三宅唱インタビュー
いつまでも出会いの途中

地理的にも、時間的にもそれほど広大ではない、どちらかといえば狭い関係、短い期間を扱っているにもかかわらず、三宅唱の映画は窮屈な印象がほとんどない。これはあらゆる可能性に満ちた世界の一部なのだと感じさせてくれる。その印象は今回でいえば多くの人がさまざまな過去を持っているとか、あるいは宇宙とか、脚本やテーマだけに支えられているものではないはずである。今回は演出に焦点を当ててそのことを伺った。

見えないものを知ろうとするところにたどり着くために

──藤沢さん(上白石萌音)の背中から映画をはじめようと決めたのはどの段階だったのでしょうか?

三宅唱(以下、三宅) 具体的な質問をありがとうございます。シナリオを書いている段階でした。ただし、背中からと決めていたのではなく、顔ではないだろうな、という考えだったように思います。もともと、冒頭は主人公のPMSの波が頂点に達した直後の場面からはじめたいと考えて、何パターンも書き直していたんですが、あるとき、梅ヶ丘のバスロータリーの隅で路面に横たわっているリクルートスーツ姿の女性を目にしたんです。近くのスーパーの店員が声をかけていて、警察官がやってきて、多くの人は足を止めずに駅へ歩いていて。そういう光景を反芻しながら、この映画はまず街角にキャメラをむけて、ふだんなら見逃してしまうかもしれない彼女のような存在を発見するところから始まるんじゃないか、というように想像しました。となると、急には顔を撮れない。現実でも、ロータリーで突然顔の目の前で撮り出すなんてあり得ないし。それで、警察に声をかけられて体を起こす、その流れであれば自然と彼女の顔が見えてくるから、ト書きもそういう書き方をしていました。最初は「女」で、顔が見えてから「藤沢美沙」と。

──『月刊シナリオ』に収録されている脚本を読むと、「涙でメイクが崩れている」と書かれていますが、じっさいに映画では藤沢さんが泣いているのかどうかはっきりとわかりません。雨が激しく降っているというのもありますが、カメラも顔にそこまで寄らない。

三宅 バスに乗れない状況、いつもなら乗れるはずの流れに今日は乗れなかったという、その日のからだの状態を捉えることが重要だと思っていました。あとは、こう言ってはなんだけれど、その後のシーンで顔がはっきり見える瞬間はやってくるから急ぐ必要もないし、メイクが崩れている顔が見せ物として面白いかというとそういうわけでもないしという、特に悩まない判断でした。

──そのように画面はゆっくりと藤沢美紗という人物に迫っていく一方で、大胆にナレーションが彼女の状況を説明しますよね。

©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会

三宅 はい。この映画をつくる以上、まずはPMSをできる限り、と言ってもできる範囲は限られているんだけど、なるべく誤解なく説明することが重要でした。ナレーションはときに野暮にもなるけれど、まあ内容や声次第だし、ともかくもっと大切にしているものがあった、ということです。それと、はじめは心の声として響くしかなかった声が、やがて目の前の人との会話として聞こえ、最後にはプラネタリウムで多くの人に届くという流れは、映画表現としても筋が通ると考えましたし、「聞く映画」としてスタートすることで終盤の夜のノートもより耳に入るのではないか。というのは後から考えた理屈で、出発点は、現場中にお二人の声が素晴らしいと何度も感じ、もっと声を聞きたいと思って、それに素直に従ったというのが大きいです。

──冒頭はナレーションとともに音がとても印象的です。物語世界の音が寄せては返すように響いたり、消えたりします。

三宅 じつは雨音ではなくて波の音からはじめています。はっきりとわかる前に雨の音に変えているので、気づかれないようにしているんですけど、音響も音楽も波というのはスタッフ間のキーワードとしてありました。

──山添くん(松村北斗)も背中を映すところからですよね。

三宅 たしかにそうですね。藤沢さんと同じように、彼は一体どういう人なんだろう?と迫っていき、徐々に見えてくるという流れを意識していたのだと思います。現場でも顔は撮らなかったですね。

──『きみの鳥はうたえる』(2018)では、たとえば石橋静河さんだと顔をどんっと映すところから登場させていますが、『夜明けのすべて』はそのように人物を捉えはじめることはほとんどありません。これは三宅監督の映画を撮る意識が変わってきたということなのでしょうか?

