10/7 「つま先で歩け/聖なるモーターの音」

結城秀勇

『翡翠之城』趙德胤(ミディ・ジー)。粒子の粗い、ギラついた色彩と深く沈む黒を持つ画。ともすると悪趣味に陥りかねない画面づくりだが、カメラの向かう先が政府軍とKIA(カチン独立軍)の衝突が繰り返される翡翠の採掘場であるとすれば話は別だ。まるでアフリカのダイアモンド採掘場のような、かつてのアメリカのゴールドラッシュのような、法の隙間で一攫千金の夢を見る者たちの、硝煙と砂埃が舞うギラついた色彩のノワール。
土の中には翡翠が埋まっている。飯の中にはマラリアが潜んでいる。兄と弟の間には音信不通の16年間が横たわっている。アヘンの塊の中には一時の快楽とそれに裏打ちされた恐怖が眠っている。それら潜在的な可能性や危険や闇や恐怖は、劇中で地表へと掘り起こされることはない。マラリアは監督の身体を蝕むが、しかし「発作が起きてないときは自分がマラリアにかかっていることを忘れる」。主人公である監督の兄に今回の採掘場を教えてくれた男はこう忠告する。「政府軍とKIAの間をつま先で歩け」。それはおそらく武力衝突の危険を回避するためだけの助言ではない。翡翠を掘り当てるか否か、政府軍に拘束されるか否か、麻薬で身を持ち崩すか否か。すべてはつま先立ちで通り抜けねばならぬ細い道の上にある。

金彦魚店で秋刀魚づくし定食。なにも海のない市に来て魚を食うこともあるまいという気もするが、芋煮やそばやラーメンに飽きたという方にはこんな選択肢もあります。

『機械』ラーフル・ジャイン。インド繊維産業の劣悪な労働環境をフォトジェニックな映像とドルビーアトモス仕様にミックスした重厚な音響で描く(もちろんこの日の上映はアトモスではなく5.1ch)。本来、もうちっとガンガンくる音響の作品なのではないかという印象。
後半、あまりにもすんなりと資本家vs労働者という構図に作品が収束してしまうので、タイトルの「機械」が意味するのは労働者たちがまるで機械のように搾取されすり減らされている、くらいのものなのかなという気はする。あるいはあの古ぼけた機械たちは、労働を時間あたりの賃金へと換算可能なものへ変えた原因として、資本家側に与するものだと考えるべきか。だがむしろこの作品のカメラの距離感はあの古ぼけた機械たちへの親しみすら感じさせる。連帯すらもたらさない分断された労働、「おれが休めば他の人間が雇われるだけ」の交換可能な労働、そんな孤独な作業のかたわらであの機械たちだけは朝も昼も休みなく稼働し続ける。死んだように労働者たちが眠る休憩時間(なのか?)にも、彼らの駆動音は子守唄のように鳴り続ける。
だからもし労働者が自分の肉体を機械になぞらえるのだとしたら、それはたんに自分を人間以下の存在だと卑下することではない。彼ら労働者たちが組合を持てないのは、もっと言えば彼らが労働者階級を形成できないのは、あの厚顔無恥なクソ野郎の経営者のせいだけでもなければ、そういう存在を許す経済格差のせいだけでもない。家族を遠い故郷に残し、同僚とはつまらない対立関係にあり、経営者なんて名前も顔も知らない。そうして徹底的に孤立化させられた労働者が、もし階級のようなものを形成しうるとしたら、その第一歩はまずあのおんぼろマシンたちと連帯することではないのか。少しだけカラックス『ホーリー・モーターズ』を思い出す。

『キューバのアフリカ遠征』ジハン・エル・ターリ。チェ・ゲバラのコンゴ独立よための秘密支援からネルソン・マンデラの解放まで、「四半世紀と一年と一日」に渡るキューバとアフリカ諸国の独立運動との関係が描かれる。CIAから革命軍のメンバーまで東西両陣営にまたがる大勢の証言者による前後半に別れた長尺作品だが、おそらく劇中でも指摘される「キューバとアフリカの人間に共通する陽気さ」のせいなのだろうか、それほど構えずに気楽に見れた。だがそれにしても、レーガン就任以降に主要なプレーヤーとなる政治家・官僚たちのなんとも悪ふざけとしか思えないキャラクターはなんなのだろうか。「キューバ軍の派兵数を調べるのは簡単だ。衛星で野球場の数を数えればいい。あいつらは一定数の軍人あたりひとつの野球場を建設する」にはさすがに笑ってしまったが。

香味庵の前に、すずらん街から一本入ったところにあるYOROZU屋にて麻婆豆腐と特製サンラータン麺。ガッツリ四川系の麻婆豆腐が食べられる数少ない店。なんだかんだで帰郷すると必ず食う味。