幸せな時間

——撮影の間に何度も改稿をされていると話されていましたが、最初の段階から物語の大きな構造は決まっていたと考えてよいでしょうか。つまり、30代後半の4人の女性がいて、4人はいつも一緒に楽しい時間を過ごしているけれども、そのうちのひとり川村りらさん演じる純の秘密を知ることで他の3人がそれぞれの問題に直面することになるというものです。

濱口:その大構造が最初にありました。その中で、起きる出来事がだんだんと変わっています。第一稿の段階では有馬温泉に行くシーンも朗読会もありませんでした。有馬温泉の場面は撮影に入る前あたりに神戸で撮るし何か欲しいと、そして4人が日常を抜け出すという場面も欲しいということで加えました。結果的に別れの儀式のような時間になりました。朗読会のシーンはこずえという小説家を演じた椎橋怜奈さんが、自分で役作りのために小説を書いているということを聞いたので朗読会にしてみようということで決まりました。大きな改稿を何度もしていて、それは第五稿ぐらいのことです。一度別れたメインの人物たちが再合流するシーンとして朗読会を構想しました。ただそのときにはまだ鵜飼(柴田修兵)という人物がこずえのトークショーの相手をつとめているパターンであって。それが、第六稿に至って公平(謝花喜天)が代打で登板することになります。第七稿と呼んでいるものは、ほぼすべてのシーンが撮影の前に細かく書き直されているものです。それぞれのシーンでこういうことが起きるという大構造は変わらないですけど、シーン自体をそのときの出演者の状態に合うようにアップデートするということで、最終的にできあがったものを第七稿と読んでいます。

——タイトルはなぜ『ハッピーアワー』になったのでしょうか。最初は違うタイトルで予告されていましたよね。

©2015 神戸ワークショップシネマプロジェクト

濱口:もともとは『BRIDES』 というタイトルでした。しかし、撮影が進むに連れて、単に女性4人の話というとちょっと違うものなってきているなとは思っていました。ご覧のように、主役の4人だけでなく個々のキャラクターがそれぞれ自分なりの輝きを発しているものになっていきました。女性4人の話というだけなくもっとふさわしいタイトルがないかなということを考えていたときに、街中のバーの看板にハッピーアワーと書いているのをみつけました。劇中のワークショップの後の感想で、純が「とても幸せな時間でした」と言っています。それを受けて後々の公平の台詞にも「とても幸せな時間でした」と対応させる形で書いたんですね。それだけではなく『ハッピーアワー』の登場人物たちは幸せについてよく言及します。それがどの程度意図してやったのかはわからないんですが、この映画は「幸せ」についての話なんだなということは撮影しているはじめの頃から考えていました。ただ、さすがに『PASSION(パッション)』、『親密さ』と来て、『ハピネス』『幸福』とか、抽象的なタイトルをつけるとどうしても映画全体が硬く捉えられてしまいそうだし、もうちょっと開けたタイトルはないかなと思っていたときに、バーの看板を見てこれは探していた軽さだなと。

——ただ、幸せな時間が映画全体を通して描かれているかといったら、必ずしもそうではないわけですよね。特に終盤にかけては幸せからかけ離れてしまい、彼女たちが望んでいたものとは異なる状況になってしまうところもあると思うんです。

濱口:その流れに関しても、実は第一稿の時点から決まっていました。映画前半はある程度、文字通りに「幸せな時間」と言ってもいいと思うんですが、後半になってこのタイトルが非常に皮肉に機能することになります。ただ、最後に至ってそこまで暗鬱なものであるのか、ということは観客に判断を任せたいと思っています。あくまで僕の感覚ですが、この映画を終えられる瞬間というのは4人の登場人物たちすべてがそれぞれ何がしか自分のうちにこの後の人生を生きていくための力を発見したときではないかなという気がしていました。第3部というのはほとんど幸せな時間とは見えないですけど、それでもこの人たちにはそのように生きる力がきちんと備わっているのではないか。そのように観客にも感じる手助けになってほしいという願いも込めて『ハッピーアワー』と付けています。最終的にこの映画をすごく楽天的なものとして解釈するためにもこのタイトルが必要だったのではないかなと思っています。

©2015 神戸ワークショップシネマプロジェクト

——最近の濱口監督の作品を拝見していると、見えないものに対する興味が非常に強いように感じるんです。『親密さ』や『不気味なものの肌に触れる』にしても、タイトルだけ見てもカメラに映るものでは決してないわけです。『ハッピーアワー』で言うと、途中にいなくなってしまうある人物が他の人物たちにその後もずっと影響を与え続けます。見えなくなったものが登場人物たちを縛りつけるとさえ言ってもいいかもしれません。

濱口:この大構造が何から発想されているかというとジョン・カサヴェテスの『ハズバンズ』なんです。4人の親友同士の男性がいてひとりが死んでしまう。残りの3人が三日三晩遊び回るわけですけど、そのときに遊べば遊ぶほど、騒げば騒ぐほど、観客には悲しみが体感されるということが起きるような気がしました。そのとき僕は映画の中に、人生よりもずっと濃密な感情を見たような気がするんですね。僕は『ハズバンズ』というものに、もしくはすべてのカサヴェテス作品に「エモーション」を感じるわけです。そして、実のところそれを見なければきっと映画を作るという選択肢自体そもそもなかったような気がします。このエモーションというものを追求しない限り、僕には映画を作る意味というのはないんです。そうきちんと思えるようになったのは最近のことですけど。なので、答えになるかはわからないんですけれど、エモーションというのは当然見えないんだけれど、見えるもの、聞こえるものを通じて感知されるものだと思うんです。その点では、風みたいなものですね。映画の中で木や衣服が揺れたら風が見えなくても、「風が吹いてる」って思うでしょう。それは実は観客の中に吹いている。同様にエモーションが観客のうちに生まれるのも、見ているもの、聞いているものを通じてです。『ハズバンズ』みたいに設定が見え方に影響を与えることも、もちろんあります。でも、間違いなく僕は演じているベン・ギャザラやピーター・フォークを通じてエモーションを感じた。

つまり、演者を通じてエモーションは現れる。そのためには映っている演者の身体をその次元に至らせないといけない。どうやったら常にそれが起こるかというのは未だにわからないです。それでも、演者の身体から生まれてくるようなエモーションを直に捉えたいということはずっと考えています。演者を介してエモーションが観客のうちにまで生まれるということは、他者でしかない人と人の間に「つながり」が生まれるということです。センチメンタルな言い方になりますけどそうなんだと思います。それは例えばジーナ・ローランズや『東京物語』の原節子が見せてくれたものだとも思います。それは人の人生を変えるぐらいの体験なんです。僕もまた、エモーションを直接的に撮りたい。作劇ということはもちろん重要なんだけど、究極的には風を撮るみたいにエモーションを記録したい。そういう、すごく単純な欲望があります。

取材・構成:渡辺進也
写真:白浜哲

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