特集上映「知られざるサッシャ・ギトリの世界へ Bonjour, monsieur Sacha Guitry」
濱口竜介×坂本安美『デジレ』アフタートーク 2023/3/18@シネマヴェーラ渋谷

坂本安美(以下、坂本) 濱口監督にお声がけをしたのは、やはり濱口監督の作品における話すこと、言葉の大切さ、日本で映画を撮っている監督の中でも果敢にそれに挑戦していらっしゃっているので、もしかしたらギトリの作品、お好きじゃないかな、と思ったからです。ギトリはどうでしょう?

濱口竜介(以下、濱口) この特集も半分以上は通っていまして、嘘みたいに面白いというのが、まずごくごく単純な感想です。こうやってまとめて見ることによって、ギトリの手癖というか、身体のありようみたいなものが直接伝わってきて、それが特集で見られるのは贅沢なことだと思っています。

坂本 約三十三本、記録映画も撮っていますが、元々は映画にかなり批判的でして。映画が誕生した頃はまだ十歳でしたが、それから演劇人になって、当時新しい芸術、芸術ともみなされていなかった頃に映画が出てきて、やはり演劇を侵犯していくのではないかという恐れもあったと思います。30年代に映画がトーキーになってから、ギトリが深く映画に魅了されていくのが、こうやって特集で追って見ていくと伝わってくるかと思います。ギトリが初めて映画用に脚本を書いた作品『幸運を!』も見ていただいたということですが、いかがだったでしょうか?

ジャクリーヌ・ドゥリュバック

濱口 こんなに幸福な映画があっていいのかというくらい幸福ですよね。『デジレ』にも出演しているジャクリーヌ・ドゥリュバック、彼女は実際にギトリの三番目の妻ですが、いちゃいちゃが全開で、『デジレ』も含めて二人のありようが本当に素晴らしいです。

坂本 その掛け合いのスピード、とくに『デジレ』では、やはり30年代のハリウッド映画を見ているかのような掛け合いですよね。

濱口 そうですね。まだ(新刊は)発売はしておりませんが、私が大学院時代に直接授業を受けていた梅本洋一さんのギトリについての本を読んでいて驚くのは、ドゥリュバックが役者としては決して評価が高くなかったということです。ギトリの映画くらいしかちゃんと映画のキャリアを残していない。これは本当に驚いてしまうし、その評価に対して異議を申し立てたい。恐らくこれはギトリ作品全体に言えることだと思いますが、大衆演劇のようなものをベースにしていて、演技の方向性としてもかなりハッキリとした意識的な演技をしていますよね。心理的なリアル、現実味みたいなものを表現するわけではまったくなくて、役者がある種ドラマのコマというとあれですけれど、そういうものに積極的になっていくタイプ。でも確かにジャクリーヌの演技、とくにギトリとの掛け合いは、むしろ超絶技巧と言ってもいいくらいに、二人のあいだの間のないしゃべり方、そのセリフの互いへの渡し方が驚くべきものだと思います。

坂本 デュエットしているみたいですよね。『サッシャ・ギトリ 増補新版: 都市・演劇・映画』で、各作品の解説を元梅本洋一ゼミやNOBODYの方々が参加して書いてくださっています。松井宏さんが『幸運を!』の作品解説でも書かれていたように、ドゥリュバックのインタビューを見ると、生活がそのまま映画になっていたと言っていて、ギトリの家自体が演劇空間になっていたらしく、どんな生活だ!とは思いますが、先日クリス・フジワラさんがこの特集のトークショーでお話してくださったように、ギトリが観客としてまるでそこで見ているかのように演劇的に生きている人たちが映っている。

『役者』

濱口 もう一本、本当にオススメしたいのは『役者』です。サッシャ・ギトリのお父さんであるリュシアン・ギトリをサッシャ・ギトリが演じています。このリュシアン・ギトリは『祖国の人々』を見た方はおわかりだと思いますが、サッシャ・ギトリ自身によく似ている。自分とほとんど同じようなペルソナを持った人物を、ある役者が演じる。しかも、稀代の役者を稀代の役者が演じるということ。役者自体はどこかしら嘘を生きていく存在だとは思いますが、その嘘を実際に何重にも生きられてしまうと、役者が役者を生きるというある種の真実みたいなものが浮かび上がってきて、これがギトリの人生、しかも生まれる前からの人生が集約されているような気がして、『デジレ』と並んでとても好きな作品です。

