『サッシャ・ギトリ 都市・演劇・映画』〈増補新版〉刊行記念 特集

 20世紀初頭から1950年代のパリで、ふたつの大戦を生き、演劇の叡智をたずさえ、サイレントからトーキへの移行期に映画の現代性をいち早く理解し、変革して行ったサッシャ・ギトリは、トリュフォー、ゴダール、ユスターシュ、カラックス、そしてタランティーノにまで影響を与え、年々、その評価が高まっている。その唯一無二の映画作家について日本で唯一の評伝が『サッシャ・ギトリ 都市・演劇・映画』である。著者の梅本洋一が逝去してから10年目にあたる今年、4月25日に同書がソリレス書店より「増補新版」として復刊された。著者によるエッセイ、講演の採録ほか、トリュフォーがギトリに捧げた追悼文、オリヴィエ・アサイヤス、青山真治による寄稿、充実したフィルモグラフィ&全作品解説など豪華な内容となっている。そしてこの刊行を機に今年3月にはシネマヴェーラ渋谷にて日本で初の本格的なサッシャ・ギトリ特集が開催され、クリス・フジワラ、濱口竜介のトークも行われた。ここでは同書の編者である坂本安美によるテキスト、前述のフジワラ、濱口のトー クの再録、そして藤原徹平による書評を掲載させて頂く。

「サッシャ・ギトリ 都市・演劇・映画 増補新版」

「サッシャ・ギトリ 都市・演劇・映画 増補新版」
著=梅本洋一
編=坂本安美
版元:ソリレス書店
https://www.sllpublishers.net/new-book
四六判並製 / p.394
発売日|2023年4月25日
価格|3,600円(税抜)
ISBN|978-4-908435-19-5
Cコード|C3074F

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サッシャ・ギトリにおける演出とは?

坂本安美

「ギトリのスタイルは、何よりも生き方であり、在り方である。」(ジャン・ドゥーシェ)

逸脱する人

 夫であり、同志であった梅本洋一が亡くなってから10年を迎えるにあたり、彼の仕事にあらためて光を当てるためになにができるか、なにをすべきか、仲間たちと相談を重ねてきた。梅本の遺稿をまとめてシリーズとして出すことを検討するも、それはまた近い将来に実現していくことを誓いつつ、まずは梅本の代表的な著書のひとつである『サッシャ・ギトリ 都市・演劇・映画』の増補新版を出すことに決まる。ソリレス書店の衣笠真二郎氏が版元として本企画を全面的に引き受けてくれることになり、そこに梅本の愛弟子のひとりで「Nobody」初代編集長の黒岩幹子が助っ人に入ってくれた。それぞれ他の仕事も抱え、多忙な身でありながら、一カ月に一回は必ず定例会を開き、時に(いや毎回…)ワインを片手に、増補部分についてアイディアを出し合ったり、フランス、日本の識者、関係者の皆さんに協力を要請したり、全体の構成を練ったりしながら、数年かけて少しずつ、少しずつ形になってきた本、その本がようやくこの4月25日に出版された。

