二項関係と氾濫

クリス・フジワラ

 それぞれの映画は、身振りが適切に見える、あるいは場違いに見える条件を設定しているに違いない。独自のリズム、表現形式、文体、環境を確立すること、これは優れた映画に期待する最低限のことだが、とくに映画が形式的で文体的な一貫性を与えてくれる慣習を頼りにできない場合、それらを達成することは容易ではない。『ケイコ 目を澄ませて』は、たしかに、野心と競争心のあるアスリートとその葛藤を描いた映画のジャンルに位置づけられ、映画の大部分がその舞台を特殊な環境、決して大きくはない古びたボクシングジムに据えている。『ケイコ』は、そのジャンルと舞台からある種の利点を引き出している。スポーツ映画というジャンルからは、不屈の努力、技術の進歩、ゴールとドラマのクライマックスとしての競技、そして志を持つ者と年上の指導者との関係の重要性という主題を引き出しており、ボクシングジムに舞台を設定することで、古典的な場の統一がもたらされることを可能にし、同時に、そこを現実的で実質的なものが象徴に変換されるような空間にもしている。
 変換が前面に押し出され、主題となっているのは、主人公の耳が聞こえないため、目に見える記号、つまり手話と筆談で意思疎通をとっているからだ。ある瞬間には、誰かがその技術を習得していなかったり、その技術が必要であることを一瞬忘れてしまったりして、意思疎通がうまくいかなくなる。たとえば、トレーニングの場でもある橋の近くで、ケイコがふたりの警官に出会うシーンでは、そのうちのひとりがケイコは聞こえないとわかった直後にもかかわらず、マスクをつけており、声を張り上げ「じゃあ、気をつけて!」と別れを告げる。あるいは、ふたつのシーンで、登場人物たち──どちらも女性である──が、覚えたてのいくつかの手話を使ってケイコに言葉を伝えようとする。ひとりは、トレーナーたちがケイコを移籍させようと取り計らっているジムのマネージャーで、もうひとりはケイコの弟の友人、ハナである。前者との場面で、ケイコは、「なにがしたいの?」と言うような困惑した表情でトレーナーの方を向き、マネージャーの寛大な厚意をはねのけるが、ハナとのシーンでは、初めマネージャーに見せたような無愛想な態度をとっていたケイコが、ハナが会話を試みたことを笑顔で受け入れる。これは、ケイコの成長にとって大きなステップだと言えるかもしれない。こうした譲歩が、まずケイコがボクシングの基本的な動きを指導し、次にハナが流れるようなダンスを披露するというような、ケイコと弟、そしてハナが一緒に体を動かすシーンにつながる。これらのシーンは、ケイコの葛藤が、たんに強いボクサーになることだけではなく、おそらく借りを作らないよう、他人から与えられたものを受け入れないようにしてしまうという躊躇いや孤独を克服するためのものであることを示唆している。そうした葛藤があることは、映画の序盤で、家賃をめぐって弟に厳しく接したり、母親からのメールにそっけなく反応したりすることですでに明らかだろう。

 ケイコが水道の蛇口を開けたままにしていたためにシンクから水が溢れ出す、ホラー映画のような雰囲気を漂わせたシーンがある。ケイコの抱える問題とは、二項関係の外で、人間性の氾濫にどう対応すればいいのか、ということなのかもしれない。 勝利を収めたあとの記念撮影で、ケイコは、カメラの抽象的な視線を前にして、自分をどのように見せたらよいのかわからず、落ち着かない様子だ。その直後、母親の撮影した試合の写真がモンタージュされ、時間の流れの速さが、徐々に区別できなくなった色のブレという形で残されているのが見せられる(会長と妻に「目で病気の進行を確認できたときには、すでに手遅れなのだ」と医者は言う。時間と過程の関係がこの映画の核心である)。ある時、ケイコが「痛いのは嫌いです」と認めるとトレーナーに「正直やな」と微笑まれるのだが、そこで彼女が居心地の悪さを感じるのは、「正直」であるにもかかわらず、おそらく、表現することを控えてしまうという別の恐怖心の表れからだろう。判読できない試合の写真、ケイコがシンクに吐き出す血反吐、床に座っているケイコが無視する玄関からの点滅信号、これらは堰き止められた現在の氾濫なのだ。
 短いプロローグでは、黒にフェードアウトすることで映画の他の部分から切り離された、ケイコがノートに文字を書いている姿が映し出され、書いているものを見ることはできないが、代わりに、彼女が持っているペンと紙が接触する音を聞く(ペンとは、セシル・テイラーがピアノについて述べたように、ひとつの打楽器であり、『ケイコ』の音響には、非常に豊かで心地よいパーカッションの音として収録されている)。この映画が自伝に由来する作品(小笠原恵子の『負けないで!』)であると知らなかったとしても、ケイコという実在から出発していることは容易に推測できるのだが、しかし、あとにこの印象を改め、映画はむしろケイコで終わり、執筆はある過程の結果だと判断することになるかもしれない。この過程とは生きることを学ぶことにほかならない。それはデリダが書いたように、不可能なことだが、「その知恵ほど必要なものはない」。(ジャック・デリダ『マルクスの亡霊たち』増田一夫訳、藤原書店、2007 年、11ページ。)

