ふたつの愛

2011年9月7日

 いつだったか「nobody」のためにカトリーヌ・ドゥヌーヴのインタヴューを翻訳しているとき、ドゥヌーヴがどんな音楽を聴いているか、という質問があった。マデリン・ペールーを聴いている、と彼女が言っていた。早速、ぼくも彼女の『Careless Love』というCDを買った。ドゥヌーヴはペールーの名前を娘のキアラ・マストロヤンニから聞いたと言っていた。キアラは当時、音楽プロデューサーのバンジャマン・ビオレを結婚していたので、新譜に関してはすごく詳しかったらしい。

 『Careless Love』はとても良かった。タイトルになった曲はすごく古い曲で、前世紀初頭のニューオリンズ・ジャズにルーツを持っている(http://www.youtube.com/watch?v=tP87IH_FEn4)。それ以降、ずっと歌い継がれている。ぼくが持っているCDだとディック・ミネが歌っているのがあったし、プレスリー・ヴァージョンも知っている。ボブ・ディランやルイ・アームストロングを歌っているということだ。このCDは、他にもレナード・コーエンの『Dance Me to the End of Love』(http://www.youtube.com/watch?v=Pl-cVgAU8K8)など有名な曲も多く入っているカヴァー・アルバムだ。そんな中でペールーが、カナダ人らしく一曲だけフランス語で歌っている曲があった。『J’ai deux amours』(http://www.youtube.com/watch?v=3GZRTm9-tz0)だ。「わたしにはふたつの愛がある/わたしの故郷とパリ……」で始まる美しい曲だ。覚えやすいメロディーなので、つい口ずさんでしまう。知られているように、このシャンソンは、もともと1930年にジョセフィン・ベイカーが歌ったものだ。カジノ・ドゥ・パリのレヴューで歌われたものだが、ちょうど同時期に植民地博覧会が行われていて、この黒人シンガーが歌う唄は、大ヒットした。ペールーといい、ジョセフィン・ベイカーといい、フランス人でない女性歌手がパリで歌うにはうってつけの歌なのだろう。

 「わたしの故郷とパリ……」か。そんなことを考えていたら、「東京人8月号」の『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』が、姉妹編の『東京の空の下オムレツのにおいは流れる』と一緒に文庫化されたという記事が目についた。恵比寿の有隣堂(近隣の本屋では好きな本屋だ)まで自転車で走って、早速、この2冊を買い求めた。前者は1963年初版、後者は1985年初版。どちらも著者は昨年88歳で亡くなった石井好子さん。『巴里……』の初版の装丁は本屋で何度も見たことがある(http://www.amazon.co.jp/gp/product/images/4766000285/ref=dp_otherviews_z_0?ie=UTF8&s=books&img=0)。当時、「暮らしの手帖」の編集長だった花森安治が石井さんに、「たべものの随筆を書いてごらん。あなたは食いしん坊だから、きっとおいしそうな料文章が書けるよ」と誘って、同誌に連載が始まったそうだ。装丁も花森安治による。この本で石井好子さんはエッセイスト賞を獲得した。この本が出版された当時、ぼくはまだ小学生で、こんな本は読んでいない。だが、この本はロングセラーになっていて、書店でよく見かけた。読んでみると、石井好子さんの文章がとてもいい。花森安治の編集者としての直感に脱帽。ぼくも食事に関する本を一冊出しているけれども、その本を書く前に読んでおくべきだった。石井さんの本を読んでいたら、ぼくには食事の本なんて書けなかったかもしれない。完全にぼくの負け。どの料理の件を読んでも、食べたくなる。そして作りたくなる。「バタをたくさん入れたオムレツ」(バターでなく『バタ』なのがいい)なんて誰でも作ってみたくなるでしょう! 生きることにおいて食べることの大事さが見事に語られていて、40歳代になったばかりの石井さんの人生が込められている。それにしても、なぜ食事についてのエッセーを書くと、ぼくも含めて自伝的なものになってしまうのだろう。食べているシーンを描写すると、ぜったいにそのときの雰囲気や時代まで描写しなければならなくなり、そのシーンの中にいる食べ手=書き手が浮かび上がるからだ。食べるということが抽象性とは正反対の極めて具体的な人生の時間について語ることだからだ。そして、生きるための、生きていくための力が食べ物から与えられるから。