三宅 作品にあわせてだと思います。『きみの鳥はうたえる』では、演じたのが彼女たちだったからこそ生まれた意識ですね。黙って聞いている顔に現れたり、消えたりするものをじっと見つめるのが面白いなあというのを撮影序盤で発見して、撮影順で言えばその後に撮った石橋さんの登場場面を、これはこういう映画ですというつもりでクロースアップを撮りました。今回は、印象が少しずつ変わっていくことがこの映画の面白さになると思っていたから、藤沢さんも山添くんも、まだよく見えない存在、でも気になる存在として登場してきたんだと思います。

──次に山添くんを捉えるときも背中からなんですが、とても不思議な場所にいますよね。暗い屋内と明るい屋外のあいだに座っている。

三宅 山添くんの立場になって考えて決めた場所です。みんなとは食事をとりたくない、じゃあどこで食べるのか。作業場は精密機械があるから飲食はできない、便所飯のような狭いところも彼は選べない。それで、あの階段下であれば、外に開いているから風を感じられるし、暗さがやや安心できるかもしれないし、彼の気持ちに矛盾しないだろうなという判断です。

──栗田科学に馴染めていないということを暗に示しているような場所でもありますよね。

三宅 そうそう。

──彼の顔が見えるショットは栗田科学の場面でもいくつかあるわけですが、はっきりと山添くんの顔が見えた気がするのは、部屋で渋川清彦さん演じる元上司とビデオ通話をした直後の表情でした。

三宅 そうですね。栗田科学では自分の居場所はここじゃないというふうに振る舞っているし、病院でも先生や恋人の前では無理している。元上司と会話をするときもエアロバイクに乗って、前の自分であろうとしている。そうやって「演じている」状態から降りた、一人のときの彼の顔がようやく現れるのが、ご指摘のとおりビデオ通話後ですね。撮影の確か二日目でしたが、「ああ、この人をこれから撮っていくのだな」と感じたことを思い出しました。撮影前に何度かお会いしていても、役の顔になるのはやっぱり撮影現場で、はじめて目にする彼の表情に少しどきどきしました。

──仕事を終えた後の各々の孤独が見せられるなかで、それが少し変わるのが山添くんが発作を起こした後の場面だと思います。風が吹くなかで山添くんの背中を追いはじめる藤沢さんの姿は、冒頭でお話しくださったこの映画の姿勢と重なる気がします。

三宅 藤沢さんは、はじめは社長に言われたからついていくわけですが、次は彼女自らの意思で動く。そういうシナリオで、ここで追うか追わないかで彼女たちのその後の人生はまるで変わってくるんだな、と自分なりに読みました。ターニングポイントのひとつとして、かなり重要な場面になるぞ、と。そこで僕の仕事は、彼女の意思という目には見えないものををどう撮るかですが、ここは顔ではなく、立ち止まって方向転換する、ターンするというアクションとして撮った、ということです。テイク1でいい風が見事なタイミングで吹いてくれて、テイク2は吹かなかったのを思い出しました。

──それまで山添くんの部屋は薄暗いわけですが、藤沢さんが髪を切りにくる場面では明るいですよね。藤沢さんがカーテンを開けるカットがとても好きです。藤沢さんが部屋に入る瞬間を撮らないというのも軽やかな印象を生んでいますよね。

