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February 17, 2019

『王国(あるいはその家について)』草野なつか
結城秀勇

[ cinema ]

 タイトルにある「王国」とは、直接的には、幼い頃のアキ(澁谷麻美)とノドカ(笠島智)がある台風の日にシーツと椅子で作り上げたお城と、その周りに広がるはずの想像上の空間を指す。それから20年あまりを経た彼女たちの関係性にも未だ、あの日の「王国」は影響を与え続けている。少なくともアキはそう考えている。しかも、それがただアキのひとりだけの思い込みだと断じることができないのは、「王国」のせいであろうとなかろうと、アキとノドカのあいだには、目に見えたり聞き取れたり感じ取れたりする、彼女たち独特のコミュニケーションが存在するからだ。ノドカの夫であり大学時代のふたりの先輩でもあるナオト(足立智充)は彼女たちふたりがしばしば行うやりとりを指して、「暗号回線」と呼ぶ。彼女たちの、多くが言葉によらない(とナオトには見える)コミュニケーションは、解読しようとするとルールが変わってしまうようなもの、ルール自体が暗号化されているようなものだ、とナオトは語る。
 一方で、アキとノドカが特殊なコミュニケーションによる関係性を持ち得ているとして、それが必ずしも「王国」によるものだけではないことをアキは知っている。「でも同じようなことって、ふたりにもあるでしょ?」と、アキはナオトに反論する。それこそが、この作品のタイトルが「王国」のあとに括弧つきで「その家について」とつけ加える理由でもある。「王国」はアキとノドカの関係性を象徴する言葉だが、同じようなものがナオトとノドカ、そして彼らの娘ホノカを含めた「その家」にもある。熱を出したホノカに対してなにかできることがあったらやるとと申し出るアキを、ナオトは「ありがとう、でもこれはウチのことだから」とばっさり断る。この「ウチ」という言葉はもちろんリテラルな家という物体を指すわけではなく、彼女たちの「王国」同様にそこで営まれる出来事や関係性、ある領域内の政治を含んでいる。『王国(あるいはその家について)』という映画で問題となるのは、「王国」であれ「その家」であれ、ただの呼び名に過ぎない言葉から具体的な空間を立ち上げることの可能性であり、同時にその言葉によって構築されてしまった空間に囚われる危険性からどう逃れるのか、という相反する二重の出来事である。だからナオトの指摘にも関わらず、アキとノドカは決してノンヴァーバルなコミュニケーションをしているわけではなく、彼女たちの「王国」はなによりも言葉にこそ結びついている。なぜなら、ここまで述べたことは『王国(あるいはその家について)』という作品の、脚本として書かれたことについてだからだ。
 ここまでこの文章を読んだ方は、この映画が上記のような内容の「ホン読み」と「リハーサル」とで出来ていることをすでに知っているのだろうとは思う。だがここで指摘したいのは、そうした構成が上に書いた脚本の内容とは別に行われているということではなく、脚本が持つ可能性(前述したように、相反するふたつの戦略をいかに同時に実現するかという可能性)をそっくりそのまま反復するかたちで行われているということだ。アキとノドカが「王国」という言葉に基づいて立ち上げた空間、ノドカとナオトが「その家」から喚起されてつくりあげた空間とは、すでに存在する脚本から書かれた言葉以上のなにかを引き出さねばならない俳優たちに課せられた仕事そのものなのではないだろうか。と同時に、アキの持つ、ノドカが「その家」に囚われてしまっているのではないかという危惧もまた、書かれた言葉でしかない役柄を生きようとする俳優たちにつきまとう危険そのものなのではないだろうか。ただの言葉に過ぎないものから具体的な「王国」を立ち上げること、同時に「王国」に完全に支配されることからも逃れること、それが綱渡りのようなこの150分間で試みられることである。
 しかしそこに第三の位相をつけ加えなければ、片手落ちというものだろう。脚本のレベルでなされていること、それを踏まえて演技のレベルでなされていること、そこに加えてさらにおさまりのつかないなにかとしてこの映画に紛れもなく存在してしまっている第三の要素に触れずにはこの文章を終われない。それは、脚本に書かれている通りの、彼女たちの物語の舞台である茨城県龍ヶ崎市だと思われる実景ショットの存在であり、そして「ホン読み」を繰り返す彼女たちを映し出すカメラの存在だ。もしこの映画が、反復なり演出の補正なりによって「上達」していく俳優の姿の記録なのだとしたら、なぜこんなにも発話していない者たちの顔が撮影されているのだろうか。あまつさえ、本来その場面に存在していないはずの役柄を演じる役者の顔を撮影してるのはなぜなのだろうか。アキがホノカに合言葉である「荒城の月」を教える場面で、ホノカが「花の宴」をどうしても言えずに「ななのえん」と言ってしまうときに、その場面には立ち会っていないはずのナオト役の足立智充がつい微笑んでしまう映像を、なぜ『王国(あるいはその家について)』という映画は持つのか。同様のことが差し挟まれる「実景ショット」(登場人物が一度も訪れることのないその場所を「実景」と呼ぶのは奇妙だ)にも言える。濁った水が勢いよく流れる川面は、事件が起こったあの川なのだろうか。小さな子供がいると思われるあの無人のアパートの一室は、本当に「その家」なのだろうか。言葉によって立ち上げられた空間を、この映画の映像はそう簡単に自分と同一のものであるとは受け入れない。
 あの、峻厳な、とさえ呼びたくなるような映像によってこそ、「王国」をつくりあげ、同時に「王国」から自由であろうとする試みの困難さが浮かび上がる。その試みが成功したのか失敗したのか、そうした結果をこの作品は示してはいないのかもしれない。しかし、最終的に結果をどこか宙吊りにしてさえも、試みのプロセス自体をどこまでも精密化していく意志を、私は支持したい。

第11回 恵比寿映像祭(2019)にて、2/8、23に上映あり
次世代映画ショーケース2019にて、2/15、17、19、24に上映あり