『春原さんのうた』杉田協士インタヴュー

歌人・東直子による第一歌集『春原さんのリコーダー』の表題歌を映画化した本作には、沙知が抱える過去の喪失に対し、穏やかにも優しく見守る人々の姿が淡々と映し出されていく。登場人物たちが辿るそうしたいくつもの時間と対話は、開け放たれた窓や扉を涼しげに抜けていくひとつの「風」となり、そして「うた」となることで、止めどなく画面の内外を息衝いていることだろう。そんな『春原さんのうた』が記録、あるいは記憶として残していくものについて、ロケ地のひとつとなった聖蹟桜ヶ丘の「キノコヤ」の2階から落ちていく西日を眺めながら、監督ご本人にお話を伺った。

2021年11月15日、聖蹟桜ヶ丘
取材・構成・写真:隈元博樹

写真:隈元博樹

「その日その時にしかない瞬間をパッと捕まえる」

——まずは『春原さんのうた』を制作することになったいきさつからお話いただければと思います。

杉田協士(以下、杉田) 私にはもともと、映画を作ることへの欲望があまりないんです。映画の題材を溜めておいて、作る機会を待つといったこともありません。『春原さんのうた』を作るきっかけになったのは、主演の荒木知佳さんとのちょっとした出来事でした。このあたりの話はご本人も公にして大丈夫とのことなのでお話しすると、マスクで顔を覆った荒木さんに会ったのがきっかけです。3年くらい前に、荒木さんは歯並びを見てもらうために歯科医院に行って、その噛み合わせのままだと命に関わると診断されたそうです。そこから大掛かりな手術も含めた長期間の治療が始まって、私が荒木さんに会ったのは、その手術を終えてまだ顔が腫れてる時でした。医師からは安静にするように言われてて、わざわざ許可をもらって渋谷のユーロスペースまで私の前作の『ひかりの歌』(2017)を見にきてくれたんです。その時はまだコロナ禍の前でしたが、ご本人だとわからないくらいの大きなマスクをしてて、上映後のロビーで声をかけてくれても最初は誰かわからなくて。その時のにこにこしてる荒木さんの目を見てたら、勝手に励ましたい気持ちになって、「その治療が全部終わったら、記念に一緒に何か撮りましょう」と約束してたんです。当初は短編くらいに思ってました。自分もプライベートで生活が変化してく時期で、そのなかで映画を撮るのはすごく大変なことでもあって、ただ一方で、この先何回も映画をつくることはないだろうから、「どうせ大変なら」ということでいっそのこと長編にしようと思ったんです。
荒木さんのことはその頃まだよく知らなかったので、下高井戸の喫茶店で一度お会いして、雑談することから始めました。北海道での生い立ちや子ども時代のこと、ご家族やご友人の話、どうして東京の大学を選んだのかとか、そこでいろんなことを聞きました。その帰りの電車の中で、東直子さんのある一首の短歌が閃いて、東さんの短歌を原作に映画を作ってもいいかどうか、ご本人にメールでご相談しました。そうしたら20分後ぐらいに返信が届いて、「うれしいです!」と(笑)。私もうれしかったです。著作権のことは気になってたんですが、どうやら短歌は基本的に作り手本人の所有とのことで、東さんもスムーズにOKを出してくれたのだと後で知りました。