 本書の初版あとがきで、梅本が記しているように、1990年の当時、サッシャ・ギトリは日本ではほとんど未知の固有名詞であった。それにも関わらずこの本は渋沢・クローデル賞LVJ特別賞を受賞するなど、梅本洋一ならではの仕事として高く評価されてきた。演劇を専攻し、パリで博士号を授与された後、演劇批評、映画批評をほぼ同時期に開始し、スポーツ、料理、そして建築や都市論についても多くの文章、著書(『映画旅日記 パリ ‐ 東京』や『建築を読む - アーバン・ランドスケープ Tokyo‐Yokohama』など)を遺した梅本洋一は、それら様々なジャンルを自由に横断し、境界をおおらかに逸脱しながら、変化し続ける世界へ視線を向け、その思考を運動させてきた。その梅本がサッシャ・ギトリという存在と出会ったこと、それはどこか必然であったのではないか、この本を何度も読み返し、そしてギトリについて知るようになればなるほどそうした思いを抱くようになる。本書Ⅲ章「語られるべき人」で梅本は、詩、演劇、画家、映画と多くのジャンルを越境し続けたジャン・コクトーや、演劇、映画の間を往来したマルセル・パニョルとともに、ギトリを「逸脱する人」と定義している。「ジャンルを逸脱する人の名を歴史は記述しようとはしない。映画作家でもあり、劇作家でもある人、映画人でも演劇人でもある人を歴史は好んで取り上げようとしない。(…)歴史とは、極めて形体的、内容的なものの連続として捉えられるものであり、姦通物と歴史的主人公を主題として数多くの作品を戯曲と映画として残した者など、歴史が扱うエクリチュールの対象にはなりえない。逸脱者は、歴史の中で、公認された歴史の中で自らの場を失うことになる」。私生活そのものが舞台化され、そしてその演劇からも逸脱し、映画の世界へと入っていったサッシャ。また時代、歴史の中にもサッシャの身体は漂流していく。しかしそうした逸脱者であったことが、まさにサッシャ・ギトリという人物を追うことの醍醐味であり、そして梅本洋一という書き手だったからこそ、その漂流に、その運動の中に入って行き、その人生の、創作の持つ豊かなうねりに身を任せて、本書が書き進められたのではないか、そんな風に想像したくなるのだ。

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特集上映「知られざるサッシャ・ギトリの世界へ Bonjour, monsieur Sacha Guitry」
クリス・フジワラ×坂本安美『幸運を!』アフタートーク 2022/3/12@シネマヴェーラ渋谷

『幸運を!』

坂本安美(以下、坂本) 以前より、サッシャ・ギトリがお好きだとお聞きしていたクリス・フジワラをお迎えして、ギトリ映画の魅力、そしてアメリカ映画との接点などもお聞きできればと思っております。今、皆さんにご覧いただきました『幸運を!』はギトリが1935年に撮った作品であり、同年、この前に『パストゥール』も撮っていますが、1915年に発表した初映画作品『祖国の人々』の後、なんと20年もの月日が経て、再び映画を撮り始めています。何故ギトリはそこまで待ってから映画に戻ってきたのだと思われますか?

クリス・フジワラ(以下、フジワラ) フランスでは1920年代末から1930年代の初めにトーキー映画が製作されており、『パストゥール』(1935)の5〜6年前にはトーキー映画がすでに上映されていました。しかし、ソ連や日本では、『パストゥール』と同じ時期の1935年ごろまで、サイレントからトーキーへの移行を待たねばならなかったことを考えますと、とても興味深いです。それはたんなる偶然だったのか、あるいは映画のなにか普遍的なシンクロニシティと関係があったのか、ということも考えられるかもしれません。ギトリは1930年代の初め、あるいはそれ以前に、「私が映画に求めるのは、演劇ではできないことなのだ」と語っています。つまり彼は、演劇をただ再現するだけの映画を求めてはいなかったのです。
 私たちはそれを『幸運を!』(1935)で見ることができます。まさに作品の冒頭から、映画でしかできないことが確認できます。非常に短い5秒ぐらいのショットが続き、次いで別の人物へと切り替わるのですが、それもまた5秒ほどの速いリズムで切り替わっていきます。それは、純粋に映画的な表現です。
 しかし、ギトリのいわゆる演劇的な映画においても、そうした映画的な表現は行われています。ご存知のように、ギトリは二種類の映画を撮っていました。『夢を見ましょう』(1936)などの、すでに劇場で上演していた自分の戯曲をもとにした作品と、『幸運を!』のような映画用に構想された作品です。『幸運を!』は映画のためだけに作られた最初の作品でしたが、当時、ギトリの父が主人公を演じて大成功を収めた舞台がもとになった『パストゥール』にもまた、そうした映画的な表現が見られるのです。いわゆる演劇映画であっても、作品の作り方、映画の見せ方において、映画にしかできないことがあります。ある意味、ただ映像化された演劇を見ているわけではないのです。映画をそのように作ることも可能でしょうが、ギトリはそれを行うことはしません。ギトリが私たちに見せるのは、登場人物たちの実生活から見た演劇的演出に関するものであり、彼はまるで、登場人物を実在の人物であるかのように、演劇的に生きている実在の人物であるかのように示すのです。