©2022映画「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINÉMAS

 会長はケイコの師として当然ながら重要である。ボクシングの技術や、体の鍛え方を教えることにとどまらず、戦意を喪失することは、緩みや怪我という自己に降りかかるものだけでなく、「失礼」、他者に対しての悪である、という倫理的な教訓も与えている。会長がそう諭す少し前に、弟が話しかけるも、ケイコがそれをそっけなく拒絶する肝心なシーンがある。ふたりの手話はインタータイトルで示されるが、このシーンは、完璧な弁証法的構造であるとも言える。ふたりとも正しい。弟は姉を自分の殻から引きずり出そうとし、ケイコはひとりにしてもらう権利、自分を表現せよという要求を拒否する自由を主張するのだから、どちらとも正しいわけだ。だからこそ、どちらもまた間違っている。弟の正誤は、ケイコの正誤と対峙していて、つまりふたりは互いの鏡像である。ここでは、この映画のあらゆる演技を称賛する必要もあるだろう。ケイコ役の岸井ゆきのは、ただ役柄を作るだけでなく、映画全体に深く入り込んで生きている役者としての模範である。また、弟に扮する佐藤緋美の演技は、共感を呼び、心に響く。姉の耳が聞こえないことが、弟をより良い人間にしたのかもしれないと思わせる演技である。生きることを学ぶことは、他者から、他者のために生きることを学ぶということなのだ。再びデリダの言葉を引用すると、「いずれにせよ、生の縁にある他者を通じてなのだ」。

 ケイコは耳が聞こえないことで、ひとり以上を相手にすることは難しく、他者との出会いは、必然的に二項関係の出会いとなる。ボクサーにとって二項関係の出会いの究極の形は、リング上の相手と完全に敵対することだと思われるかもしれない。相手を打ち倒そうとすることは、直接的な身振りとその即効性を特徴とする、ケイコが望むような他者と相対する仕方なのかもしれず、そこでは、少なくとも原理的に、耳が聞こえないことが不利にはならず、世界と対等に戦うことができる。けれども、この映画で中心となる二項関係は、ケイコと会長の関係である。彼はケイコに、二項関係が純粋な身振りという形式によって行われる世界に入ることができる希望を与えている。あるシーンでは、ふたりが並んで練習をし、目の前にある大きな鏡がその奇跡的なパートナーシップを映し出す。このシーンに限らず『ケイコ』では、かつて広く普及したものの、1930年代以降少なくなったある種の映画の生き残りを目撃しているような感覚を覚える。これらの映画では人々がともにいることが、本質的に、カメラの前にいることであり、映画のフレームは社会の理想的なイメージである。映画の後半には、会長から渡された赤い野球帽をケイコがツバを前にしてかぶるも、会長がツバを後ろにしてかぶし直させ、さらにシーンの最後、ふたりが歩き始めると、ケイコはキャップを再び前向きにかぶり、少しドヤ顔をして戯れるシーンがある。このシーンの魅力を語ることが難しいのは、さまざまな意味で『ケイコ』にとって重要な、たとえば帽子の社会的な意味、その飽和がときに他の視覚領域から色を奪うかのようにさえ見える映画全体を貫く鮮やかな赤色、人々が身振りや記号を共有することの喜び、ケイコの頑なな反抗的自立がここでは遊び心と優しさに変わっていることなどといった要素がひとつの映像の中に凝縮されているからだ。