——そうすると脚本は荒木さんとの雑談を元に書かれていったということでしょうか。

杉田 そこが出発点です。この人には何が似合うかなと考えるのが、わりと私の映画作りかもしれません。荒木さんが主演で、そこから東さんの短歌が閃いて、次に考えたのは、誰が荒木さんの隣にいるかなということでした。そこでまっさきに新部聖子さんの顔が浮かびました。同じようにして、その映画を撮るメインの場所も、実際に引っ越しを控えてた日髙啓介さんのアパートの部屋に決まったり。日髙さんが宮崎のご実家に帰ってる間に、鍵を借りてお邪魔して、一人でその部屋でぼんやりしてるうちに、ここにはきっと『ひとつの歌』(2011)と『ひかりの歌』にも出てくれてるタケ(金子岳憲)はやってくる気がする、タケがいるとなると、その隣には伊東沙保さんもきっといると思う、という流れです。新部さんにもタケにも伊東さんにも、思いついた瞬間にその場で電話してます。スケジュールも含めて出演可能かどうかの相談をしました。荒木さんと東さんの短歌から始まって、「今その映画を撮るなら」と考えた時に浮かんだ方々や場所へ順次相談していくので、脚本は人も場所も当て書きになります。もうひとつのメインのロケ地のキノコヤさんも、同時進行で決まってます。

写真:隈元博樹

——キノコヤさんで本作を撮ろうと思ったのはなぜでしょうか。

杉田 ロケーションはその時の出会いに尽きると思います。写真もそうですけど、本当に出会いが映るだけで、その日その時にしかない瞬間をパッと捕まえるような感覚です。映画も写真ですし、それは2020年のあの時期に私が出会ったものたちで、「今これ、パシャッ」みたいな(笑)。だからキノコヤさんも「今キノコヤさんだ、パシャッ」みたいに決まっていきました。理由となるとわかりませんが、例えば2021年だったら、また全然違う映画になってたと思います。それこそ東さんの短歌がなぜ帰り道に浮かんだのかもわからなくて、その時自分の心が触れて、出会って、揺さぶられたものをそのまま繋いでいったということかもしれません。そういった意味で『春原さんのうた』は、自分の生活の記録にもなってるんです。当時キノコヤさんとは出会ってまだそんなに経ってなかったんですが、「何か今ここで映画を撮るときっといいはず」ということはわかってました。

——沙知を演じた荒木さんですが、食べ物を食べる場面が多く出てきます。その中でもどら焼きはすごくおいしそうに食べていらっしゃいましたよね(笑)。

杉田 荒木さんは元々すごくおいしそうにものを食べる人で、現場でも「今日もおいしそうに食べてる」と思って見てました(笑)。それに今回は荒木さんのお祝いの映画なので、映画の中で食べるシーンは撮らなくちゃと。荒木さんは、歯の治療以前は、食べものを歯と歯で挟んで捻るような食べ方をしてたらしくて、何かを食べてそこに歯形が付くという経験をしたことがなかったんです。治療後は、晴れてどら焼きとかハンバーガーをカプっと食べることができるようになったので、それはお祝いとして必ずやりたいと。
またこの映画は、コロナ禍で一度撮影が中止になってます。最初は『春原さんのうた』と同じボリュームの別の脚本を書いてて、ラストは桜のシーンだったんですが、そこだけは桜が咲いてる春先に撮って、他のシーンはもっと後に撮る予定でした。でもその後にコロナの感染状況が悪化して緊急事態宣言も出たので、撮影は中止になりました。しばらくしてから新たに別の脚本を書き始めて、最終的にはそのラストシーンをファーストシーンにして、続きの物語を書くことにしたんです。かろうじて撮れてた桜のシーンの撮影の日は、たまたま山中瑶子監督が現場に遊びに来てくれて、どら焼きを差し入れてくれたんです。それがとてもうれしくて、どら焼きも本当においしかった、そのことも映画に影響してます。映画に出てくるどら焼きのひとつは、実際に山中さんが買ってきてくれたのと同じお店のものです。

——どら焼きと言えば、沙知、叔母さん、叔父さんの三人でどら焼きを食べるまでのシーンはかなりの長回しだったように思います。現場ではどのくらいテイクを重ねられたのでしょうか。

杉田 あそこは2日かかりました。1日目でOKまでいかなくて、あのシーンは一番大変でした。何回もどら焼きを食べてもらってるので、3人ともお腹もいっぱいになってるし、疲れも出てたので、その日は解散にしました。途中、荒木さんがどら焼きのカロリーを調べてくれて、みんなで驚愕しました。どら焼き、すごいんです。ちょっとそれで怯んだのもあります(笑)。今回は週4日くらいの撮影で予備日もいっぱい作ってたので、撮れなかったら基本的にその日は休みにして、次の日にまたトライするという流れでした。

