歴史から逃れることができない人々と<フェイクポップ>

――『バビロン2』と前作『花物語バビロン』(97)の大きな違いは何だと思いますか。

相澤『花物語バビロン』はどちらかというとセルフドキュメンタリー的な雰囲気の作品。『バビロン2』はやっぱりエンターテイメントですね。だからアメリカンな感じの見易い作品をつくったと自分では考えています。でも、その「見易さ」が実は危ないのかもしれない。たぶんその「見易さ」っていうのは、自分たちの身体に組み込まれているものなんだよな。アメリカによって身体に刷り込まれている気持ち良さみたいな。

――たしかに、この『バビロン2』には人々がなんとなく共有している時代の雰囲気のような何かがわかりやすく映り込んでいる気がします。

相澤 これは冗談で言っているわけでもなんでもなくて、やっぱりこの『バビロン2』は『ランボー/怒りの脱出』(85、ジョージ・P・コスマトス)のような、すごくわかりやすい映画だと思う。ベトナムで行方不明になった戦争捕虜を助けにいく、2作目のほうね。1作目の『ランボー』(82、テッド・コッチェフ)はヘビーだったけど、『ランボー/怒りの脱出』では盛大にアクションものに転換するという、その「わかりやすさ」に近い気がします。それで3作目が『ランボー3/怒りのアフガン』(88、ピーター・マクドナルド)で、けっきょくアメリカはそのアフガンと戦争するはめになったし。『ランボー/最後の戦場』(08、シルヴェスター・スタローン)がミャンマーで、次回作はアメリカに戻ってメキシコとの国境線の話らしいから、「ランボー」はまさに戦争の歴史から逃れることができない男の話なんです。

――とはいえ、イギー・ポップの「サーチ&デストロイ」のような音楽も気持ち良く使っていますが、一方でどこかその気持ちの良い流れをブチッと切断している感じもするんですよ。

相澤あの曲名はベトナム戦争時の作戦名です。ゴダールもそういうことをやっているよね。ポップミュージックとかアメリカ的なものの気持ち良さやわかりやすさの、良い側面と危ない側面を意識したような使い方です。だから、『バビロン2』では新しいことは何ひとつやっておりません。ゴダールの真似みたいなことをしてつくってみたような映画です(笑)。

――この『バビロン2』では、そういったアメリカ的な音楽がたくさん使われていますが、ほかにも銃撃音やジッポーの音など、音のつくり方がすごく良いなと思いました。

相澤今回の音は、音声の山﨑巌さんと楽曲担当の金子麻友美さんというプロの方たちがすごく頑張ってくれました。山﨑さんは『国道20号線』からずっと音声をやってくれていて、もともとソフト・マシーンのヒュー・ホッパーたちとやっていたミュージシャンだった方です。銃撃音とかもいろいろな音を集めてつくってもらったよ。本物の銃撃音を探してきたりしてね。

“BABYLON BAND”は金子さんとその後輩の方たちにやってもらっています。ぜひ注目してほしいんだけど、つくってもらった音楽は、大概は自分たちが聞いてきたロックとかソウルのパクリなんです。ドアーズの「ジ・エンド」とかに聞こえるけれども、まったく違う曲をつくってくれと頼んだりして。だからこの『バビロン2』の音楽は、一応すべてに原曲があって、聞いているとその原曲の記憶が喚起されるようなつくり方をしてもらいました。言ってしまえば、フェイクポップ(笑)。

――たしかにジミヘン風の曲などは、ジミヘンにしか聞こえませんでした(笑)。

相澤 でしょ?俺もジミヘンにしか聞こえなかった(笑)。さすがにこれはヤバいなと思って「大丈夫なの?」って金子さんに聞いたら、「大丈夫です、これはジミヘンとはまったく違う曲です」と。たしかに聞き比べてみると、全然違う曲なんですね。だから、今回の『バビロン2』はそういう意味でも本当に音楽の力によるところが大きいと思います。そしてなんとサントラCDが出ます!!