©瀬尾まいこ/2024「夜明けのすべて」製作委員会

三宅 玄関に上がる瞬間は書いてもいませんが、実は居間に入るところは撮りました。暗い部屋にお邪魔しますと入ってきて本棚の写真を見たりするような場面だったけれど、編集の大川さんと話して、いきなりカーテンを開けるショットに繋いだほうが、藤沢さんが突然やってきて、バリカンまで取り出して、というあのリズムがより生まれるだろうと考えました。ちなみに、撮影はナイターでした。どういう経緯でそうなったか理由は忘れましたが、夜の方が光をコントロールできるし、音環境もいいということがあったかもしれません。僕が事前に伝えていたのは、ここは絶対に晴れの光で撮りたいということ。それまでは陰が多い部屋に、ここで初めてぱあっと光が入ってきてほしい、と。

──カメラもそれまでよりかなり引いているように見えました。どのようにあのポジションを見つけられたのですか?

三宅 縦に長い部屋なので、マスターショットの方向としては大きく二択、玄関側か寝室側のどちらかが背景になるわけですが、玄関側が映る方向を選びました。そこから先の厳密なポジションやフレームの決定は月永さん(撮影)です。おそらく、二人の動きを邪魔しないというか、二人だけがあの真ん中の居間にいるような距離感を選ばれたのではないかと思います。テーブルが手前にあって、向こうが舞台のようになっていると僕は感じました。

──そんな藤沢さんがいる分、やはり芋生悠さん演じる山添くんの恋人が部屋に入らないことが際立ちます。

三宅 山添くんが玄関外にでて別れ話をする場面もある稿までは書いていましたが、撮影稿になる前の段階でカットしました。キャメラが室内に留まればいいのかと気がついて。また、翌日の山添くんの会社での顔を見れば、昨晩の別れ話がどのようなトーンだったかも想像の助けになるだろうと考えました。

──どこか踏み込めない、あるいは踏み込み方がわからないでいる彼女の存在が、誰もが上手に人に寄り添えるわけではないという、ある種栗田科学の外にある広い世界を感じさせてくれている気がします。

三宅 恋愛関係の場面を撮るときは、自分の恥ずかしい話を披露するくらいしか僕に手立てはなくて、そんなの聞いてもなんにもならないよねとは思いつつ、自分の経験や周囲のカップルたちを振り返って本人たちに話しました。あの年齢のエリート同士のカップルは、競争意識やライバル意識で高め合うことがリスペクトや幸せになっていて、でもそれができなくなったときに、二人を支えるかわりのものがうまく見つけられなかったんじゃないかな、という話。撮影当日、狙いとは違って雨が降ってしまったので、録音の川井さんと「ここはウェットに流れすぎない方がいいよね」という話もしたりして、彼女に僕から具体的になにか話した気がします。結果的に、芋生さんの姿勢や声は、ある種の清々しい決意に満ちたものになった。だからこそ、山添くんの無言の表情にあのようなものが浮かんだと思います。

──『ケイコ 目を澄ませて』(2022)のインタビューでも似たようなことをお聞きしたんですが、この別れ話の場面の気まずさもその後の場面に尾をひかないように感じました。

三宅 映画を見るとき、はじめは見えるものしか見えないんだけど、途中から僕たちは、さっき見たものの記憶とともに見えないものも同時に感じながら見ることになりますよね。山添くんたちの別れ話の翌日の勤務場面では、「昨晩に別れの会話があって心になんらかダメージがあったとしても、でもそれは翌日の職場では切り替えるんじゃないか」というような話は松村さんとしました。もしその勤務場面だけを見れば、山添くんに昨晩なにがあったかなんて一切わからない。現実だとそうなる。でもこれは映画だから、僕ら観客は昨晩の出来事を少し見ているので、この場面を「いつもどおりを演じて働こうとしている、昨日なにかあった人」として見る、ということになる。いわば、見えないはずの心が見えるようになった状態になる。正確には、わからない心の動きがそこにあると知る状態、それをもっと知りたいという状態になる。そうやって、見えないものを知ろうとするところにたどり着くために、観客には見えない部分を「見えない」という形で明示して、ある時点でついにそれがアクションとしてグイッと立ち上がってきて目に見えるようになったり、あるいは不意のアクションがそれを裏切ったりするのが、たぶん説話の面白さなのかなと思います。まだ全然わかってないけれど。

