リズム、法、跳躍

廣瀬純

 二者の正対を斜角で撮るのか、縦に撮るのか、真横から撮るのか。それによって、産出されるドラマはまるで異なるものとなる。斜角の正対の場合には、そこで二者によって繰り返される接近と離隔の「リズム」が、縦の正対の場合には、それが特定の条件下でのみ成立するという法が、真横からの正対の場合には、その反復の度に二者の距離が縮まるという跳躍が、それぞれドラマとなる。
 芽衣子(古川琴音)と和明(中島歩)のドラマが、斜角の正対における二者間の距離に関わるものとなることは、彼らが最初に一緒に収まるショットによってはっきりと告げられる。画面奥と画面手前とにそれぞれ立って互いに正対する二人を芽衣子側から斜めに捉えたその固定ロングショットは、第一に、それに先立って示されていたショット、タクシーの後部座席に横並びに座った芽衣子とつぐみ(玄理)を正面から捉えた長回しショットとの三重のコントラスト(座っている/立っている、横並び/正対、正面/斜角)において生起するものであり、第二に、所与の空間(オフィス)にあって二人がとり得る最長距離を予め測定するものである。このショットで芽衣子よりもさらに手前に身を置いていた女性が画面外に退出することでドラマは始動する。つぐみが和明との出会いに「魔法」として見出したのは、互いに「相手の核に触れる」という距離消滅の経験だったが、芽衣子と和明との再会シーンで我々観客の心を掴み、後に芽衣子自身によって「魔法(よりもっと不確か)」と呼ばれることになるのは、そこに「リズムがある」という事態だ。すなわち、窓ガラス上の反映を利用したものも含めた様々な斜角の正対のうちに示される距離が、切り返しの挿入によるその都度の破算を経ながら伸縮を繰り返すその過程に、あたかも何らかの超越的な力によって指揮されているかのごとく、恒常的にリズムが伴ってしまっているという事態である。
 第二話では、そのドラマが縦の正対とその成立条件とをめぐるものとなることは、第一話とは異なり、作品冒頭で直ちに明かされる。瀬川(渋川清彦)の研究室の向かいに位置するガラス張りの教室でのゼミの様子を見せるそれ自体としては退屈な一連のショットがそれでも要請されるのは、それに後続するショットにおいて、瀬川の研究室での瀬川と佐々木(甲斐翔真)との正対を、研究室の開かれた扉越しに、縦に示すためである。縦の正対は扉の開放をその成立条件とするということが、すべてに先立ってまず確認されるのだ。扉を閉めた状態での縦の正対の実現を主戦術に位置付けて佐々木と奈緒(森郁月)が計画する「ハニートラップ」は、したがって、その失敗を初めから宣告されている。奈緒と瀬川のいる研究室内を、廊下から、開かれた扉越しに見せるショットにおいて、奈緒は、カメラに真っ直ぐ身を向けて画面奥に座る瀬川との正対関係に入ろうと移動しつつ、同時に後ろ手で扉を閉める。しかし、その結果、同ショットに映し出されることになるのは、言うまでもなく、閉ざされた扉だけであり、その彼方で成立しているはずの瀬川と奈緒の正対は、扉の中央に縦に細長く嵌め込まれた曇りガラスを通じても、完全に不可視にとどまる。これに続くショットで試みられる逆構図においても、書棚ぎりぎりに座る瀬川の背後にカメラを置く余地が残されていないため、閉められた扉を背に立って朗読を続ける奈緒が正面から示されるだけで、二人の正対自体が画面に収まることはない。瀬川が立ち上がり、奈緒の背後にまわって扉を再び開け、研究室中央にある椅子に座り直し、その新たな位置から改めて奈緒と正対し合うとき、はじめてカメラは瀬川の真後ろにおのれの設置場所を見出し、縦の正対を成立させる。開かれた扉を後景に配して縦に正対し合う瀬川と奈緒を瀬川側から捉えたその固定ショットは、室外のみならず室内にカメラを置く場合であっても、扉の開放を縦の正対の成立条件として定める「扉は開けたままで」という法の非妥協性を、奈緒に突き付ける。