<フィクション>と<ドキュメンタリー>のあいだに

――映画の終盤で小沢が歩いている場所は、歌舞伎町のコマ劇場の前ですよね。

相澤そう。一応、はじめからコマ劇場前で撮ろうとは考えていた。あの周辺にシネコンができるということで、工事中になっているけど、やっぱりあの広場は「新宿」の象徴。でも、2005年に撮っていた頃は、正直なところ都庁を映すということは考えていなかったです。もう少しまろやかに終わらせようと考えていたし、さすがにあれはやりすぎだろうと自分でも思うけど……。とはいえ、ああいうことは映画的には不正解かもしれないけど、やはり許せん!と思ってやってしまいました。

――やはり、相澤さんが見てきたアメリカ映画の痕跡や、“BABYLON BAND”の音楽によって喚起される記憶といったものが、この『バビロン2』が語る歴史に厚みを与えているように思えます。すべてがフェイクなんだけれども、パラレル・ワールドのように、世界の別の可能性が垣間見えてくるような気がします。

相澤やっぱり、自分でも知らないうちにそういうもののなかを生きているような気がする。血となり肉となっているものが自分のうちにあると言うか。もちろん、世の中に認められている歴史と、自分の認識している歴史は実は全然異なるものなのかもしれないけど、その「ズレ」のなかを旅しているような感覚がある。その旅が、この「バビロン」シリーズとしてかたちになっているんだと思う

――『Playback』(12、三宅唱)もそうですが、最近は過去を反芻するような作品が多くつくられている傾向があるように思えます。この『バビロン2』もそうですし、『カルロス』(10、オリヴィエ・アサイヤス)などもその大きな流れのなかに位置づけることができる作品です。

相澤 『Playback』は 映画史の記憶にも関わるすごい作品ですね。『バビロン2』は『カルロス』とぜひ一緒に見てほしいな。けっきょく、こういうことは歴史の勉強。正しい史実とか虐げられてきた人々の歴史とか、いろいろな歴史があるわけだけど、でも基本として知っておかなきゃならない歴史っていうのがあると思う。『カルロス』もそういう話なんじゃないかな。その歴史を知っておいて損はないし、知ったうえで、自分が何をするか考えないといけないような気にさせる映画。ベトナム戦争にしても、日本とは無関係なものじゃない。実際日本の植民地でもあったし、よく「朝鮮特需」って言われるけど、実は一番大きかったのは「ベトナム特需」だったと思う。経済の面でも、文化の面でもね。いまの沖縄の問題も、ベトナムがもろに関係しているし。そういうことを、最初はミリタリー・マニアから入っていって考えていたわけだけど、それが最終的には東京都知事を倒すしかない、というような作品を撮るまでに到ってしまいました……。

――『花物語バビロン』は山形国際ドキュメンタリー映画祭に出品されました。フィクションとドキュメンタリーという区分で言えば、相澤さんのなかではこの「バビロン」シリーズはどちらに区分されますか?

相澤 まあ、フィクションですね。でもそれは難しいな。あんまりそういう区別をして考えたことがないから。空族のメンバーもそうだと思う。ドキュメンタリーと言えば、すべての作品がドキュメンタリーと言えてしまうし、フィクションと言えばフィクションになるから。

――安井豊作さんは、小川伸介の『三里塚・第二砦の人々』について書いた文章で、「ドキュメンタリー」とは、「フィクションが誕生する瞬間にとどまり続けることである」と言っています(「砦と映画 小川プロダクション『三里塚・第二砦の人々』の視線」『シネ砦炎上す』以文社所収、P.20)。もちろんこの『バビロン2』は「三里塚」シリーズとは異なりますが、そういう「フィクションが誕生する瞬間」のようなものを捉えることができている作品だと思うんです。

相澤 そもそもドキュメンタリーとフィクションの区別っていうのは、売り物として世に出たときのためにあるようなものだしね。もちろん、方法論として区別をつけている人もいると思うし、つくり始める前にそこを悩む人もいるかもしれないけど、やっぱりそのあたりは映画をつくるときの前提として考えておくべきことだから。逆にその前提がないような作品を見ると、ちょっと悲しい気分になります。でも、良い映画は大概がその前提があったうえで撮られている。この『バビロン2』がどう見られるのかはわからないけど、良い映画や良いドキュメンタリーのほとんどは、フィクションとドキュメンタリーの狭間にあるものだと思う。ほら、ルー・リードの歌詞にもあったでしょ?「想いと表現のあいだに人生がある」っていうのが(笑)。映画もそれと同じだと思います。

――最後に、この『バビロン2』の公開に向けて相澤さんの考える見どころを教えてください。

やっぱり主演の富田克也君の生き様と、音楽に注目してもらいたいです。あとはこの小神源太とか、小澤(鷹野毅)といった登場人物たちの胡散臭い雰囲気かな。少し前に、嘘くさいファンドをつくって、ジャン=クロード・ヴァン・ダムとかを宣伝や映画に使ってフィリピン人から金を巻き上げていた詐欺師がいたんだけど、小神の名前はその詐欺師の名前をもじりました。すごく面白い事件だから、映画を見てくれた人にはぜひ調べてみてもらいたい!その人は「わたしがアジアを救う」と言っておりました。

聞き手・構成=高木佑介、渡辺進也
写真=高木佑介

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