 もちろん、『巴里の……』の22年後の続編に当たる『東京の空の下オムレツのにおいは流れる』も読んでみた。文章の質が格段に上がっている。『巴里の……』が「青春篇」だとしたら『東京の……』は、「熟年篇」だろうか。その22年の間に、石井さんは、妻子ある男性と恋をし、4年の間、文通だけで愛を育み結婚した。そして、『東京の……』を書き終わる頃、ご主人が急死し、時を経ずに、石井さんのお父上である、戦前は朝日新聞の記者であり、戦後は大政治家だった石井光二郎が亡くなっている。石井さんは、戦後すぐに親の勧めで最初の結婚をするが、すぐに離婚し、サンフランシスコからパリに渡っている。まだサンフランシスコ講和条約締結以前のことだ。精神的にも経済的もお父上のお世話になったにちがいない。そして、石井さんが歌手になったのも、戦後すぐのことで、進駐軍周りのビッグバンドジャズのシンガーとしてのことだった。そのバンドには森山久(森山良子の父)やディーブ釜萢(ムッシュかまやつの父)がいた。『石井好子──オムレツとシャンソンとエッセイと』(河出書房新社)にはムッシュかまやつのエッセーが掲載されているが、石井さんはムッシュのことを「ひろし」とずっと呼んでいたようだ。なんだが笑ってしまった。ムッシュのことを「ひろし」と呼ぶ人が他にいたろうか? その後、石井さんはサンフランシスコの音楽学校に通い、帰りにパリに寄るが、そこでシャンソンに出会い、ミュージックホールで歌うようになる。

 『東京の……』の最後に収められたエッセーのタイトルは「トゥール・ダルジャンのいりたまご」だ。『巴里の……』は、石井さんが最初に巴里で下宿したロシア系のカミンスキー夫人の家庭的なオムレツから始まっている。そしてラストを飾るのがトゥール・ダルジャン。正直に告白するが、ぼくは石井さんが生涯を賭けたシャンソンがあまり好きではなかった。若い頃は、なにか人生訓みたいに聞こえて、特に警句に満ちた歌詞が嫌だった。石井好子のシャンソンもテレビで見聞きしたが、チャンネルを変えたことも多かった。今よりもっと直情的で幼稚だったぼくは、何よりも自民党の大立て者を父に持ち、その経済力とコネを背景に、トゥール・ダルジャンみたいな場所で食事をする「おばさん」が許せなかったのかもしれない。でも、今、「トゥール・ダルジャンのいりたまご」を読んで素直に感動したと書きたい。大事な人たちの相次ぐ死の後で、60歳を越えた石井さんはこう書く。「私も『もう年だ』などとはいうまい。『もうダメだ』と人生を投げることはやめよう。そしてアメリカやフランスの往年のスターたちに負けずに第三の人生に向かって歩いて行こう」。

 『東京の……』の出版から5年後、石井さんは、パリのオランピアでリサイタルを開く。1990年のことだ。かつて30台を迎えたばかりの石井さんは、オランピアで歌うことが憧れだった。それを68歳で実現した。『石井好子──オムレツとシャンソンとエッセイ』には、そのリサイタルのプログラムが掲載されている。「Ishii Yoshiko, Merci Paris」と題されたリサイタルだ。客席にはイヴ・モンタンも駆けつけていたという。開幕は石井さんが最初に聞いたシャンソン『聞かせてよ愛の言葉』Parlez-moi d’amour、そして『愛の賛歌』を経て、ラストの曲は、J’ai deux amours!『ふたつの愛』だ。