原宿、1965年

20111010

 東京オリンピックが終わって1年後の原宿にぼくは引っ越してきた。47年前の今日、東京オリンピックの開会式があった。

 横浜で生まれ小学校3年までそこで暮らし、父が新潟市に転勤になり、その任期が終わって、今度は原宿の公務員宿舎に住むことになった。場所は、神宮前1丁目。東郷神社の裏だ。3棟の4階建ての集合住宅があり、名前を東郷台住宅といった。

 初めての原宿で目を引いたのは、オリンピックプール。東京オリンピックでドン・ショランダーが金メダルを取ったシーンはテレビで見ていた。釣り屋根型の大空間を見たときは素直に感動した。ショランダー選手が世界記録を出したプールで泳ぐことができた。泳ぐのが苦手だったぼくは、毎日オリンピックプールに行って練習した。そして、もうひとつ。表参道の幅の広さだ。

 渋谷区立外苑中学に編入した。新潟では新潟大学附属中学に通っていた。地元のエリート校だった。地方から越してきたのと、地方のエリート校から東京の真ん中の区立中学への転校。このふたつのことは、ぼくにカルチャーショックを与えた。まず外苑中学の生徒たちは勉強ができなかった。けっこうふざけた中学生が多く、授業中にドラム代わりに机を叩いていた奴、体育の時間の前の更衣室でペニスを勃起させて自慢気に見せびらかす奴、そしてテレビの『マグマ大使』で岡田真澄の息子役をやっている俳優の奴──要するに地方のエリート校にはいないような奴らがいっぱいいた。鳩森神社の側に住んでいた田中くんは、家の手伝いで、朝ベッドメイクをしてから学校に来るのでいつも遅刻だった。田中くんの家は、当時の言葉で言う「温泉マーク」(連れ込み宿)で、田中くんは、いろんな部屋を覗いたことがあって、ぼくの知らないいろんなことを教えてくれた。地方のエリート校には存在しないタイプは、生徒ばかりではなかった。

 技術の教師は、授業中に、突然大島くんを理由もなく殴りつけ、大島くんが鼻血を出すと「校長に言わないでくれよな」と突然おどおどしていた。音楽の教師は、おとなしく生徒たちが好き勝手に楽器をいじって時間を潰している間、壁に向かって授業をしていた。「あいつ、5年前まで暴力教師だったんだ。でも、卒様式の日に、仕返しに、チェーンで顔を殴られてから、大人しくなったんだ」。隣にいたクラスメイトが教えてくれた。とても英語など話せそうもない発音で授業をしていた英語の教師はオバサンで顎が長く、「long long ago」と呼ばれていた。社会の男性教師は、この中学に来る前に、渋谷区教育委員会所属だったことをいつも自慢していた。もちろん、生徒たちは教育委員会なんて知らなかった。こんな感じじゃ誰も勉強できるようにならないね。

 退屈していたぼくは街を散歩した。片側3車線で舗道も広い表参道を原宿駅の脇から自転車で下っていった。道幅は広かったけれど、まだクルマが少なかった。1階に大きな豪華中国料理店「南国酒家」が入り、クラスメイトの中ではちょっと可愛かったエミ子が住んでいたコープ・オリンピアの前を通り過ぎ、明治通りを渡ると、クラスの鈴木くんの家であるそば屋があり、Kiddy Landがあり、Kiddy Landの向こう側には、青柳くんの家である喫茶店があった。Kiddy Landの手前には、神社のような店があった。「Oriental Bazar」と書いてあるのが、英語を習いたてのぼくにも読めた。反対側の舗道には、ずっと長く渋い感じの同潤会アパートが続いていた。明治通りの脇にあるセントラル・アパートの1階にはフィリピン料理店があって、土曜日の夜にはよく両親と食べに行った。明治通りと表参道の交差点を新宿の方に曲がると、「そば」の増田屋(よく出前をとっていた)と洋菓子の「マロン」(マロンロールが大好きで、いつも3つ食べていた)があった。「マロン」の角を左に曲がると、原宿駅に通じる小道になっていた(今では竹下通りと呼ばれている)。「マロン」の隣には、ルート5というドライヴインがあって、若い兄さん姉さんで賑わっていた。東郷神社の並びは社会福祉を専門に扱っていた社会事業大学で、社会事業大学の脇の細い道を通ると、住んでいた東郷台住宅に戻ることができた。