坂本 最初は伝記映画のように、生い立ちが語られていくのかなと思いきや、だんだん本当にサッシャとリュシャンが交錯していく。楽屋のシーンでは驚くべきものがありますよね。もう区別が付かなくなって、しかも演じている役自体も入ってくる。ギトリは一本一本撮っていくことで、映画を自分で発見していった。元々はアマチュアでありながら常に第一線で活躍している技術者を周囲に置いて、そこからどんどん学んでいって、最後の方になってくると、本当にこんなこともするのか!というような色んなことに挑戦している。

リュシアン・ギトリ

濱口 今上映された『デジレ』はギトリに入っていくうえで一番わかりやすい映画だと思っています。というのは、タイトルですよね。「欲望する」という意味のフランス語の動詞が過去分詞になったものがデジレ(désiré)。これは英語と一緒で二つの使い方があって、一つは受動態。「欲望される」、ギトリ演じるデジレが女主人から欲望されるということでもあります。もう一つの使い方としては完了形。気がついたらもうすでに「欲望をしてしまっている」状態。これは『デジレ』だけではなくて、ギトリの映画作品の登場人物は全員気がついたらなにかを欲している、もしくは欲望の対象になっている。欲望の中に巻き込まれてしまっている。これがギトリの映画の根本的な構造だと思います。ギトリの映画においては、大体最後に欲望が勝利する様が描かれています。これが一体どのようにして可能なのかといいますと、初期段階としてみんな嘘をつくわけですよね。社会からは必ずしも認められないようなタイプの欲望であったとしても、それが密かに叶えられるようにまず嘘をつく。でも嘘は真実とかけ離れたものであるからその代償として、通常ならその人は社会との間に葛藤を持つはずなんです。本来なにか苦しんだり、どうやってこの状況を解決したらいいのか悩んだりするはずが、ギトリの映画では最終的に欲望が嘘みたいに叶えられてしまう。それはどうやって起こるかというと、偶然叶えられてしまう。『デジレ』以外の映画においても、たまたまお互い夫と妻が同じ日に浮気をしていたとか、たまたま夫も妻もお互いを殺そうと思っていたとか。『デジレ』では、たまたま同じ部屋に寝てしまう。それまで隔てられていたものが通じてしまうという偶然が味方する。欲望とは本来様々な暴力性を孕むものだと思うんです。誰かから奪ったりとか、もしくは誰かを騙したりとか。でもギトリ映画ではそういうものが雲散霧消してしまう。その欲望が本来含んでいるような暴力性が、偶然によって消えていってしまう。ただ、この構造は危うくご都合主義に近づいていくことでもある。このことは恐らく二つのレベルで許されるようになっていて、一つは観客が、なんだったら俗悪な欲望そのものと結託をしているということです。観客自身が、それが起きたらいいなと思っているからこそ、ご都合主義的な物語が許容されてしまう。ただ、これがギトリの評価が歴史上揺れ動いた理由というか、映画としてどこか貶められているとこの場では言ってしまいますけど、その理由は恐らくこの構造が第一に作用していると思います。つまり、その欲望からある程度距離を取ることができるような知的な観客からしたらものすごくくだらないもの、馬鹿馬鹿しいものにしか見えなかったのかもしれない。しかし、このことは次の点とも絡んでまさにギトリ映画の価値になっているし、そのことは当時の価値観から離れた現代だからこそ見えやすくなっていると思います。ギトリの当時の批判としてよくあったらしいのは、演劇を映画にしているということです。

坂本 テアトル・フィルメ(théâtre filmé)と言われていました。

濱口 これは演劇的な映画に対する批判の常套句ですが、要するに映画にはそのメディア固有の魅力があって、それを感じる視覚、もしくは運動を捉えてそれを編成していくサイレント映画の美学があり、基本的にはトーキーになったとしても、その部分を引き継いでいたり、その部分に自覚的であったりした作品が「良い映画」とされる状況があった。ギトリはその正反対ですよね。後々また触れると思いますが、声や言葉がギトリ映画の中心になっている。だからこそ非映画的なものとして貶められ続ける側面がある。けれどここではっきりと言いたいのは、演劇を映画にすることは誰でもできる。これはどんなに才能がない人でも、演劇に対してカメラを据えれば、それだけで演劇を映画に収めることはできたと思います。ただ恐らく演劇として、演劇のようにというか、それ自体演劇として映画を撮ることは誰にでもできるわけではない。それはギトリが成し遂げたことだという気がしています。
ギトリの映画を見ていると毎回、スタッフ紹介やキャスト紹介があります。これは作られたものであって私たちがそれを作っています、ということを明言している。作り物であることを明らかにするのはどういう意味を持つのか。おそらく基本的には演劇の体験に近づけるということだと思います。先程もお話に出たNOBODYで批評も書いている松井宏さんに、「演劇の肝って何なんですか」と聞いた時に、「それはフラジャイルである(脆くある)ことだ」と言っていました。「王様は裸だ」、みたいな真実、あの人は演じている、あの人は嘘をついている、ということを指摘するような観客がいたら簡単に壊れてしまう脆さそのものが演劇の核心にあって、観客の参加があって初めて演劇は成り立つものだと話をしてくれました。ギトリがやっていることは、まずそのような演劇的なしつらえを整えていくことだと思うんですよね。先程も言ったようにギトリ映画の物語自体が「信じがたい」ものを積極的に導入しているし、そこでの役者の演技、誰よりギトリ自身の演技が、演技であることを一切隠す気配がない。心理的なリアリズムとは大きく距離を取っている。演技でどれだけ悲しんでいても、カットがかかったら、すぐご飯を食べられそうな感じですよね。そのことは観客に馬鹿にされてしまう要素でもある。演劇的な演技は、映画の演技の中でも非常に貶められているタイプの演技であって、でもギトリはそれを堂々とやっている。