——画面上の奥に映る沙知の部屋の玄関前のドア、もしくはベランダ越しの窓はつねに開け放たれているので、まるでそこにある風が部屋を訪れる人々との間を通過していくかのような印象を受けました。また撮影はほぼ夏の時期だったと思うのですが、登場人物たちが汗を滴らせる様子もなく、絶えず風通しの良さを感じました。

杉田 撮影中がコロナ禍だったのと、スタジオのようにコントロールができない実際のアパートやカフェで撮影することもあって、感染対策のために、室内はできるだけ窓とドアを開放する必要がありました。それもあって、映画の時代設定をまさにその時にしたんです。2020年の9月設定の映画になりますと皆さんには伝えました。すべてにおいてそれを意識すれば、ある種のSF映画のように、あらゆる小さなことからも一本の軸が通るので、いつかの未来の人がこの映画を見ても説得力を出せると判断したんです。ただ実際に、あの部屋はとてもよく風が通って気持ちのいい部屋でした。

——沙知の家を訪れた叔母さんも、「エアコンつけなくても涼しいね」と言いますよね。

杉田 本当にそうなんですよ。あれは実感のままで「日髙さんの部屋はエアコンつけなくても涼しいね」と私も多分言ってました。撮影が終わっても皆さんすぐには帰らないんです。居心地がよくて。個人的に暑いのが苦手だということもあります。キノコヤさんも実際にそうで、本当に風がよく抜ける。おそらく私自身が風を感じられる場所が好きなんでしょうね。中高時代には冬の教室の窓を開けて度々ひんしゅくを買ってました(笑)。

——風と言えば沙知が習字で「風林火山」と大きく書く場面もそうですが、周りの人物たちが手にしたカメラや携帯によって、彼女はその姿を撮られていきます。ちなみにこの映画は子どもとお母さんが桜を撮っているファーストシーンから始まりますが、本作において撮ること、あるいは撮られることに関する着想はご自身による人との出会いの中で生まれていったものなのでしょうか。

杉田 まず、原作の短歌の話をすると、主人公はこの先もきっと手紙を出した相手には会えないだろうということが描かれてます。そういった喪失感が上の句にありながら、下の句にはリコーダーを吹く軽やかな描写がある。東さんの短歌には、同じように、どこかすごく寂しいというか、何か欠けてしまったような時間と、温かさとはまた違った少しの明るさが同居してることが多くて、そこに惹かれてました。
そのことと、この映画の登場人物たちが写真を撮ることは繋がってる気がしてます。脚本を書いてる時は、どうしてこんなに写真をみんな撮るんだろうと、書きながら自分でも思ってました。いろんな映画祭を回ってく中で、そのことについての質問もよくもらって、答えてるうちに私もわかってきたんです。その人が目の前からいなくなってほしくないという願いがあるのかもと。とくに沙知に関しては周りにいる身近な人たちが、「この子は放っておいたら、ふっといなくなってしまうんじゃないか」という恐れや心配を抱えてると思うんです。喪失を予感してると言いますか。でも言葉では「大丈夫? いなくならないでね」とはきっと言えないです。深刻になりすぎてしまいますし。おそらく聞くことさえもデリケートというか、その一言が逆の効果になってしまうこともあります。そうした時に写真を撮ることは「今あなたはここにいる」という証にもなるし、「ここにいてね」っていう願いとしてもあるのかなって思うんです。しかも、少し明るさの伴う行為ですよね。誰かの写真を撮るって。
冒頭のシーンに出てくる親子の母親役は、私の大学時代の同級生のパートナーだった方が演じてくれてます。その同級生の田村くんは、3年前に突然亡くなってしまいました。卒業以来、田村くんとはほとんど会ってなくて、でもお葬式には出席したくて駆けつけました。そのときに自然と、ある方の姿を目で追ってたんです。他の人といるときは朗らかに笑ってて、でも一人になった時だけ涙を流してて。葬儀の後、いつもはあまりしないんですが、彼のことをTwitterにツイートしました。あまりに突然だったから、自分の中にある思い出を公の場所に残して共有するのがいい気がしたんです。それで亡くなった彼の名前をちゃんと書いて投稿したら、知らないアカウントの方からメッセージが届いて、「そのことについて、もっと詳しく聞かせてもらえませんか」と。それからやりとりをしてみると「ああ、お葬式にいたあの方だ」とわかったんです。その後もやりとりは続いて、私が世田谷美術館で毎年の夏休みにやってた子ども向けの映画ワークショップにお子さんが参加してくれたりもしました。『春原さんのうた』を撮る時に、あのシーンは脚本になかったんですけど、直前になって、その吉川愛歩さんとお子さんたちを現場にお呼びしようと思いつきました。田村くんとは、実は一度一緒に映画を作ったことがあるんです。本当に勝手な思いですが、学生の頃にそうしたように、吉川さんと一緒に映画を作ったら、杉田、何してんだよと笑ってくれるかなって。吉川さんは映画の終盤のシーンの撮影にもお呼びしました。駅前のシーンです。2人の子どもをひとりで育てる親の顔とはまた別の吉川さんの姿も残しておきたい気持ちになって、追加の出演のご相談をしたんです。
田村くんの最後の葬儀の写真をよく覚えてます。再会が遺影になってしまったことは、やっぱり淋しいです。写真を撮るっていうのは、喪に服すことに近い何かがあるのかもしれません。今回の映画であれだけ色々な人が写真を撮ってる理由も、そういう、その頃の自分の心境が影響してるのかもしれません。