坂本 先ほど『祖国の人々』の話をしたときにも触れたのですが、ギトリの映画では、映画という装置やからくりを映画の中で見せることがあります。『幸運を!』以降のいくつかの作品において、最初にまずギトリが出てきて、「これから始めます。まずは出演者を紹介します」といったように、映画の装置じたいを見せてしまうシーンがあります。『幸運を!』の中でも、そういったシーンが見られるのではないかと思います。たとえば車のシーンで、「前を見てごらん。まるで映画を映しているみたいだろう?」というふうに話しているところなどです。こうしたシーンについてどう思われるか、お話いただけますか?

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特集上映「知られざるサッシャ・ギトリの世界へ Bonjour, monsieur Sacha Guitry」
濱口竜介×坂本安美『デジレ』アフタートーク 2023/3/18@シネマヴェーラ渋谷

『デジレ』

坂本安美(以下、坂本) 濱口監督にお声がけをしたのは、やはり濱口監督の作品における話すこと、言葉の大切さ、日本で映画を撮っている監督の中でも果敢にそれに挑戦していらっしゃっているので、もしかしたらギトリの作品、お好きじゃないかな、と思ったからです。ギトリはどうでしょう?

濱口竜介(以下、濱口) この特集も半分以上は通っていまして、嘘みたいに面白いというのが、まずごくごく単純な感想です。こうやってまとめて見ることによって、ギトリの手癖というか、身体のありようみたいなものが直接伝わってきて、それが特集で見られるのは贅沢なことだと思っています。

坂本 約三十三本、記録映画も撮っていますが、元々は映画にかなり批判的でして。映画が誕生した頃はまだ十歳でしたが、それから演劇人になって、当時新しい芸術、芸術ともみなされていなかった頃に映画が出てきて、やはり演劇を侵犯していくのではないかという恐れもあったと思います。30年代に映画がトーキーになってから、ギトリが深く映画に魅了されていくのが、こうやって特集で追って見ていくと伝わってくるかと思います。ギトリが初めて映画用に脚本を書いた作品『幸運を!』も見ていただいたということですが、いかがだったでしょうか?

濱口 こんなに幸福な映画があっていいのかというくらい幸福ですよね。『デジレ』にも出演しているジャクリーヌ・ドゥリュバック、彼女は実際にギトリの三番目の妻ですが、いちゃいちゃが全開で、『デジレ』も含めて二人のありようが本当に素晴らしいです。

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『サッシャ・ギトリ 都市・演劇・映画』〈増補新版〉書評

藤原徹平

 梅本洋一の『サッシャ・ギトリ 都市・演劇・映画』が増補新版として出版された。サッシャ・ギトリとは誰なのか? 10年前にその名前を聞いた時、私はどんな人物かまるで知らなかった。梅本さんが急逝し、呆然とし、まだ読んでいない著作をしらみつぶしに検索していて、絶版となっていた『サッシャ・ギトリ』に出会った。しかしながら、何度か読もうと試みたものの、どういうわけかテキストがあまり頭に入ってこなくて、今も机の端に積んだままである。

 どうしたわけか、今回の増補新版は、するりと言葉が身体に入ってくる。同じテキストのはずなのに何が違うのだろうか。私はサッシャ・ギトリの作品は『とらんぷ譚』(1936)1作品しか観たことがないから、こちらの身体は変わっていないはずだ。ほとんど知らないと言って良い人物の像が、むくむくと行間から立ち上がってくる。大きな違いは「写真」と「まえがき」である。

 本屋でもしこの本を見かけたらば、この本の最初のページに差し込まれた一枚の写真を観ることを強くお薦めしたい。本を持っている人は、もう一度この最初の写真に目を向けてほしい。ベッドの上で編集機の作業をする晩年のサッシャ・ギトリ。全く知らない人物なのに、彼の生き様の全てがこの室内風景、表情、振る舞いに写りこんでいる。すごい写真だと思う。

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