坂本 いわゆる自然主義からはまったくかけ離れていますからね。

濱口 そうなんです。ただ、何よりこの演劇で鍛えられた、超人的なまでのギトリの身体を見る・記録するということは、そういうものを超えていく。一例として見ていて驚くのは、息継ぎがほとんど見えないことです。これは異常なことで、ミシェル・シモンとか、ジャック・ボーメルとか、やっぱり息継ぎがどうしたって見える瞬間がある。それが演技の優劣に結びつくわけではないですけど、ギトリの息継ぎを確認することは極端に難しい。吐きながら吸っているんじゃないかというくらいに、息継ぎが隠されている。イヤホンで注意深く聞いて、セリフの末尾に一瞬確認できるくらい。その繊細な息遣いがどうやったら成立するかというと、そもそも吐く息の量そのものも調整しているからです。吐く息そのものがある一定の量に保たれているからこそ、大きく息を吸わないで済む。常に息を密かに取り込みながら、その息が決してなくならないよう吐き続けるサイクルをやっています。これは次に来るセリフがどの程度の呼吸量が必要か完全に理解しているから、そういう呼吸をずっと続けられるのだと思います。そうすることによって、切れ目のないひと連なりの言葉が生まれ、そのことで自動機械であるカメラの回転にも匹敵するような、言葉に動かされていく自動的な身体をギトリは獲得する。これは見ていて、ギトリ自身が間違いなく気持ちいいはずなんですよ。めちゃめちゃ気持ちよくギトリは喋っている。話すこと自体の快楽に浸っている。そして、その身体がカメラに記録されたものを見ることによって、観客もまたその快楽に巻き込まれていく。この身体の存在が結局、ありとあらゆるご都合主義、ありとあらゆる演劇性、それを許容させてしまう。発話の一つ一つに、彼が役者として演じてきた歴史が結晶している。そのことを観る喜びは本当にもう至福としか言いようがない。

坂本 そうですね。ギトリは本当に毎日のように映画を撮って、その日の夜は舞台に立っていた。そのときの舞台で常に観客席の反応を身体で感じながら、そこのレスポンスの中で演技を磨いていくことをずっとしていた。たとえば『デジレ』は舞台で公演した戯曲が映画になっていて、セリフもバッチリ入っている。で、そのセリフを今度映画でどう映すのか。濱口監督がおっしゃったように、ただ単に演劇を映画にしたわけではない。そこがまたギトリのある意味リュミエール的な部分というか、リュミエールが示した「カメラを向ければ既にそこに演出がある」ということを、そのままやっているのがギトリかなと。

濱口 そうですね。そのときに見捨てられてはならない部分はスタッフの関わりだと思います。自分もこれからそうしたいと思うくらい、スタッフの名前と顔がいちいち出てきて、みんな幸せそうに仕事をしているように見える。