 田中くんの家の近くには、田中くんの家と同じ「連れ込み宿」がたくさんあった。こんな場所に「連れ込み宿」がたくさんあるのはなぜだろう? 表参道には、なぜKiddy LandOriental Bazarなんて英語で書いている店がたくさんあるのだろう? Kiddy Landの玩具は面白いけど、Oriental Bazarで売っている鳥居や仏像は誰が買うんだろう? それにしても表参道があんなに広いのはどうしてだろう? 外苑中学に入っ1ヶ月もすると、ぼくのアタマの中は、そうしたクウェスチョン・マークでいっぱいになった。

 秋尾沙戸子さんが書いた『ワシントンハイツ──GHQが東京に刻んだ戦後』が文庫化(新潮文庫)された──単行本は2009年──ので、読んでみた。中学生のぼくのアタマに浮かんだクエスチョン・マークのほとんどの解答が、この本の中にあった。ワシントンハイツは、アメリカ軍の駐屯地で、現在の代々木競技場とNHKの敷地と代々木公園の敷地のすべてを占め、800戸以上の米軍軍人とその家族のための住宅が存在していた。1963年に日本に返還され、日本政府は、米軍の住宅を改造して東京オリンピックの選手村にしていた。明治神宮に隣接した旧陸軍の敷地のすべてがワシントンハイツと呼ばれる在日米軍のための住宅地であり、当然、日本人はオフリミッツになっていた。

 秋尾さんは、この本を書こうと思ったきっかけが、彼女が西麻布に住んでいた頃、その上空をけたたましい音量で米軍のヘリコプターが飛び交うのを見たからだと書いている。六本木と西麻布の間のハーディー・バラックスのことで、ぼくも、このコラムにそのことを書いた。ワシントンハイツから直接繋がる表参道は、米軍御用達のストリートであり、だから、Oriental Bazarというこれ見よがしの東洋があり、おもちゃ屋のキディランドは、Kiddy Landと表記されていたし、だから、明治神宮の北参道にほど近い鳩森神社近辺には、これまた米軍御用達──それ以前は陸軍御用達──の「連れ込み旅館」がたくさんあったわけだ。

 ぼくが原宿に引っ越した1965年は、ワシントンハイツが返還され、東京オリンピックの翌年ということで、「東京の中のアメリカ」だった表参道周辺が、米軍御用達の場所から、東京でアメリカ文化をもっとも色濃く呼吸する場に変貌する最中だった。ドライヴインのルート5──明治通りは環状5号線、だからルート5──のパーキングには、東京の若者たちが乗り回し始めたアメ車がたくさん停まっていた。

 外苑中学にいたマグマ大使出演中の子役は、ワシントンハイツに駐屯した日系人ジャニー・キタガワさんが興す芸能事務所ジャニーズ事務所に入り、後にフォーリーブスの一員になった。彼の口から「ジャニーさん」とか「メリーさん」という固有名が漏れるのを聞いたことがあった。

 青柳くんの家だった喫茶店も鈴木くんの家だったそば屋もビルになった。渋い同潤会アパートはなくなり、表参道ヒルズになり、フィリピン料理店が入っていたセントラルアパートも取り壊され、ルート5はずっと前になくなっている。マロンの前の東郷女子学生会館がパレフランスになったのは、ぼくが大学生になる頃の話だ。田中くんの家だった「連れ込み旅館」はマンションになったのもぼくが大学生だった頃。アメリカだった表参道が少しずつアパレル系のストリートに変動していった。技術の教師に理由もなく殴られていた大島くんは19歳で父になり、新宿でバーを経営しているそうだ。エミ子は今でもコープオリンピアに住んでいるのだろうか?