風景のように撮られたい

——『夏の娘たち』の登場人物たちは、もちろん年齢的には十分に大人というべき人たちばかりなのですが、しかしつねにどこか子供っぽさ、ある種の幼さというものがあるように思いました。とりわけそれが際立つのは川遊びのシーンです。

西山:おそらく直美はモヤモヤした感情を多少なりとも抱えていた人物だと思うんですね。でも私はそういうことにつねに距離をとって演技していたように思います。今もそうなんですけど、日常生活で人と喋るときって、たとえ自分がめちゃくちゃ落ち込んでいたとしてもそう見えないように喋ることがあるじゃないですか。そういう水準で直美をつねに明るく演じていたように思います。妹にとってはいつも明るいお姉ちゃん、お母さんに対してはいつも明るい娘みたいに。川遊びの場面にしても同じで、そういうところに子供っぽい感じがするということなのかもしれません。

『夏の娘たち 〜ひめごと〜』

堀:チラシのイラストを描いてくださったやまだないとさんに本作を見ていただいたとき、彼女は「『夏の娘たち』っていうより「夏の子供たち」みたいな映画だね」っておっしゃってました(笑)。

——子供っぽさとともに、全編にわたって決して明るいだけの話ではないのに、つねにコメディ的な雰囲気がありますよね。最も顕著なのが通夜の場面、登場人物が次々と集まって、その人々がかかわる過去について思い出しながら会話するところです。俳優の方の力を信じていないとおそらく絶対に成立しないシーンで、見方によってはこの映画で音楽的なシーンだとも思います。

堀:このお通夜の場面はほぼワンテイクで撮ってるんですよ、テストは2回くらいしてるけどほぼNGは出してない。

西山:この場面はほんとに楽しかったですね。こういう集団的な対話の場面で、あるトーンだけを共有したらあとは何も考えずに言葉を言うだけでいい、っていう感覚はなかなかありませんでした。

堀:そのシーンの最初に川瀬陽太さんと話している外波山文明さんは西山さんのおっしゃっている感覚と同じものであるかどうかはわかりませんが、とあるお芝居の感覚を「馴染む」と仰ってました。たとえば、あのシーンで外波山さんが礼服のポケットに軽く手を引っかけるお芝居をされて、それがなんとも味があって素晴らしい。ですから、そのようなお芝居をされている時の感覚を伺ったんです。そうしたら「そういうのは馴染むっていうか、馴染む」と。大切に自分だけのものにしてしまっておきたかった言葉ですが、西山さんだし、「NOBODY」さんだから、恩着せがましく教えてあげます(笑)。

——それまで身元がよく分からなかった松浦祐也さん演じる義雄の過去がひもとかれる場面ではあるのですが、次から次へと見知らぬ人の名前が出てくる。そして何がなんだかわからないまま幾人かの大人たちだけが理解している。置いてけぼりにされた気分とともに(笑)、なんだか自分もその輪に加わっているような気分になる。改めて考えてもすごい場面です。

堀:でも、現実でもそうですよね(笑)。ただ、自分にとってはこういうことでもあるんです。僕の場合、おそらく最後のフィルムによるプログラム・ピクチャーになるであろうピンク映画に携わってこれたからこそ、このようなシーンを形作ることの出来る幅広い年齢層とキャリアをお持ちの役者さんたちを知ることが出来たわけです。また、プログラム・ピクチャーであるピンク映画の場合、一本限りの企画のみではなく、同じ監督の作品で同じ女優さんに何本も出てもらうことは珍しいことではないし、異なる監督の現場で役者の皆さんが同じ組み合わせで、たとえばご夫婦役などでお仕事をされることも多い。必然的にお会いする機会も多くなる。そういう疑似撮影所みたいなところにピンク映画の強さってあると思うんです。プログラム・ピクチャーを撮るにあたっての基本的な姿勢って、そういう仕事をされている役者さんを信じることだし、映画を撮る側が、年齢、キャリアに関わらず、俳優さん、女優さんたちに育てられていると理解することですよ。プログラム・ピクチャーの徒弟制度、他業種にもあると思いますが、その経験が大切だなどとふざけたことを言っているわけではありません。むしろ弊害の方が大きいかも知れません。それに、キャリアのある先輩方のおっしゃることがつねに正しいとも思いません。人間的に、などとはさらに思いません(笑)。ただ、そういうふうにやっていれば、自分がその作品をつくる前に持っていたイメージは必ず超えられていく、それが気持ちいいんです。

——この場面を見ていて、田舎のお通夜とかお葬式ってこういう感じあるなあと素朴に思ったんです。お年寄りの人たちが集まって、自分たちの知らないような昔の話を、あたかも今ここで起きていることのように話す雰囲気というか。