——最初は清水啓吾さん扮する大学生の課題として動画に撮られることだったものから、最終的に沙知が映る映像はキノコヤさんの窓を使った上映行為へと繋がっていきます。つまり個人同士の関係だったものから、複数の人たちの関係へと変化していくような印象深い場面です。

杉田 あそこは何か救われますよね。たしかに沙知は「良い写真が撮れたけど、見る?」っていつも聞かれるけど、「見なくていい」と断ります。でも窓で上映される場面では、自分の撮られた姿を初めて見ることになります。緊急事態宣言があってから、キノコヤさんはそれまでやってた通常の映画の上映会を開けない代わりに、窓外の街に向けて、「窓シアター」と称して映画の上映をしてました。私も普通に帰り道に通りかかって、窓に無音で映画が映るのを見てました。同じように通りかかった人たちも、やっぱり立ち止まって見上げてたりするんです。その窓シアターの場面も、ある意味で記録としてフィクションに組み込んだということになります。映画をつくる時は、自分からは何も生まれなかったとしても、「今これがあるよ」と見つけることはできます。すでにこの世界は十分に色々なもので満ちてて、究極的に言えば映画も誰かが撮る前から、すでにそこにあるものだと思ってるところがあります。たまたまカメラをそこに置くと映るもの。置かなくてもあるもの。誰かが置かないと、そこに映画があると気づかれないもの。だから意図というよりは、「ここにこれあります」という、自分が出会って発見したものたちを記録してるような感覚なのかもしれないです。その役目はもちろん私じゃなくてもいいんです。

——後半にかけて荒木さんの髪の色が変わりますが、あそこは何か理由があったのでしょうか。

杉田 荒木さんは髪を染めたことがなくて、以前から一度染めてみたい気持ちがあったみたいです。それなら映画の中で染めることにしたら、荒木さんもうれしいし、映画もきっとうれしいと思いました。それに、原作の短歌が収載されている東直子さんの『春原さんのリコーダー』の中には、「遠い昔に書いた手紙をひらめかせ看板娘が髪染めにゆく」という一首もあるんです。主人公の沙知は、キノコヤの看板娘になるかもくらいの存在だと思ったし、書いた手紙をひらめかせてるし、それはもう染めに行くだろうと(笑)。映画の中でも普段の生活でも、誰かが髪型を大きく変えたり、色を変えたりすると、何かがあったんだろうと思われたりしますが、特に理由なく髪を変えることの方がきっと多いですよね。同じように沙知も、何となく染めた、が本当だと思います。と言いつつ、映画を見てると、沙知の心境の変化にも繋がってるように見えるのも本当です。私もそこは今も想像してる立場です。

