安井豊作への手紙

 かなり前からこの本の書評めいたものを書こうとしていたのだが、どうにも書けない。黒岩幹子の愛に満ちた書評を読んだためかも知れない。だが、書評にはならないだろうが、こうして、この本について、この本の著者について、文章を綴り始めてしまった。『シネ砦炎上す』(以文社刊)と安井豊作についてだ。

 この書物の編集を担当した、というか、この本を世の中に出すことを倫理だとさえ考えていた以文社の宮田さんから電話をもらったときのことだ。

──とうとう安井さんの本が出版にこぎ着けられることになりましたよ。

──よかったね。でも薄いんじゃないの。100ページくらい?

──とんでもないですよ。400ページを超えましたよ!

──ええ! ホント?

 電話でそんな会話をした。ぼくにとって安井はなかなか原稿を書かない奴で、たまに引き受けた原稿もほとんどボツにする奴だった。まれに原稿を書いてきても、一行一行が紙の上に刻みつけられたような文章で、軽く読めるものではなかった。だが、もちろん、集中してしっかり読んだときは、結果はいつもすごいものだった。映画について思考するときに、通り過ぎることの許されない地点にじっくりと立ち止まり、その地点がなぜ重要なのかを明解に解き明かしてくれた。だから安井がこれまでに400ページを超える文章を書いていたなどいうことは俄に信じがたいことだった。安井が原稿をボツにしまくるおかげで、安井が空けた穴を埋めるために、「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」の編集をしていたぼくは、池袋からかなり歩いた赤羽線の線路沿いにある印刷所の5階で白いページに字を埋める作業を何度もしていた。ぼくが何を書いたかはまったく覚えていない。印刷所のボロい建物にはエレヴェーターがなく、かなり急な階段をフーフーいいながら5階まで何度も何度も上がったことだけはよく覚えている。

 しかし、原稿をボツにした安井は、まったく悪びれる気配もなく、毎週木曜の夕刻から開いていた編集会議には、缶ビール持参で遅れることなく皆勤し、常に中央の陣取り、次の企画について堂々と意見を述べていたのだった。ぼくは、そんなに意見があるんだったら、次からきっちり原稿を書いて来いよな、と呆れながらも、彼の意見に耳を傾けてしまうのだった。この本の「あとがき」にもあるが、稲川方人とぼくが編集方針や映画の評価をめぐって論争したとき、それを弁証法的に止揚するのは安井の役割だった。

 だが、考えてみれば、安井が原稿を何度もボツにしたのは、彼が「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」の編集委員を務めていた時代であって、それ以前、彼はけっこうマメに文章を書いていたのだった。でなければ、「伝説の」タウン誌「シティロード」の星取り表担当──ほとんどの映画に☆をひとつしかつけない──を続け、そこに実に気の利いた警句を毎月書き記すこともなかったろう。蓮實重彦が責任編集をしていた、これまた「伝説の」映画批評誌「リュミエール」のレギュラー・ライターを務めることもなかったろう。送られてくる「シティロード」を手にして、まず最初に読むのは安井の星取り表で、「リュミエール」でも、まず安井の短文──「リュミエール」掲載の文章のほとんどはひどく長く何ページも続いていたが、安井のそれは見開きかせいぜい3ページだった──を読んで大笑いしてから、蓮實重彦の映画史についての文章を勉強し、松浦寿輝の美しい批評文を読んで感心する経験をしたのはぼくだけではないだろう。

 つまり、安井の中で文章を書く姿勢が変わったことだけは明らかだ。少なくとも「カイエ」に安井が発表した文章を読んで、感心したり、すごいなと思ったりした人はぼく以外にもたくさんいるだろうが、「カイエ」の彼の文章に大笑いした人はいないだろう。そう言えば、彼が「宝島」に書いた「いいかげんにしろよ爺さん」というロメール論がぼくは大好きだった。ロメールについて、(ぼくも含めて)批評家たちは訳知りの文章を書いているが、実は、少女をたぶらかそうとしている「爺さん」なんだ。だからお嬢さんたち、ロメールに注意しろよ、という文章だった。

 なぜ彼が文章を書く姿勢が変わったのだろう? 理由はぼくにとって明らかだった。柄谷行人の影響だ。柄谷がカントを読み直していた頃、安井の文章にもカントへの言及があることがその証拠だ。「英語の授業なのに、とつぜん浅田彰の批判を始めるんですよ」と法政大学の学生をやっていた時代、安井はぼくに言っていた。まだ柄谷と浅田が「批評空間」を始めるずっと前の話だ。柄谷をじっくり読み始めた安井は、柄谷のように明瞭だけれど、「色気を欠いた」文章を書くようになった。ぼくは、編集者として安井の文章をじっくり読む仕事をしていたので、同時代の柄谷(今の彼ではない)と安井の間にある親和力みたいなものを感じたのだと思う。そして安井の文章は、ぼくがごく当たり前じゃんと思っていたことが、実は「当たり前」ではなく、それを「当たり前」と考えるには、いくつもの前提が必要になることを、彼の文章を読みながら、ぼくは学んでいったのだ。編集者冥利につきる作業だった。

 それから彼は病気になってしまって、「失われた10年」がやってくる。もちろん、その間にも、安井は、廣瀬純を発見し、それなりに豊かな時間をすごしたのだろうが、彼の文章にぼくら触れることはかつてよりもずっと少なくなった。彼にとっての「失われた10年」は、ぼくにとっても「失われた10年」かもしれない。その10年間、ぼくは、子育てに追われた。

 安井と知り合ってからもう30年近い年月が流れている。『シネ砦炎上す』を読むと、彼の30年間を考えるのと同時に、この30年間の映画と批評を思い出す。そして、ぼくは、この本にある文章の周囲にあって、文章に書かれていない安井と話した多くの夜のことを思い出す。