ギトリが長いこといたエドゥアール七世座周辺を散策したり、オペラ・コミック座周辺を歩くと、至る所にパッサージュが走っていた。後にパッサージュ・パノラマにある映画専門の書店にも行くようになった。パッサージュを歩くと、パリの成り立ちが本当によく分かった。グラン・ブールヴァールと劇場、そして商店街を形成するパッサージュ。80年代も後半になると、たとえばギャルリー・ヴィヴィエンヌに進出したジャン=ポール・ゴルティエのブティックのように、そうしたパッサージュにも新進のデザイナーの店が現れはじめた。

 さっき「すごく悲しくなった」と書いた理由? 確かにパッサージュを歩いているとハッピーにはなるけど悲しくはならない。別の「パッサージュ」のことを思い出したからだ。パリでパッサージュの走るのは旧オペラ座の裏当たりばかりではない。バスティーユからレピュブリック周辺にも多くのパッサージュが走っている。いちばん愛着があるのはパッサージュ・ドゥ・ラ・ブールブランシュ。雪玉小路とでも訳すんだろうか? そこに30年近く存在していたのは「カイエ・デュ・シネマ」編集部だった。80年代末期から今世紀になるまでいったい何度通ったことだろう。左岸のホテルに宿を取って86番のバスでフォーブール・サンアントワーヌで下車し、目の前のパッサージュに入り、中庭を抜けたところに「カイエ・デュ・シネマ」はあった。いつも迎えたくれたのはクローディーヌ・パコ。出版局長でカイエのゴッドマザーでもあった。とてもタフなネゴシエーターだったけれど、タイトな話が終わると、ときどき一緒に昼食に行った。当時カイエの編集長だったティエリー・ジュスも一緒のことが多かった。タフでタイトな話を忘れて、彼女たちといつも通ったレストランも「ル・パッサージュ」という名前のアンドゥイエットがとてもうまい店だった。そのレストランは、カイエの事務所から歩いて10分近くかかるパッサージュ・ドゥ・ラ・ボングレーヌにあった。そのレストランではいろいろなことを話した。カイエの企画のこと、ゴダールのこと、カラックスのこと、ロメールのこと、エドワード・ヤンのこと、デリダのこと、ドゥルーズのこと、北野武のこと……。昼食を食べ終わるともう午後4時頃になったことも何度もあった。いつもクローディーヌが奢ってくれた。

 悲しいのは、そのクローディーヌ・パコが亡くなったからだ。カイエの最新号の冒頭はクローディーヌの追悼文がある。彼女を雇ったセルジュ・トゥビアナの追悼文。彼女は1951年の生まれ、つまりカイエが生まれた年に彼女が生まれた……ちょっと涙ぐんだ。そしてディエリー・ジュスの書く追悼文のタイトルは、”9, passage de la boule blanche”。彼にとってもカイエとは雪玉小路の同義語なのだ。アンドレ・テシネの『野生の葦』についてクローディーヌの話したとき、彼女はこんなことを言っていた。「私の息子も映画に出てくる男の子の同じようにラグビーをやっているのよ」「ポジションは?」「第2列」「じゃ大きいんだ!」「頼もしいわよ」……。考えてみればクローディーヌ自身がカイエ・デュ・シネマにおけるパッサージュのような人だった。