——「歌壇」12月号に掲載されているインタヴューでは、「夜が明けてやはり淋しい春の野をふたり歩いてゆくはずでした」という『春原さんのリコーダー』にある一首を、言わば「裏の原作」として製作に向かわれたとおっしゃっています。この一首は本阿弥書店から発行された単行本だけでなく、筑摩書房からの文庫版においても表題歌のページの真裏に印刷されてありますが、表題歌に比べると別れてしまったパートナーに対する思いがダイレクトに伝わる一首ではないかと思います。

杉田 この一首は会うことが叶わなくなってしまった人について詠われてて、原作の一首も、きっともう会えない人のことを思う短歌で、それぞれが共鳴し合ってるように思えました。東さんの短歌には、「本当はあったかもしれないけど、もうそこにはないもの」と向き合うものが多い気がします。誰かがこの世界からいなくなったとしたら、そこには必ず残された人がいて、その人の生活は続いてく。その、残された人にとってこの先も続いてく時間を思うことがベースにありました。例えば沙知が自宅の植物に水をあげる場面がありますが、身体が水分を必要としてるときに、彼女は本能的にその残った水を飲むことができるんです。だから彼女は生きていける。その二首が表と裏にたまたま印刷されてたこともあって、撮影現場中はずっとそのことを考えてました。

——『春原さんのうた』には言葉の歌だけでなく、音楽の歌も登場します。押し入れに隠れた叔母さんがリコーダーで演奏する「花の歌」、それから沙知が返送されたハガキを燃やす時にリコーダーで奏でる「浜辺の歌」。それから日髙さんが元パートナーの幸子(能島瑞穂)へ残した「さっちゃんの歌」です。本作における音楽の歌についてはどのようにお考えでしょうか。

杉田 まず自分でも、どうしていつも歌うシーンがあるのかと思います。これまでの3作品とも、必ず映画のために作詞もしてるんです。歌詞を考えるのは脚本を書く以上にむずかしくて。なのに、またそういうシーンを書いてるんです(笑)。今回は、幸子役の能島瑞穂さんと顔合わせのような形でお茶をご一緒した時に、本当に歌うのが好きだと伝えてくれたことが大きかったかもしれません。子どもの頃にNHKの合唱団に入ってたそうです。「本当に合唱が好きで、楽しいんです」と目を輝かせながら……、能島さんは本当に目が輝くんですけど(笑)、お話しされるんですね。例えば好きな合唱曲は「浜辺の歌」だと教えてくれました。その曲は結果的に、能島さんではなく妙子叔母さん役の伊東沙保さんが、しかもリコーダーで吹くことになりましたが、自分の中では自然な流れでした。能島さんにはぜひ歌ってもらいたかったので、音楽のスカンクさんにはすぐに、今回も歌を作りますと伝えたと思います。そういったことも、さっきお話したような、今だからこそのものを捕まえていく感覚です。「花の歌」を使用してる理由は、元々コロナ禍の前に書いてた脚本と関わってきます。沙知と、新部聖子さんが演じた雪との最初の出会いは北海道の小学校で、放課後に一緒に過ごしたプレイルームにオルガンがあって、沙知はそのオルガンで「花の歌」を弾いてたんです。この話、かなり長くなるので、これくらいにしておきますね。

