可能が、可能の、そういうふうになるところ

結城秀勇

 この短編集の3作の物語に共通するのは、偶然とはまず誰かと誰かの出会いであること、である。監督がインタビューで語る、九鬼周造による偶然の定義「独立なる二元の邂逅」をそのまま受け止めるなら、そもそもあらゆる偶然はなにかとなにかが出会うこと、なのかもしれない。ただ、『偶然と想像』において、偶然をより偶然らしく見せているのは、その出会う誰かがただの誰かではなく、思いもよらない誰か、もしくは、思っていた誰かではない誰か、であることである。偶然は、たんなる蓋然性の低さで決定されるものではなくて、当事者の希望や意志をも含んだときに、初めて起こる。
 第一話「魔法(よりもっと不確か)」では、AとBとの出会いがBとCとの間で語り直されるとき、CはCとAが既に出会っていたことに気づき、CとAは再び出会う。第二話「扉は開けたままで」では、AとBの共謀がBとCとの出会いを用意するが、Bは共謀を放棄する。しかしそこに突如としてCによく似たC'が現れることによって、闇に葬られたはずのAとBの共謀は、ABCという閉鎖された環境を越えて拡散してしまう。第三話「もう一度」では、AとBとが再会するが、実はそれは再会ではなくただの出会いである。
「出会うことは容易く、再会することは難しい。出会いは望まざる偶然であり得るが、再会を望む者にとって「望まれた偶然」はほとんど「運命」や「奇跡」と名付けたくなるほどのものだ」。濱口竜介は『ロメールと「死」にまつわる7章』(「nobody issue 33」)の中でそう書いているが、出会いと再会はどのように違うのだろうか。映画の中で観客は、そのふたつをどう見分けるのか。もっとも簡単なのは、まず出会い、続いて再会、というふたつの場面を(時間をおいて)どちらも見る、ということだろう。だが『偶然と想像』はそうしたやり方をとるには不向きな「短編集」という形式をとっている。
 だからしばしば観客には、出会いなしの再会を信じる必要性が生まれてくる。「魔法(よりもっと不確か)」につきまとうのはそうした困難さだ。隣の席に座っていた女性たちの会話に着想を得たというこの話は、その道具立ての月並みさ、もっともらしさゆえに、かえっていくつもの層の観客の想像を必要としてもいる。まずはつぐみ(玄里)と和明(中島歩)の出会いという劇中では描かれていない出来事を信じなければならない。さらには芽衣子(古川琴音)と和明がかつて付き合っていた、というこれまた劇中では描かれていない事実を信じなければならない。さらには、芽衣子とつぐみが「親友」であることを信じなければ、この話は三角関係でもなんでもなくなってしまう。
 このありふれた月並みな道具立てを、よりもっともらしく見せる方法はいくらでもあるはずだが、この作品はむしろそれを信じられるかどうかギリギリの瀬戸際まで追い詰めているようにも見える。おそらくそれは設定や展開といったテキスト内部の論理性だけによるものではないし、いわゆる「演技がうまい」というような役者の身体性だけに関わるものでもない。この作品が施す仕掛けのひとつは、テキストと役者の出会いにおいてもっとも身近なとっかかりになる部分に、あらかじめ微かな亀裂を用意しておくということだ。つまり名前である。つぐみがこの映画に登場して間もなく、観客が彼女の役柄を理解するよりも早く、つぐみは「つー」(和明と出会ったつぐみ)と「ぐみちゃん」(芽衣子の親友としてのつぐみ)のふたつに分断されてしまう。「つー」は「ぐみちゃん」としては話したこともないことを「かー」に話したのだと、つぐみは芽衣子に告げるのだが、「つー」と「ぐみちゃん」がどのように違うのかは、出会いと再会がどのように違うのかということくらい見分けがつかない。
 彼女の分裂が呼び水となったように、芽衣子と和明は再会を果たすが、そこでは再会を説得づけるようなかつて存在したかもしれない適切な距離が発見されることがほとんどない。彼らはひたすら衝突を繰り返す。行き過ぎた接近と、その反動の懸隔と。それはここにはいないつぐみを含んだ三者の距離感を明確化するちょうどいい呼び名が存在しないからだ。「君」「彼女」という代名詞は拒否され、「つーとかかーとか」いう呼び名もまた「気持ち悪い」。四角い部屋の対角線上に対峙することも居心地が悪く、背後から抱きしめるほどに接近することもまた「ちょろすぎる」。再会は出会いと同じくらいぎこちない。
 続くカフェの場面で、ズームインズームアウトでつながれた、ふたつの異なる選択をする芽衣子という力業が必要とされるのも、出会いと再会の見分けのつかなさに関わっている。初めて劇中で誰かと誰かが二度目に出会うこの場面、再会という現象の説得力がいわば最も増すこの場面で、芽衣子は和明との再会を再会として表現するのか、それともただのなにげない出会いとしてすますのか、選択を強いられる。その結果は、他のふたりが立ち去り芽衣子がひとりカフェのテーブルに残されるのか、芽衣子が立ち去りふたりがテーブルに残るのか、の違いでしかない。ほとんど見分けのつかないふたつは、しかしながら決定的に違う。つぐみの分裂に応答するかのように重複する芽衣子が、出会いと再会の違いを可視化してみせる。だが本当に興味深いのは、芽衣子の重複はただの出会いを劇的な再会へと強化するために行われるわけではないことだ。そうではなく、あまりに運命的な再会をただのありふれた出会いに変えるためにこそ、三者は二度出会わなければならない。

