音という旅

坂本安美

隔たりの青

 夜が明けようとしている時間帯だろうか、大きな窓の外には水に滲んだインクのように濃い青色がぼんやりと空を染め、その下に広がる街がうっすらと見えてくる。形を帯びようとしている世界を背後に、黒いシルエットが私たちの目の前に現れる。音(霧島れいか)、それが女の名前であり、影絵のように動くそのほっそりとした身体からは低い声が響いてくる。彼女と共にベッドにいる男、夫の悠介(西島秀俊)は、微睡みながらもその声が語る「恋する空き巣の少女」の物語に聞き入っている。人間関係の深淵なる部分、「親密さ」を映画でとらえるという、現在の日本映画においては稀有な試みを続けている濱口竜介の最新作『ドライブ・マイ・カー』は、一組の男女のまさにもっとも親密で、秘められた場面、セックスの後のベッドでの会話から始まる。声とシルエットによってこの映画に登場した音は、その後、悠介の視線を介して、あるいは悠介の見えている空間において存在していく。舞台の仕事へと向かう彼を見送る音。楽屋で公演後の彼を労う音。ウラジオストックに出張に行く彼を見送る音。彼の上で、性の快楽の漣とともに浮かび上がってくる物語を身体の延長である声にする音。こうして悠介を通して彼女を発見しながら、私たちはふたりが交わす言葉と言葉の間、視線と視線の間にある種の緊張感を確認していくことになる。その緊張感は愛し合う者同士が共有する他者への敬意として見えながら、どんなに近づいても、決して触れ合あうことのできないふたりの間の隔たりが、突如として悠介をたじろがせ、怯えさせることになる。一見すると穏やかで、愛情に満ちたふたりの生活の中には、悦びもあれば、驚き、疑念、失望、そして哀しみもあり、甘美な時間のそのすぐ次にはぞっとするような恐ろしい瞬間が待ち受けている。この前半部分において、濱口は、一組のカップル、愛し合うふたりの生活に訪れる不意の衝撃や動揺、それまで当たり前のように見えていたものに突如として影が落ち始める瞬間、相手の頭の中で起こっていること以上に謎めいたものがないというそのサスペンスを、類まれな鋭さと繊細さで描き出していく。一組の男女をその主要なテーマとし、まさにそのサスペンスの根幹にさえしてきたヒッチコック、あるいはそのヒッチコックを師とし、より日常的な物語の中でそうしたサスペンスを描いてきたエリック・ロメールの映画(『三重スパイ』がそのもっとも顕著な例であるだろう)におけるカップルたちを思い起こしさえする。
 結局のところ音は黒いシルエットでしかなかったのだろうか。彼女はほんの一瞬、悠介には見えることのない、知ることのない顔を私たちに見せる。ベッドの上で、裸で抱き合うふたり、身体を交えながらも互いに別の方向を向き、悠介から音へと切り返されたカメラは、深い、深い闇を湛えた彼女の顔をとらえる。そして音はその闇を抱えて、この世から去っていく。
しかしながらその死後も、彼女はこの映画に存在し続けることになる。ある意味それまでよりもはっきりと、その声によって。