坂本 とても楽しかったそうですよ。

濱口 やっぱり!そういうところがちゃんと示されているのは、スタッフの働きに対しての心からの敬意だと思います。見ているとアングルやフレームサイズが決して多くはない。例えば坂本さんの顔を一部始終撮って、僕の顔も一部始終撮って、その後に編集でカットバックをつくるというような単純なやり方をしていると思います。でも、これは怠惰な監督がするような、単にだーって撮って、ばーっと繋いでしまうというようなことではない。恐らくこうしなくては役者の身体がその真価を発揮することがないとギトリは理解していた。『デジレ』において、鏡の前でギトリとドゥリュバックが雇う・雇わないの話をしている時も、間違いなくドゥリュバックの目の前に、鏡にも映っていないけどギトリがいると思うんです。そういう生々しい役者同士の相互作用が起きているのを捉えないと自分の映画は成立しないとおそらく考えている。これも一種の演劇性ですね。役者主体の撮影をするためにスタッフは相当苦労していると思います。食卓の準備の場面では、最初、召使いたちをツーショットで適切なサイズで捉えているのが、食器を用意しだすとスーッと僅かにトラックバックしてテーブル全体を映し出しています。役者の演技をちゃんと見て把握して、ここで役者の演技を見せるのに適切なフレームサイズはどこかというところにスッと動いている。そういうことが積み重なっていき、ときには編集点で、ふっと前の動きが残って感じられることがあります。それ自体は雑味とも言えるんだけど、カメラの都合で演技を分割していないことの証拠でもある。そのリフレームの残滓みたいなものは、役者の動きに合わせて演技を持続的に捉えようとした結果だし、その編集点が選ばれるのは多分そこ以外にないからですよね。その瞬間に表出しているキャストとスタッフの協働関係にも実に心打たれました。

坂本 まずシャンパンかなにかを飲みながら、ギトリが雑談していくうちにだんだん撮影が始まっていくようなのですけど、「君たち動かしたいものがあったら動かしていいよ」とか、その場所にまずはみんなを迎え入れる。ギトリのことが大好きだったミシェル・シモンは瞬間瞬間で演技をするタイプの人なので、『毒薬』の場合は、シモンをお迎えしたんだから必ず全部ワンテイクでいく、と。それでもうシモンはギトリの靴にキスをするくらい感謝したらしいですけど、それはスタッフにとってすごく大変なことですよね。

ジュヌヴィエーヴ・ド・セレヴィル

ラナ・マルコーニ

濱口 そうですね。その時にスタッフにかけられているプレッシャーは、ものすごいものだと思います。けれど、そうでないと撮り得ないものでギトリの映画は構成されています。『毒薬』も本当に面白いですよ。先ほどシモンの息継ぎが多いと言いましたが、それはシモンがやっている自分自身を投げ出すタイプの演技であるからこそ起きることで、どちらかに優劣があるということではまったくない。ギトリが他の役者を撮るときも単なる演劇の演出家ではなく、やはり映画の演出家でしかないような撮り方をしていると思います。

坂本 濱口監督がドゥリュバックのファンだということが判明しましたが、今回の特集の中では、ギトリの三人の妻が出ています。『あなたの目になりたい』のジュヌヴィエーヴ・ギトリも本当に愛らしく、やはり目が良い。最後の妻で、ちょうど戦後にいろいろあって孤独になっていたときに出会ったルーマニア出身の女性ラナ・マルコーニ。彼女に会った時に「君は僕の未亡人になるね」というふうに言ったらしく、本当にそうなってしまった。

濱口 マルコーニは『役者』に出演していて、ちょっとクールですよね。『役者』でも結構キツい役。ドゥリュバックが持っているような愛らしさとはちょっと違う。

坂本 シリアスですよね。戦後のギトリの状況と彼女の存在が、まるでそれこそ偶然に合わさったかのような。今回上映できなくて残念だった『Toâ』という作品があって、客席から彼女が舞台にいるギトリにずっと怒鳴るシーンがあります。まさに舞台の上と向こう側が行き来してしまうような、そういうところまでギトリは見せていた。

『彼らは9人の独身男だった』

濱口 本当に一人一人の人間を見る目が確かというか、その人が持っているパーソナリティーに対して、ちゃんとアプローチをしている。ドゥリュバックのコメディエンヌ的な部分も素晴らしいですし、『あなたの目になりたい』ではジュヌヴィエーヴが彫刻のモデルになり、彼女の美しさ、彼女の良さが一体どうやったら出るかギトリは分かっている。動きまわったり、たくさんのセリフを言うというよりは、彼女がそこにいることそれ自体を肯定しています。マルコーニも、おそらく彼女の中にあるキツさは本当にあると思いますけど、そういう部分こそを魅力的だと感じ、愛しているということだと思います。それは男性にもきっと向けられていて、『彼らは9人の独身男だった』でもそう感じます。

坂本 戦前のトーキーからのフランス映画を支えてきた名脇役が結集されている作品ですね。

濱口 やはり一人一人に見せ場が与えられていて、みんな幸福そうに演技をしているというのが強い印象としてあります。「演じる」ということは、映画の中では必ずしも祝福されるようなことではなくて、映画(カメラ)と相性が良いのは、基本的には「存在する」ということだと思います。演じるとき、役者はどちらかというと存在不安に陥りやすいものだと思います。「これでいいのかしら」とか、「これで自分はちゃんと表現できているのか」「監督のイメージとあっているか」と考えがちなものだと思う。役者というのは常に不安を抱えてスクリーンの中に映っていることが大体だと思いますが、きっとギトリと一緒に仕事をしている人間は、演じることを通じて存在できている。ギトリのある種の肯定みたいなものを受けてそこに存在しているし、何よりギトリの自己肯定力が凄まじい。