——能島さんが歌うことが本当に好きなのは、映画の中でもすごく伝わってきますよね。

杉田 沙知が泣くシーンですが、押し入れからミニギターを幸子が出してきますよね。それで最初に振り返った時に、すごく綺麗な目をしてるんです。お芝居のテストの時に、私も近くで見て泣きそうになりました。沙知役の荒木さんはそのテストでもう泣いてました(笑)。沙知は、その目を見て感じてしまうんです。いま会ったばかりの目の前の人の人生が一気に伝わってきて、受けとめてしまう。それが自分のこれまでのことともつながって、きっと沙知は堪えきれなくて泣いてしまうんですね。能島さんでなければ、あのような場面は書けなかったと思います。自分は、ある予感の中でいつも脚本を書いてるんですが、能島さんのあの目を撮影現場で見たときに、ああやっぱりこれは本当だったんだと思いました。本番では、幸子のその目は沙知の身体と重なってカメラからは見えなかったんですが、それは大した問題ではないとすぐに判断しました。私たちはその目を見られないけど、沙知が代表して目の前で見てる、だから大丈夫、と。あのカットはワンテイクでOKにしました。ちなみにそのカットは、女子美術大学でのオンライン授業で学生の皆さんも一緒に見てます。私が膝に置いてたノートパソコンのwebカメラで(笑)。平日は毎日授業もしながらの撮影で、こんないい加減な授業で大丈夫だろうかと心配してたんですが、あの幸子と沙知の時間を一緒に見られただけでも、よかったと思います。
カメラの話を続けると、撮影の飯岡幸子さんも私も、その位置に対してそんなにこだわりを持ってないんです。たぶん共通して大事にしてるのは、そこで起きてることを邪魔しないようにすることと、そこで起きてることが何なのかを見極めること、それが一番見えやすい場所にカメラを置くことです。もっと極端に言えば、そこで起きてることが確かなら、カメラをどこに置いても映るだろうと。その世界はそこに揺るぎなくあって、カメラの置き場所で何かが変わることはないと思ってるんです。ただそんな中でも、最良のポジションはあるはずだから、そこをできるだけ見つけられたらいいなと思ってます。だから、そもそも監督としての一番の役割は、そこに世界が生まれるきっかけを作ることだとも思ってます。カメラは基本的に飯岡さんに任せる気持ちがあって、私の作業はそれ以前の、飯岡さんがカメラを置こうと思えるような時間を作ることになります。え、これ、どこに置けばいいの?と飯岡さんを本当に困らせるようになったら、私は映画を作るのを終える時だと思ってます。ちなみに沙知が書道をする場面は、クランクインの2日目くらいに撮影したんですが、まだこの映画がどうなるのか私もよくわかってない時で、体が大きく動くパフォーマンスも、それをスマホで真剣に撮ってる人がいるのも、しかも気持ちが入りすぎてぶつかったりしてるのも、神妙な面持ちでそれを見守る喪服姿の二人が奥に座ってるのも、ぱっと見だと意味のわからないことが多すぎて、でも何かがちゃんと起きてることはわかってて、「どうですか?」と飯岡さんに尋ねたら、「……うん、何かは撮れてる、でもそれが何なのかは、わからない」と静かに2回繰り返して言ってました(笑)。私の中ではそれはぎりぎりセーフです。

写真:隈元博樹

——2020年のコロナ禍の中で撮影されたこともあり、登場人物たちをはじめ外を歩く人たちは基本的にマスクを付けています。マスクを付けることに関しては最初からどの程度想定されていらっしゃったのでしょうか。あるいはそこに抵抗などはなかったのでしょうか。