© 2021 『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

赤いサーブの誘惑

 音は、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』の台詞を読み、それを録音したカセットテープを俳優、そして演出家であることを生業とする悠介に渡していた。彼は愛車を運転しながら、そのテープを聴き、音の読む台詞の合間に、自分のパートであるワーニャの台詞を読む。原作である村上春樹の同名短編、その短編が含まれた『女のいない男たち』という短編集の他の二つの短編(『シェエラザード』と『木野』)、それらを見事に融合させながらも、3時間という長さをもつ壮大な叙事詩『ドライブ・マイ・カー』が紛れもない映画そのものとして立ち上がる、そこでもっとも重要な要素となっているのが、まさに音の声であるだろう。原作でも主人公の家福悠介は車の中で『ワーニャ伯父さん』の台詞を聴いているが、それが亡き妻の声で読まれているという記述はない。チェーホフのテキストが音の声によって読まれ、見えているものと聞こえてくるものが共振する、あるいは反発、分離していく、そうした音と映像との無限の関係がこの映画をこの上なく豊かにしていく。
 そして、その音の声が聞こえてくる場所である赤いサーブも本作にとって欠かせない要素であり、車の色が、原作の黄色ではなく赤であるのは必然の選択であると口にしたくなるほど、この映画の世界を鮮やかに彩り、リズムを刻んでいく。フランス映画であればたとえば、ジャン=リュック・ゴダールの『軽蔑』(1963)や『気狂いピエロ』(1965)のアルファロメオ、フィリップ・ガレルの『夜風の匂い』(2002)のポルシェ、そして本作と多くの共通点を持つマチュー・アマルリックの監督作『強く抱きしめて(原題)』(2012)のAMCペーサー75年型とともに、赤い車の登場する映画史に名を連ねるであろう『ドライブ・マイ・カー』のサーブは、まるで生命を吹き込まれたかのように、多彩な表情を見せていく。たとえば妻の浮気現場を見てしまい、動揺したまま駐車場に向かった悠介の前にゆっくりと登場してくるシーンでは、西部劇で主人の元に戻ってくる忠実な馬のように見えはしないか。目が覚めるようなその鮮やかな赤い車体に、刻々と変化する光や、空に浮かぶ雲、樹木の様々なバリエーションの緑たち、あるいは夜の街の灯りやヘッドライトを反射させ、その土地の形や勾配、道の曲線を刻みながら、サーブは悠介を乗せて、未知なる場所、未知なる人々のもと元へと進んでいく。

声の出現

 しかしながら広島での国際映画祭へとやって来た悠介は、演劇祭側から「優秀なる運転手」をあてがわれ、その愛車のハンドルを若い女性ドライバー、みさき(三浦透子)に任せなければならなくなる。最初は渋々ながらも、悠介はしだいにみさきの運転ぶりを認め、ふたりは乗せた車は、朝は宿から稽古場へ、夜は稽古場から宿へと、一時間近い道のりを幾度となく往来し、その道程にはつねに音の声が響き続ける。車の乗り降りの際に交わされるほんの短い言葉や、バックミラーを介してわずかに相手を確認し合う視線、そうした何気ないやり取りを繰り返していく日常の中で、ふたりの関係に小さくない変化が訪れるのが、演劇祭のドラマトゥルグ兼通訳のユンス(ジン・デヨン)とその妻でソーニャ役を演じるユナ(パク・ユリム)の家での夕食のシーンである。食卓を囲む四人、そこで交わされる日本語、韓国語、手話、そして視線や笑顔のやり取りによって、彼らの間に流れていく感情が、さほど大きくないその部屋の中をゆっくりと、ゆっくりと満ちていくのを、カメラは少し引いたロングショットと、一人ひとりの表情をとらえるクローズアップの切り替えしによって、慎ましくも、しっかりととらえていく。それまで車の前と後ろに位置していたふたりは、ここでドライバーと乗客という立場から離れ、この家の来客者として横に並んで座り(ユンスの質問に答えることで悠介に運転を褒められたみさきがその不愛想な顔をほんの少し綻ばせ、照れくさいのか犬の方へと席を立つショットは微笑ましい)、それはその後、車中で並んで座り、タバコを吸うふたりへと繋がっていく。車の屋根を開けて、ふたりは言葉なく、そこから共に腕を出し、吸っているタバコを天にかざし、夜の闇を小さな炎で照らす。