坂本 でもギトリは、本当は自信がなかったみたいです。大俳優である父親へのコンプレックスは、この本の中でもかなり書かれていますが、最初の頃は「自分は舞台に立てない」と思っていたみたいです。でもだからこそ役者たちのフラジャイルな部分を人一倍知っていて、まずは全面肯定。『殺人者と泥棒』に出ていて当時まだ新人だったミシェル・セローとジャン・ポワレは怯えていたけど「大丈夫。もしダメだったらもう一回やればいいんだから」と言われて、本当に気持ちよく仕事をしたとインタビューで言っています。

濱口 懐が本当に深い。自分がこの映画に出ていれば成立するということがまずあっただろうし、映画監督としても勘所をどんどん掴んでいったことが後年になるにつれ分かってくる。その自信は、やはりそのまま俳優にも・・・

坂本 そうですね。ただ後年にはやはり体のこともあるし、それこそシモンに任せて自分は出ないで撮る作品も増えていきました。そうやって他者に託すということもきちんとしていたと思います。

濱口 本当に三十三本見ずに語るな、というところに尽きるんでしょうね。

坂本 今回これだけの本数でギトリの特集が組まれたのは日本では初めてです。シネマヴェーラの皆さんに感謝の気持ちでいっぱいです。日本でギトリのことを騒いでいるのが本国フランスの人達に聞こえたのか、ちょうど今年の夏に、プログラムの良さで有名なラ・ロシェル国際映画祭でギトリ大特集が組まれています。トーキー以降の映画の言葉との関係を作品の中で挑戦していらっしゃるのが濱口監督だと思います。ギトリの現代性について、最後にいかがでしょうか。

濱口 一つは、これは欲望の映画であることは何度でも言うべきだと思っています。欲望を語る言葉が非常に画一化してきている現代においてこそ、欲望をどう捉えるかが非常に重要です。『デジレ』では、女主人と男性が無理やり結ばれてはいけないというのもあるし、女主人と召使の関係性もひっくり返せない関係性としてあって、それによってさらに欲望が刺激される。これが面白いのはやっぱりそれが最終的にギトリという一人の人間の中で相争うものがあるからで、『デジレ』の最後、彼は世間的な道徳に沿って自身の欲望をしまい込むようでいて、そのことでまさに欲望を叶えて持続させてしまう。そういう実にアクロバティックな収め方をしています。道徳というのは一般原理として一応あるわけですけど、すべての局面に適用できるわけではない。そこに個別の肉体があって、そこに具わった欲望と社会の道徳が争うところに個別の、倫理的な生を見つけだせるか否かが問題です。自分の身体に具わった欲望抜きに倫理を語ってはいけないということだと思います。それを考えるうえでギトリが大事です。
それと、この場でお話しさせていただきたいのは、私は大学院時代に梅本洋一さんの授業を直に受けていました。実際にどういう映画を作ったらいいかと、悩みが常にあった頃で、そのときに、自分に向けて言われた言葉ではなかったのですが、授業で梅本さんが「今の日本映画は言葉が少なすぎる。成熟した人間が言葉を持っていないということは問題だ」とおっしゃったことがあります。ぼくはそもそもセリフを使わないと脚本を書けないところがあったんですが、梅本さんの言葉で、そのことをすごく勇気づけられました。その言葉の源流にはきっとギトリの存在があったことはいま身に染みてわかってきて、ギトリに対しても感謝を述べたいような、それを伝えてくれた梅本洋一さんにも感謝を述べたい気持ちでいます。

坂本 ありがとうございます。素晴らしいお話を聞かせていただきました。この本は本当に何度読んでも面白い本です。ギトリを知りたいという方にも、あるいはギトリと離れたところで読んでも、例えば「声」や「都市」など、色々な窓口から読める本だと思います。

濱口 もう一点だけ。梅本洋一さんの研究室から生まれてきた批評の団体がNOBODYで、僕も初期からインタビューしていただいたりしていますが、この本はその方たちの仕事が結集する場にもなっていて、教育者としての梅本さんの一つの成果にもなっています。そのことにもとても感動しました。ギトリへの欲望がかき立てられる、という点でも今の我々に必要な一冊だと思います。いつの日か、全作上映があるのを楽しみにしています。


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