──別れ話と並行して見せられる藤沢さんの転職相談の場面にもその話は繋がるかと思います。友人に「私には想像つかないからさ。仕事やめて、母親と暮らすとか」と言われたときの藤沢さんの表情の曇りはすぐに喫茶店の店員が来るので一瞬しか見えない。

三宅 喫茶店のようなパブリックな場でふとプライヴェートな顔が垣間見える一瞬があの場面にはありますよね。人はいろんな顔を持ちながら社会を生きていて、あの喫茶店でもいくつかの顔が見える。そして僕ら観客はあの時点で、藤沢さんの見えない部分、心の状態を想像することも少しずつ可能になっている。それがどう表出するのか確かめられるように、人が出入りする状況を彼女の周囲に用意したような気がします。今考えるとですが。

──そうした複数の側面、山添くんのセリフにあるようにどっちも本当の顔が捉えられているからこそ、三宅さんの映画の人物たちは嘘がない人に見えてきます。

三宅 たしかに。さっき隠しているとは言ったけれど、なにかを隠している顔というよりも、その都度彼らが一番正しいと思った顔をしているわけだから、どれもその瞬間は本当であると言ったほうがいいのかもしれません。今話をしながらふと浮かんできたんですが、オフィスを定点的に映したショットを並べた場面を思い出しました。朝、昼、夕方、夜、同じ場所だけど、光の当たり方で空間が全然違って見える。同じように藤沢さん、山添くんの新しい顔もさまざまな光のしたで違う面が見えてくる、そしてだからこそまだ知らない面が他にもあるだろうと思えてくるのかもしれません。

──顔を撮るまでに時間をかけるという話に戻ると、他の人物たちも顔から撮ることは避けていますよね。たとえば光石研さん演じる栗田社長もロングショットの奥の方で登場します。

三宅 実は、撮影前のプランでは、序盤で社長ら全員の単独ショットを重ねておこうと考えていました。誰がその後キーになるかわからないくらい顔を等しく捉えておけば、後からグループショットになっても、主人公以外の人物もちゃんと立って見える、みたいなことがあります。ただ、現場をやっていくうちに、時間的にそのショット数を撮るのは厳しいと判断して、別のアイデアとして、そもそも主人公をあまり立たせないようにその場にいる人たちのなかでまるごと同等に撮れば1つのショットでいけるかもしれない、と考えました。誰が重要かわからないから今のところ全員重要ということで、というと都合がよいけれど。

──まずは場所があると。

三宅 そうです。

──グリーフケアの場面も渋川さんや光石さんから見せずに司会の男女を画面の中心に置きますよね。

三宅 渋川さんや光石さんの単独ショットからでもシーンをはじめられるけど、そうしてしまうと、それだけで終われちゃうというか、カメラを引く必然がなくなってしまいそうかな、と思います。引くと全体を見せることはできるけど、そのときには二人がよく見えなくなってしまうから。結局、順番なのかなと思います。この場面で見たいのは彼らだから、どこにいるんだろうというところから見つけていく流れが素直かなと。やはり見たいものに徐々に近づいていくということなんだと思います。

──なにより顔を撮られない人として斉藤陽一郎さん演じる栗田社長の弟がいます。

三宅 そうですね。もう失われたものがはっきりと見えるというのはこの映画では違うので。斉藤陽一郎さんの声と語りに耳を澄ませて、彼の存在に触れることこそが重要で、顔を理解することは重要ではないと思いました。それに、やっぱり陽一郎さんのあの声と話し方には登場人物が必ず宿るというか、弟さんは本当に天文を愛していたんだなぁということなどが十分伝わるので。

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