 映画の最後には、トレーニングをする際のお気に入りの場所、あの橋の近くで、ケイコが再びキャップをかぶり、ツバを前に出して、自分好みのスタイルにしているのが映される。この細部には、『ケイコ』のドラマ全体の解答が表れていると言ってもいいかもしれない。そこで、ケイコはボクシングのリングで自分を負かしたライバルと対峙する。ふたりは短く、だが丁寧なあいさつを交わす。相手もヘッドギア、白いヘルメットをかぶっている。相手は、ケイコがファウルに抗議できないことをアドヴァンテージとして勝ってしまったと言えるかもしれないが、今、ここで、勝者はケイコに冷淡に接しているわけでも見下しているわけでもなく、かといって反省をしたり、謝ったりするわけでもない。ヘルメットは、彼女とケイコが肉体労働者という同じ階級に属していることを示している。この階級の一員としてのケイコの疎外感は、その直前に彼女がホテルの清掃の仕事をしているシーンのラストで示されている。後輩にシーツの入れ方を教え、フレーム外でそれに励む彼を見ているケイコは、その無表情な様子から、彼があまりうまくできていないのか、少し呆れ笑いをし、それから、視線を横の窓のほうに注ぐ。この視線の移動によって、この部屋も、そこにある物も、それを扱う技術も、同僚との関係も、ケイコには些細なことであり、彼女自身の人生は別のところにあることが明らかになる。

 ケイコとライバルは、どちらかが思っている以上に共通点があるのかもしれないが、相手は話すことができ、一方で自分は話すことができず、不利な立場に置かれているという違いを、ケイコは痛感してもいる。橋の下で出会ったあと、ひとりそこに残されたケイコが憂いていることは、この意識にあると思われる。この長回しによるクロースアップは、ツァイ・ミンリャンが『愛情萬歳』のラストでヤン・グイメイを、『西瓜』『交遊 ピクニック』のラストでチェン・シャンチーをクロースアップしたのと同様に、観客の緊張感を一気に高める啓示(エピファニー)として機能している。しかし、このクロースアップは『ケイコ』の真のラストではなく、シーンはまだ続いており、前に向けたキャップをかぶったままのケイコが土手を駆け上がり、フレームの外へ走っていき、そこでカットされる前の最後の瞬間に、通行人が数人フレームに入ってくる優雅な驚きがある。そして、人生は「続いていく」──ほかにどうしろというのだ?── しかし、彼女は今、ようやく、人生の流れから切り離されたひとりの人間としてではなく、人生の一部として見られるようになったのだ。
 映画の後半、妻が病院で寝たきりの会長に日記を読み聞かせることで、私たちはようやくケイコの書いた言葉に触れることができる。この読み聞かせに対するケイコの同意は、彼女の書くものが常に他者に向けられたものであったことを暗示している。会長の妻がケイコの日記を読むと、ケイコの主観的な経験を模倣するかのように、周囲の音が聞こえなくなる。さらに彼女の声に弟のギターの音が加わるとき、この瞬間、ケイコが弟の音楽が彼にとってどのように聞こえるかを想像している、間主観性の実現として理解することができるだろう。周囲の音を取り除くことで、映画は氾濫するもの、過剰さを濾過し、体験の響きだけを残す。これは、『ケイコ』が終始関心を寄せてきた変換の最終段階だろう。この点で、ケイコの耳が聞こえないことは、この映画の重要な側面であると同時に、ある意味きっかけに過ぎないのである。そのことにより、観客を純粋な身振りの世界に誘う。そこでは、他者から、自分から、生きる方法を学ぶという問題に、その普遍性の中で直面することができるのだ。

(訳:梅本健司)

クリス・フジワラ

「Jacques Tourneur: The Cinema of Nightfall」、「The World and Its Double: The Life and Work of Otto Preminger」、「Jerry Lewis」など数多くの映画関連書籍の執筆、編集に携わる。国際映画批評家連盟より刊行されている「Undercurrent」の編集長、Boston Phoenix紙の映画評論家を務め、数多くの雑誌、ジャーナル、新聞に寄稿。その他複数の大学で映画史と映画美学講師を務める。エディンバラ国際映画祭で芸術監督を務めた経験もあり、最近ではその他の機関の映画プログラムの開発に携わり、映画評論ワークショップや映画プログラミング・ワークショップの指導に当たっている。

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