堀:お通夜って久々にいろんな人に会えるから、「哀しいけど楽しいんだよ、哀しいんだけど」って外波山さんが仰ってました。でもこういう日常的なごく普通の人を演じている俳優さんたちを撮ることって、いちばん気持ちいいと思うんですよ。僕はピンク映画を映画館で見ているときに、低予算だということも関わるんですが、ある種の親しみを感じることがよくあったんですね。よく思い出すのは、どなたが撮られたのか色々な先輩に聞き続けているのですが、まだ判明していない、とある映画のなかに新宿通りを女優さんが歩いている場面があったんです。おそらく車で並走しながら撮られたものなんですが、もちろん車止めなんかしていませんから、そのときの道路の交通状況がダイレクトに関係していて、カメラが女優さんにようやく追いついたかと思ったらいきなり止まって、女優さんがフレームからまたはずれたりする(笑)。低予算のフィルム作品だから撮り直しなんてしないから、それがそのまま上映される。現場なんて知らない頃でしたけど、それでもそういうことがすごく面白かった。

『天竜区奥領家大沢 夏』

——おそらく堀さんの前作にして初のいわゆるドキュメンタリー作品「天竜区」シリーズが本作に与えた影響は、そうした撮影行為そのもののドキュメンタリー的な側面に強く関わっているのではないでしょうか。具体的には音の設計です。とりわけ川遊びの場面、ここでは台詞すら川の流れでほとんど聴こえなくなってしまっているという、これまでの堀さんの映画における台詞の扱いとしては最も凶暴な音響が記録されているように思えます。

堀:そうですね、今回は虹釜さんとの作業でしたから、それは間違いないと思います(笑)。とはいえ、ずいぶん良い言い方をしていただきました。基本的にこんなのは論外なので、真似してはだめですよ、もちろん誰もしないと思いますが(笑)。ともあれ、試行錯誤中なのでまだはっきりとは言えないんですけど、整音について言えば、もちろん川のシーンの台詞は聴こえなくてもいい位の気持ちで現場からやっています。加藤泰監督は同じような場面に遭遇したとき、川の底にござを敷き詰めて流れの音を低めて録ったというとんでもない努力をされていたと聞いています。ですから、そういうことについての敬意は持ち合わせているつもりですが、この場面はそういう態度から離れました。マイクの位置は比較的固定して、台詞が聴き取りづらかったら川の音ごと録音レベルを上げてしまうというやり方を取りました。川の音も台詞もつねに一定ではなく、ワンカットごとにレベルが違っていていいのだと。なぜならもともと映画のショットはカットごとに独立しているんだからと。そういうことを劇映画でやってみたかったんですよ。阿呆でしょう?(笑)

西山:この場面、みんな現場では全力で台詞を言ってます。物理的にマイクに声を届かせるだけでも全力じゃないと無理だった(笑)。

堀:みんな現場で気づいたんでしょうね、「あれ? こいつオンリー録らないつもり?」って(笑)。お通夜の場面にも似たようなところがあって、あそこは意外と車通りの多いところだったんですが、たとえばあるカットの終わりに車の走行音が入っちゃったとしても、いい具合の音の瞬間で切れば次のカットの頭が無音でも繋がるんですよ。もちろん、その場合、録音部だけでなく監督も現場で聞いていなくてはならないですけど。つまり現実をなぞらなくても、映画は映画の方法でカットを繋げることができる。これは確かに「天竜区」シリーズが気づかせてくれたことかもしれない。演技も同じことなんじゃないかな。場面と場面の繋がりだけを優先するのではなく、もっとメリハリつけた場合でも、そうでない場合でも演技のテンションをきちんと捉えさえすれば、カットごとに色合いを変えても、映画として繋げることはできるんだとようやく実感できたような気がします。

『夏の娘たち 〜ひめごと〜』

——それは直美の心情の変化の唐突さみたいなものにも関わっているんじゃないでしょうか。この映画の決定的な瞬間は、カットとカットが繋がれることによって示されるというよりも、むしろカットが切れたことにおいてこそ生まれているような気がするんです。

西山:この映画の撮影の前にちょっとでもヒントが欲しいと思って「天竜区」シリーズをDVDで拝見したんですが、そのときはあまりピンと来なかったんです。でも、最近これを見直してみたら「そうだ、私はこの映画の景色のように映画に映りたいんだ」ってことに気づいたんですね。風景もそうですけど、犬とか、石とかみたいに。もともとドキュメンタリーを見るのは好きで、ドキュメンタリーに映し出される人のように劇映画に映りたいってことは、ここ10年くらいずっと思っていたんですよ。
直美の心境の変化については、すごくよく覚えているのは最後の最後に撮影した松浦さん演じる義雄くんとの夜の場面です。撮影順序としては実はひろちゃん(鎌田英幸)との別れのシーンの方が先なんですね。ひろちゃんとのシーンはほんとにどの場面も幸せだったので、私が本当に直美だったら絶対に義雄には心変わりしないと思ってたんですね。でも最後の最後に義雄との場面を撮ったときに「あ、そうか!」と、私自身が心変わりしてしまった。好きだの嫌いだのを言葉の上で考えるというよりも、もっと肉と肉の対話みたいなものによる唐突な変化が訪れたことに気づいて驚きました。ある環境の中で、人とかものとか含めて、川とか風とかといっしょに間合いを計って一緒に演技をしたという感覚だった。景色みたいに映りたいっていうのはそういう意味で、同時にそれを映画の中だからこそ逸脱したいという気持ちもあって、そういう唐突さは生まれたんじゃないかと思います。

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