 役者の身体とテキストとの接点であるはずの名前が、不確かさへ向かって分裂するのが「魔法(よりもっと不確か)」だったとすれば、続く「扉は開けたままで」では、名前は名前としてどこまでも揺るぎなく存在する。大学教授で芥川賞受賞作家の瀬川(渋川清彦)というキャラクターは、フレーム外の過去や関係性への信頼なしにただ存在する。正直、渋川清彦が東大仏文の教授であるという設定が、意外なのかもっともらしいのかということを考えることさえ馬鹿馬鹿しくなるほど、ただもうそういうものとしてそこにいる。
 見かけ、肩書き、名前、といった事柄が、どれだけその存在の内面や本質を示していようがいまいが関係なく、それはそれとして確固としてある、というのは「扉は開けたままで」に通底する観念である。扉の向こうで行われていることが善いことであれ悪しきことであれ、扉は必ず開かれていなければならない。瀬川が奈緒(森郁月)のことを覚えていたのはその年齢のせいではなく、ただ彼女がよく質問をしていたからだ。そして佐々木(甲斐翔真)と奈緒の「ハニートラップ」という陰謀が功を奏さないのは、瀬川にはそれが「誘惑している」ようには見えず、ただ「変な人」に見えたからだ。立場や肩書きという扉の向こう側を暴露しようとする企みは、常に表層にあるものの適切な組み合わせに留まろうとする瀬川の前に潰える。瀬川は奈緒の内面を見抜くのではなく(それはカウンセラーの仕事だ)、奈緒の目に見える部分、耳に聞こえる部分を、ただ肯定する。
 瀬川との対話は、主婦であり他の学生よりも年上であるという役柄と自分の欲望との間で折り合いをつけることが難しかった奈緒にとってひとつの救いとなる。だが瀬川による役柄や肩書きではない奈緒の肯定さえも、瀬川の「芥川賞受賞作家」という肩書きによって効果を減じられていることを奈緒は惜しむ。そして彼らの、特別な出会いと呼ぶに値する短い時間は、ただ名前が似ているだけ、というどうしようもないほど喜劇的な悲劇によってあっさりと崩壊する。
 だがやはりこの話でもまた、ひとつの再会が最後に用意される。5年後、同じバスに乗り合わせるというかたちで、奈緒と佐々木は再会する。奇しくも、共に文章に関わる仕事についていることを確認し合うものの、奈緒は自分の会社の名前を教えることを徹底的に拒絶する。このときの彼女の様子は、もはや怒りや憎しみといった感情の発露と言うだけでは済まされないような声の震えを伴っていて、すさまじい。先行する5年前のシーンからの髪型や服装の違いを超えて、この人はこんな顔をしていたのかと初めて気づく気さえする。だから彼女が突如としてその震えを止め、なめらかに佐々木にキスを浴びせるとき、そこには感情的あるいは論理的な飛躍があるのではない。大学教授瀬川が渋川清彦の身体をもつことの揺るぎなさと同等に、奈緒という人物はここで生まれ、観客はそれに出会う。そうして過去を回収する再会でありえたはずのものは、来るべき三者の再会を導くただの出会いへと、再組織化される。

