実在する(しない)まぼろしを見つめる。うたを口ずさむ。

草野なつか

 少しむかし、右手の薬指だけ曲げることの出来ない友人がいた。それなりに長い関係の中で一度だけ「触ってみてもいい?」と、至極さりげなく、暴力的にならないように、勇気を出して訊いてみた。ずっと触れてみたかった。友人は「いいよ」と言って当たり前のような所作で手を差し出してくれた。私はあの薬指の感触をいまでもたまに思い出す。

 スクリーンの向こう側を見つめながら何度も、涙が溢れそうになるのを堪える。かつて自分もこの目で見たことがあるような心の底にこびりついているようなやり取りは、夏の夜の寂しさと、秋の始め特有の冷たさが混じった強い風。涙が流れてしまったとたん解っているふりになってしまいそうで、だけど、私はこの人たちの事を何も知らないし。たしか終わりは冬だったかな、そう思いながら再見した『春原さんのうた』で描かれていた季節は、冬の始まりまでだった。

 もう会うことのできないパートナー<春原さん>への喪失感を抱く主人公・沙知は美術館での仕事を辞めたのちにカフェでアルバイトを始める。春原さんはもういない。どういった理由で<いない>のかは判らないが、少なくともいま・ここには、実存しない。実存しない春原さんはたびたび私たちの前に現れる。言葉を発することは無い。実存しない春原さんからは幽玄な空気が漂い、それはどこか能楽のシテのようにも見える。実存しない春原さんには感触がある。彼女が現れるたびに、造形・凹凸や肌触りを、手で確かめたくなるような気持ちになる。けれども私たちは彼女に触れることが出来ない。それは<いる>はずの沙知にも、他のどの人物たちに対しても当てはまることである。私たちはスクリーンのこちら側にいる。

「みなさーん、岸さんですよ」沙知を撮ろうとスマートフォンを構えた美術館時代の同僚は、(なぜか自分が撮る側なのにマスクを外して、)誰かいるはずもないスマホの画面に語りかける。沙知は様々な人に何度も撮られる。人々は彼女の元気そうな姿に安堵し、いや、もしかしたら自分が安心を得たいだけなのかもしれないが、写真を撮っていく。沙知のかたちは相手のスマホの中に納まり、彼女はその都度何かを受け取る。受け取ったもののなかで(物理的に)一番大きいものは、部屋だ。蝉の声が響く夏、沙知はカフェの常連客から住まいを譲り受ける。本来ならば空の状態で受け渡されるはずの部屋は、ほぼすべての生活の痕跡・家財道具一式が残されたままで沙知の手に渡る。彼女が水をあげ続ける植物からはそのまま残っていったいきものの生々しさが感じられ、部屋のなかには沈殿しているような、停滞したままの時間が流れている。それは、沙知自身の中に流れているであろう時間ともリンクする。いわゆる新生活のイメージとはかけ離れた時間。それでもその停滞した時間のなかで沙知は毎日の生活を営む。部屋には誰も座っていない座椅子があり、そこに、かつて座っていた人の気配や残像が視える。(実在しない春原さんも、その部屋に現れる。)

 何もないはずの四角い枠組みのなかに部屋が浮かび上がり、場所が生まれ、やり取りが生じる。人が生きている。(生きているようにしか見えないが、本当に生きているのか?)枠の中から溢れだした世界がこちらに迫ってきて無限に広がり体内を侵食することの美しい禍々しさに、改めて驚かされる瞬間の連続。空の美術館をただ漂う。もしくは、家の中と外界を隔てる<膜>である窓に過ぎた時間が映し出され、中身自体はデータでしかないはずのスマートフォンに瞬間が撮りためられていく。その瞬間たちひとつひとつは、彼らの人生のそれからの支えになっているのかもしれない。

 沙知の時計の針をふたたび動かすきっかけを与えるものは、職場であるカフェとの行き来や訪ねてきたおじ・おばとの食事、お喋りの時間。二輪車の後部座席で過ごす、移動距離と同等に流れる時間。(杉田監督の作品は本当に移動の描き方が素晴らしい。)ひとつひとつが尊いこの時間のなかで、沙知はかたくなに片足だけ後ろに残しながらも、少しずつ進んでいく。

 私たちは見つめることしか出来ない。たとえスクリーンを写真に撮ったとしても、それは単なる「映写されている映画の写真」でしかない。劇中では、春原さんが写真を撮られることもない。いま・ここにいない人の写真は撮ることが出来ない。それでもスクリーンに映し出すことは出来る。そもそも映画、殊にフィクション映画において人物はみな死人に近い存在なのかもしれない。生と死のはざま、死に化粧のような美しさがそのままに映写される。それでも触れて確認したくなる。彼女ら・彼らの一挙一動によって強制的に、私たちの記憶はわしづかみされ抉り出される。

 時間が停滞していたはずの部屋で<うた>が受け渡される。受け渡されたそのうたはのちに、また別の存在に受け渡され、沙知はやっと<見つめる>ことが出来るようになる。私は、かつての友人の指の感触を思い出す。あの、とても冷たい薬指。手を差し出したときの柔らかいまなざし。それはもしかしたら記憶違いなのかもしれないけれど、それでも私の中で生き続けている。

『春原さんのうた』は2時間があっという間だったとか、そういう感覚とは対極にある作品だ。きょうの、一日のなかの2時間、そのままの時間をこの映画と共に過ごそう。そんな心持ちで観るべき作品だと思う。一日のなかの2時間はやがて一週間のなかの2時間になり、365日の、10年の、人生のなかの2時間になる。沙知は今もまだあの部屋に住んでいるのだろうか。毎日の営みの中であのうたを口ずさみたくなる瞬間が、きっといつか私にもやって来る。

草野なつか(くさの・なつか)

1985年生まれ、神奈川県出身。映画作家。東海大学文学部文芸創作学科卒業後、映画美学校12期フィクションコースに入学。2014年『螺旋銀河』で長編映画初監督。長編2作目『王国(あるいはその家について)』はロッテルダム国際映画祭、山形国際ドキュメンタリー映画祭などで上映される。いずれの作品も演者と役柄のあわい、役柄を「獲得」したときの声の変化に着目した作品であり、あくまで劇映画にこだわりながらの制作を続けている。

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