杉田 先ほどもお話ししたような理由で、設定を2020年の9月にしたので、登場人物もそのままマスクをすることになりました。抵抗感はなかったです。小道具としてのマスクということだけで言えば、この世界に携帯電話やスマホが登場したときと同じくらいに思ってました。それまでなかったものが一般化して、当時は戸惑う人たちがいたように記憶してます。何か、それまで自分たちが信じてきた映画が崩れてしまうんじゃないかと警戒する空気がありました。どこにいても気軽に電話をできてしまうなんて、とか、指で画面をいじるだけなんて映画のアクションとしてありえない、みたいな感じです。いま、映画の中でスマホを使ってる人を見て、戸惑う人はいないですよね。マスクもそれに近いことになるかもと、撮影の時点で思ってました。あと、コロナ禍が早く収まることを願ってはいましたが、そんなに簡単ではないだろうという予感もありました。数年続く可能性もありましたし、もし収束したとしても、マスクをする習慣はある程度変わらずに、コロナ禍前の世界には二度と戻らない未来もあり得るだろうと。だとしたらどうするか、という選択をする必要がありました。ただ私は、他の皆さんとも同じように、前の世界には二度と戻らないということを経験してます。映画学校に通い始めた2001年の9月にアメリカで同時多発テロが起きて、長編一作目の『ひとつの歌』が完成した頃に東日本大震災と福島原発の事故が起きて。同時多発テロの時は、同期生たちが何とかそのことを映画にしようとするのを見てました。震災の時も、周りの少なくない人たちが被災地に向かってました。今回のコロナ禍では、それ以前の設定の映画をつくる人たちを多く見るので、その違いについては考えたりしてます。私自身はと言うと、同時多発テロがあった時にも、震災があった時にも、それを中心のテーマにしない映画をその直後に撮ってるんです。それについては、機会があればまたどこかで話せたらと思います。
私が映画をつくる時はいつも少人数で、少ない時は3名ほどの時もありますが、街中にカメラを置いて撮ることで成り立ってきました。スタッフがいないから人止めも車止めもできないという現実的な理由があります。だから2020年の9月にカメラを置けば、それは2020年の9月の背景になるんですね。街の人たちがマスクをしてたら、その世界になるんです。基本的に受け入れてく方向です。街で通りかかった人がカメラ目線をしたら、それは見ますよね、カメラありますもんね、と受け入れるのに近いです。理由は、私たちの撮影態勢がそうだからです。マスク有りの映画を作るんだという意気込みがあったというより、ただそうなるということでした。飯岡さんは濱口竜介さんが監督した『偶然と想像』(2021)の撮影監督でもあるんですが、ほぼ近い時期に作ってたんです。コロナ禍とは異なる設定で撮ったけど、思ってる以上に大変だったと言ってました。それでも通せたのは、きっと私たちより単純に人数が多かったんだと思います。『春原さんのうた』チームは助監督や制作部は一人もいなくて、誰もカメラのそばから離れられないんです。
撮影中は、この場面は最初はマスクしてるけど、たぶん段々いい加減になって外すことになるかもね、といった確認は随時してました。面白かったのは、沙知の元同僚の希子を演じた名児耶ゆりさんが、スマホで沙知の写真を撮る場面で、「もうこれ邪魔!」みたいな感じでマスクをバッと外したんです。写真を撮られる方じゃなくて、撮る方が外すんだというのを教えてくれたのは名児耶さんでした。たぶん、沙知をちゃんと撮ろうという気持ちをマスクが邪魔したんだと思います。それで結果的に希子の顔が初めて露わになって、おお、顔だ、となりました。これはこれで、またひとつの映画のアクションになるということもわかって、ありがたかったです。その感覚も、スマホのときと同じです。スマホにはスマホだからこそのアクションがあって、最初は慣れてないから戸惑うけれど、やっていけばいつの間にか取り込んでいけると。

——故郷へと向かう船の上で沙知が夜の海を眺めるシーンでは、付けていたマスクを外して夜風を受けるアクションへと繋がっていますよね。

杉田 希子の写真の時に近いかもしれません。これはいまいらないと気づく。いま、それより大事なことがある、みたいなことだと思います。登場人物の心情や状況を、そうやって一つひとつ確認しながらの撮影でした。あと、そもそものことですが、私がこの映画を作る約束をしたのは、マスク姿の荒木さんに会ったことがきっかけなので、それが自然な流れだったのかもしれません。試写に来てくれた映画監督の筒井武文さんから届いたメッセージに、「世界にマスクがあることのリアリティも実に見事でした」とあって、おおよかった、と思いました(笑)。

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