 まるで「扉は開けたままで」という、すべてが表面化し露出する呪いの噴出を引き継ぐように、第三話「もう一度」は「Xenon」というコンピューターウイルスによって情報が流出し、電子的な通信の無効化した世界、という舞台を用意する。親友が出会ったのが元カレ、よりも、大学教授は渋川清彦、よりも信じることがはるかに困難そうな大掛かりな設定だが、しかしそんな世界を信じることができるのかという疑念がこの物語の間に沸く観客はほとんどいないだろう。無論これが我々の経験したコロナ禍の状況の裏返しのようなものであることのリアリティもあるのだろうし、『PASSION』で共演した占部房子と河井青葉なのだから、ふたりがばったり出会えばそれは再会であって当然だということもあるだろう。だが「もう一度」という物語が信じられるのは、そうしたフレーム外からの補強によるのではなく、あくまでフレームの内部で起きていることによるのは強調しておかねばならない。
 仙台駅前のペデストリアンデッキのエスカレーターですれ違う夏子(占部房子) とあや(河井青葉)。しかし彼女たちはこの物語の前半部において、名前を持たない。道行く近所の人の挨拶から娘の名前が漏れ、またたどり着いた家には「小林」という表札が堂々と掲げられているのに、彼女たちはお互いの名前を知らない。「魔法(よりもっと不確か)」の芽衣子と和明の再会にあったような急激な距離の変化による衝突を巧みに避け、言葉のひとつひとつで互いの距離感を探っていく彼女たちの会話と(「パートナー」から「夫さん」への変化)、二度すれ違いながらお互いの周りをくるくる周り、手を取り、横並びになって歩くという優雅なダンスのようなリズムが、ふたりをあやの家へと招き入れる。しかしその巧みな動きこそがかえって、「美術部の清宮さん」や「ピアノ」という、これはただの出会いに過ぎないのだというサインを見落とさせ、奇跡的な再会という外見を保ってしまう。
 だから名前なしのままならきれいにやり遂げることができたのかもしれない彼女たちの再会は、「大事なこと」を話すために必要な名前が与えられることで、完全に失敗する。奇跡的な再会に見えたものはただの望まざる出会いに過ぎない。だが、あやは初めて聞く見ず知らずの「夏子」という名前を「いい名前」だと言う。そして夏子が会いたかった「ユウキミカ」という名前をその身に引き受けることで、望まれた偶然としての再会を、演じ直すことにする。
 その時、夏子にあやと「ユウキミカ」を見誤らせたはずのふたりの類似は、ほとんど問題にならない。夏子とミカの間にあった過去を信じられるかどうかも問題にならない。なぜならここで起こるのは、ミカによく似たあやを介した夏子の疑似的な再会というよりも、むしろあやが「ユウキミカ」という名前に出会うことだからだ。その名前を引き受けることで、夏子の言葉はあやの肉体に影響を与え、あやは自らの胸に手を当てる。彼女たちの再会の演技は、あやの息子の帰宅によって不意に中断されるが、たとえ望まれた偶然としての再会が完璧に再現されることがなかったとしても、あやの身体を望まざる偶然である出会いが駆け抜けたことを、疑う余地はない。

 

 再会をなかったことにし、再会を将来へ投企し、再会を演じ直す。『偶然と想像』の人々は、難しい再会を達成することよりも、容易いはずの出会いに留まり続けようとしているかに見える。三つの話を通して、他ではあり得ないこの偶然を手にする代わりに、常に他のものであり得る偶然を掴み直そうとしているように見える。それは少し、あやの夫が昔の恋人に宛てたメールの中にあった「一番いいことのひとつ」という不思議なフレーズにも似ている。後にあやが夫の性格を説明したときに夏子が返す「一番いいこと」という言葉にはもう、「一番いいこと」が複数あることを示す「ひとつ」は付いていないが、彼女が排他的なニュアンスをもってその言葉を使ったのではないことは誰の目にも明らかだ。
 だからこの映画の最後、今度はあやの名前とともに再び演じられる再会の中で、他の者ではあり得なくなってしまった自分、燃え立つものがなくなってしまった自分を吐露するあやに、夏子が「一番いいことのひとつ」のメールにあった文面に似た言葉を返すのは偶然ではない。他の者ではあり得なくなってしまったあやが、「みんなが」ではなく「私が」を選択することも。そして、夏子が最後に出会う名前が、希望を意味していることも。

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