 上りと下りのエスカレーターが並設されており、上りに乗った人物と下りに乗った人物とが各々身を捻りながらつねに正対関係を維持し続けるとき、どちらか一方の人物の背後にあって一定のアングルに固定されたカメラは、同一ショットのうちに正対のすべてのヴァリエイション(縦、斜角、真横)を連続的に収めることになる。そのようにして第三話は、夏子(占部房子)とあや(河井青葉)との正対を、一旦、そのすべての可能態に開かれたものとして提示する。その上で、そこからの特定形態の選出が、ペデストリアンデッキ上で改めて互いに正対し合う夏子とあやを真横から捉えた固定長回しショットを以ってなされる。ただし、このショットでは、第三話のドラマが真横からの正対をめぐるものであることは示されるが、その反復、及び、反復ごとの二人の跳躍的接近が問題になることはまだ明かされない。
 第一話では、斜角の正対は与件であり、問われたのはそこで生きられるリズムだった。これに対して、第二話では、(特定の状態で)縦の正対を実現すること自体が問われた。第三話でも、第二話と同様に、真横からの正対を実現することが、まずは、問われることになる。実現に向けた準備過程は一貫してあやの先導によって進められてゆく。あやは、まさにその先導に有利な場である自分の家に夏子を導く。夏子が何かに触れようとする度にそれを禁じて、夏子の動ける空間を制限してゆく。夏子が家から出て行こうとするときには、予め手配しておいた宅配業者を玄関口に差し向けて夏子と鉢合わせにさせ(画面一杯に配達物を映し出すクロースアップも夏子の逃走を阻止する壁となる)、夏子を玄関内にとどまらせ、扉を閉めて、リヴィングに戻るように夏子を促す。こうした過程の果てにあやは、あと一歩で真横からの正対として成立するはずの固定ロングショット内に夏子を誘い込むまでに至る。画面右に立つあや自身はすでに、画面左に立つ夏子に正対している。画面奥右側に緩い角度で体を向けている夏子は、必ずや体勢を変え、あやに正対するであろう。その瞬間を、我々観客は、あやそして長回しのカメラとともに固唾を飲んで待つことになる。そして、それは、「私があなただけを愛しているっていうこと」という台詞が言い終えられるのと同時に到来する。
 真横からの正対を実現することだけでなく、そこでの二人の距離を縮めることも問われているということが告げられるのは、上記の長回しショット(左右にそれぞれ立つ二人は、彼女たちの間に垂直に介在する窓ガラスの桟によって分け隔てられている)に続く切り返しにおいてのことだ。長回しショットから、あやと夏子を個々に真正面から捉えた固定バストショットの切り返しへの転換は、夏子の発する「穴」という一語があやの虚を衝くことでなされる。ここで初めてあやは、場のコントロールを失う。あやは、おのれの意に反して突如として切り返しに巻き込まれ、その状態で、前へと踏み出そうとする。しかし、彼女がなすべきだったのは、無論、真横からの正対が成立した後の長回しショットのその持続のなかで夏子に歩み寄るということだった。あやのこの失敗が、真横からの正対の再実現を要請する。ペデストリアンデッキに戻って真横からの正対を「もう一度」やり直す夏子とあやは、出会いのときと同じように手を取り合う。これに直ちに介入するズームインが、しかし、同一ショットのその回帰から、そこで発生している彼女たちの接近という新たな価値を析出する。だからこそ、真横からの正対がさらにもう一度反復されるとき、彼女たちは抱擁し合うことになるのである。

廣瀬純(ひろせ・じゅん)

龍谷大学経営学部教授。映画批評、哲学。著書にCómo imponer un límite absoluto al capitalismo(2021、Tinta Limón)、Le Cine-Capital : d’Hitchcock à Ozu(2018、Hermann)、『シネマの大義』(2017、フィルムアート社)、『三つの革命』(佐藤嘉幸との共著/2017、講談社)、『資本の専制、奴隷の叛逆』(2016、航思社)、『暴力階級とは何か』(2015、航思社)、『アントニオ・ネグリ』(2013、青土社)、『絶望論』(2013、月曜社)、『蜂起とともに愛がはじまる』(2012、河出書房新社)、『シネキャピタル』(2009、洛北出版)、『闘争の最小回路』(2006、人文書院)、『美味しい料理の哲学』(2005、河出書房新社)など。「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」誌及びVertigo誌元編集委員。

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