『ロスト・シティZ 失われた黄金都市』

失われない新しさ

高木佑介

 誰に促されたわけでもないのに、ジェームズ・グレイが描く人々は自分たちの企みや望み、あるいは他者が抱いている企みや望みをしばしば口にする。告発や告白という行為として明確に顕れずとも、組織を挙げての企みなり計画なりから、もっと身近な、夢や野心と呼ぶほどでもない個人のささやかな望みまで、決して少なくはない人々がそれを誰かに向けて話そうとする。「実はあなたと会えるように私が両親に頼んだの」「次に殺るのはあいつの親父だ」「ボビー、お前に話したいことがある」「父さんはまたあのジャングルに戻りたいと思っているんだろ?」。出産前に書いておいたという夫に宛てた遺書を読み上げる者もいれば、宇宙の果てにいる父親へのメッセージを雑音が一切聞こえない無響室で語る者もいる。それは単に人々が雄弁だからというわけではない。しかし、遅かれ早かれ彼ら彼女らは話し始める。そしてジェームズ・グレイは、ときおり表出するそうした人々の話し声に耳を傾け、そこで織り成されていく関係性の一つひとつの機微を、光と闇の明暗のあわいでつぶさに捉えようとし、確かに捉えてきた。ブルックリンの暗い路地裏や侘しいアパートの一室、あるいはブライトン・ビーチの閑散としたボードウォークの光景の手前には、いつしかさまざまな人々の企みや望みが解きほぐし難く交錯していて、そこではいつだって誰かが傷つき、誰かが去り、誰かがそのあとに残されてきたのである。そのとき、私たちの耳には、もはや誰かの企みでも望みでもない、ぽつりと呟かれた最後の言葉が残響のように響いてくる。「愛しているよーー俺も」「泣いているの?ーー幸せなだけさ」「私は生き、愛する。以上」。
 そうした事態は、たとえこの『ロスト・シティZ』の原作がデヴィッド・ロウリー『さらば愛しきアウトロー』(2018)やスコセッシ『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』(2023)といった作品にも題材を提供しているデヴィッド・グランの手になるものだったとしても、さほど変わらない。豪奢なオペラハウスを備えたゴム農園を営むゴンドリス男爵(フランコ・ネロ)も、地図作成のためにアマゾンを初めて訪れた探検家パーシー・フォーセット(チャーリー・ハナム)に、「手は貸す、ただし何事も変わらないように計らえ」と、自身の望みを口にすることを忘れない。その功績によって自身が「上」に行くための企てでもあった探検家の旅は、周知の通りやがて古代文明の探求へと変わっていくのだが、グレイの眼差しは、古代の遺物だという壺や鍋にはさして注がれることはなく、言うまでもなく探検家の妻ニーナ(シエナ・ミラー)からの手紙を助手のコスティン(ロバート・パティンソン)にわざわざ声に出して代読してもらいなどもする探検家とその一行の姿の方こそを、揺らぐ炎の明かりや密林の木漏れ日の中で捉えようとしている。そうこうしているうちにオーストリアの皇太子が暗殺され、世界は着実に変わっていく。戦火の最前線の塹壕の中で霊媒師から自身の望みを言い当てられた探検家が再びアマゾンに戻る頃には、ゴンドリス男爵の自慢のオペラハウスも、かつて男爵が望んだこととは裏腹に、あっけなく朽ち果ててしまっている。そして、ここまでことあるごとに何かを幻視してきた探検家が、インディオたちに担がれて篝火が灯る暗闇の方へといよいよ運ばれていく瞬間に幻視するものは、「A Tale of Deadly Obsession in the Amazon」という副題を持つ原作で語られている史実に反してそれほど希求しているようにも見えなかった古代文明の光景ではなく、前出したように出産の前に夫に宛てて書いたという遺書を読み上げる妻の姿なのだ。「あなたはあの詩を忘れないで。精一杯手を伸ばしてこそ、天国に近づける」。彼女が遺した最後の言葉となったかもしれないその言葉を聞き届けたのちに探検家は息子とともに消える。しかし、探検家は何に執着しどのように消えたのか、という点だけがとかく語られがちなこの映画が、他でもないニーナの姿を捉えるかたちで終わっていることだけは、決して忘れてはならないだろう。消えてしまった誰かの余韻を残しながら、キャメラは屋敷の階段をゆっくりと降りてきた彼女とすれ違い、火が灯る暖炉の上の鏡越しに、ジャングルの中へと去っていく彼女の後ろ姿を見送るのである。確かに、ジェームズ・グレイは、いつも同じような事柄を繰り返し撮っているのかもしれない。だが執拗に繰り返される反復のうちには、新しさそのものもまたいささかも失われずに回帰してくるということを、この映画作家は証明し続けている。


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