 濱口竜介もプレスでのインタビューで述べているように、チェーホフが36歳の時に書いた四幕劇『ワーニャ伯父さん』のテキストには、120年以上経った今も、いやこの混沌とした時代だからこそさらに圧倒的な強度で迫ってくるものがある。モスクワ芸術座でこの戯曲の上演を見たゴーリキは感動し、さめざめと涙しながら次のような手紙をチェーホフに送ったという。「あなたは演劇芸術にまったく新しいフォルムを生み出しました。あなたの才能の前で、そして人間たち、惨めで、生彩のない私たちの人生を思い、恐怖で震えています。あなたはそこに一撃を投じた、なんと奇妙な、そしてなんと的確なる一撃でしょう!」。このチェーホフのテキストを、ほとんど感情を込めることも、抑揚なく、言葉を言葉そのものとして読む音の声は、それを聞くものたちの前には見えないはずながら、なにか即物的なものとして立ち上がってくる。そしてその声が語る言葉たち、チェーホフのテキストは、その場にいる悠介やみさき、彼らのいる空間、周囲の大気の中へと漂い、広がっていく。そして異なる空間と空間、人と人を繋ぐ映画技法の力、編集によって、あるいはそれらの空間を往来する悠介たちによって、同じく『ワーニャ伯父さん』の台詞を読む俳優たち、スタッフたち、彼/彼女らの声、身体、そして人生ともしだいに響き合っていくのだ。
 彼女を愛したもうひとりの男、高槻耕史氏(岡田将生)もその一人である。音の秘密、あるいは「恋する空き巣の少女」の秘密を、バックシートで悠介と向かい合う高槻はそれまでにない確信とともに語り始める。突如、しかし今だからという必然を感じさせながらその深い部分から湧き起こる高槻の言葉たちは、車の中の小さな空間を越え、そこにいない者たちを召還するかのように窓の外に広がる夜の闇へと響いていく。そして悠介とみさきは、音の声、チェーホフの言葉が呼び起こす幾つもの言葉や思いを受けとめることで、自らの内奥から響いてくる叫び、盲点や悔恨、疑問を少しずつ言葉にし始める。ゴミたちが美しい雪となって降っている場所から、本当の雪が積もるその下で眠る者たちのもとへ旅を続けたふたりは、愛するからこそ生まれるその隔たりを抱きしめるように、はじめて触れ合うことになる。

「大切なのは仕事をすることです。仕事をしなければなりません。」

 チェーホフの戯曲では繰り返し「仕事」という言葉が発せられる。濱口竜介の映画において、生きること、演じること、愛すること、それはまさに身をもって行う仕事であり、それはときにおおいなる悦びであり、ときに身悶えするほどの苦しみでもあり得るだろう。その「仕事」を丁寧に、真摯に撮り続けることで「何かが起こる」、小さな、あるいは大きな奇跡の瞬間が起こる、そのことを信じてきた濱口竜介はまさに奇跡のようなその最新作によって、そうした「仕事」のすべてが融合した生を映画におさめてきたジャン・ルノワールの映画へと接近しているように思える。死者と生者、フィクションと人生が無限に反射し合い、それぞれ異なる過去、異なる言語を持つ人々の声、仕草、すべてが循環しながら大河へと流れ込んでいくように、『ドライブ・マイ・カー』の世界は、大きく、大きく広がっていく。

 音によって幕を開けた映画は、みさきによって幕を閉じる。彼女がどんな人生を送っているのか、映画は多くを語らない。しかし青空から聞こえてくるような、爽快で、すべてを包み込むような音楽が流れ出し、はじめて微かながら笑顔を浮かべたみさきの顔を目にして、私たちは確信する。彼女が赤いサーブに乗ってこれからも進み続けることを、「長い長い日々を、長い夜を」生きていくことを。

坂本安美(さかもと・あび)

アンスティチュ・フランセ日本映画プログラム主任、映画批評。「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」誌元編集委員。フランスから様々な監督、俳優、映画批評家を招聘し、映画作品とその上映、そして批評との関係をめぐる野心的な企画をオーガナイズするほか、ロカルノ映画祭、カンヌ映画祭、東京フィルメックス映画祭などで審査員を務める。著書は『エドワード・ヤン 再考/再見』、『そして映画館はつづく』(共著、フィルムアート社)などがある。またNOBODYのWEBサイトでは「坂本安美の映画=日誌」を連載中。

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