『星の王子ニューヨークへ行く2』(2021)
荒井南
思いがけず生まれた生き別れの息子に会うため、アフリカのザムンダ王国を統べるアキーム王が30年ぶりにニューヨークを訪れると、クイーンズ区のマイ・T・シャープ理髪店は相変わらずであった。アキームとその忠実な従者セミが姿を見せた途端、常連客は「クンタ・キンテじゃないか」と声を上げ、従業員も「紛争ダイヤ」、別の店員も「ネルソン・マンデラ」と続き勝手に盛り上がる。だが若い客が「ハエだらけの子供」と混ぜ返した途端、連中は急に真顔になり、「飢えた子供をネタにするヤツは帰れ」「不適切表現だ」「しつけが足らん」と総スカンし追い出してしまう。客が浮かべる腑に落ちない顔を、観ているこちらもする。「それはダメなんだ?」と。
『星の王子ニューヨークへ行く2』序盤のシーンである。“思いがけず”とは、1988年公開のジョン・ランディス監督による第一作目『星の王子ニューヨークへ行く』でアキームが王子だった頃、先王が決めた相手との婚姻に反発し、多様な国籍と人種の居住区となっているクイーンズ区を訪れたくだりに端を発している。対等で理解し合えるパートナーを探そうとするアキームに対し、婚姻がすなわち一族の繁栄と考えているセミは、二人が訪れたクラブでゆきずりの女性に頼み、彼女がアキームに幻覚剤を盛り、その結果生まれた息子がラベルであった。アキームはかつてクイーンズで現王妃リサと一途なラブストーリーを繰り広げたはずだったので、不覚とはいえリサ以外の女性と性経験があったことを知り強い衝撃を受ける。「出会う前だから浮気にならない」「紹介された女にクスリを盛られたセックス」という言い訳から、アキームは王室の婚外子問題を男女間の貞操の危機と捉えているようなのだが、他方リサは「国王の婚外子なんて別に珍しくない」「(私も)あなたの前にも男はいた」と言い置いたうえ「これからは何でも正直に話して」と責め立てる。「対等で理解し合えるパートナー」だったはずの自分に隠し事をしたまま生き別れの息子を探しに行ったことが許せないのだ。隣国がザムンダへ頻繁に脅しをかけてくる不安定な情勢があり、「男系家族のみが王位を継承できる」という国の法律において、娘しかいないアキームはラベルを認知せざるを得ない。自分以外に恋人がいたことをほのめかすリサの発言に気色ばみ、ラベルを迎えることを国家の維持として「ただ正しいことをしたかった」と抗弁するアキームと、「正しいこと」とは「家族にとって? 国にとって?」なのかと即座に聞き返すリサ。二人において守るべき道徳や行動規範、いわゆるモラルをめぐるすれ違いが浮かび上がる。
ほぼクイーンズでストーリーが展開されていった第一作目に対し、今作は王位継承問題の渦中にあるザムンダに舞台が移る。男系男子主義や血筋を守るための政略結婚、実際は性処理である王子の入浴補助など、ランディス版にもあった要素が踏襲されているが、ブリュワーはそのまま引き継ぐのではなく、観客の持つ社会通念や倫理観の線引きへ揺らぎを仕掛けている。ザムンダに到着した翌朝、3人の女性従者による入浴補助に戸惑い気味のラベルに対し、彼と一緒にクイーンズから迎えられたその母はすでに雄々しい男性従者に“洗われて”いる。アキームとリサの娘ミカは、突如現れた男兄弟に王位をさらわれたことで、ラベルに敵意を向けるが、彼もまた父親の不在で長く不遇を託っていたことを知り、理解し合う。王室理髪師ミレンベと恋に落ちたラベルは一度ザムンダから逃げ出すが、隣国の侵攻を知り帰国し、ミカたちと共闘する。「家族にとって?国にとって?」というリサ王妃の問いすら越え、その次の世代はいち個人として選択した任務を果たしていくのだ。
そもそも、ランディス版からすでに「誰かの言いなりではなく、自分の人生を行く」がテーマであった。ブリュワー版もまたそのエッセンスを汲み取っているのだが、法律を知りながらも王位を継ぐため努力していた長女ミカや、女性が店を持つことが禁じられているザムンダで自立を望むミレンベ 、アキームと口論の末に寝室から夫を追い出すリサなど、社会における女性の葛藤と意志が前景化するなどさらなるアップデートがなされていると言える。ただそれは、1988年版を受けた続編の作り手が、2021年の社会へ配慮したからではない。たとえば隣国の将軍たちは、略奪行為や子どもたちを戦闘員として教育していたりと一応悪役らしいふるまいはしているが、収奪品はアキームの肖像画や安っぽい装飾品程度なようだし、精鋭の兵士たちは身体を鍛える傍らダンスゲームに興じていたり、幼い傭兵たちへの授業はのどかな紙芝居の読み聞かせに見える。紙芝居の後、将軍は「手榴弾やC4爆薬で遊んでおいで。サリンはダメだ、危ないからな」と子どもたちに言い聞かせる。床屋でのやり取りを覚えている観客は、いやだから違いは何?と再び苦笑いする。実はマイ・T・シャープ理髪店の常連客も店員も、演じているのはアキームとセミと同一の俳優、エディ・マーフィとアーセニオ・ホールだった。ランディス版から続く遊び心であるとは承知しているが、ブリュワーの手でなされると、スクリーンの中で起こる無数の違いを無効化する設えに思えてならない。初の黒人大統領、黒人奴隷の物語の主人公、内戦の原因、飢餓に苦しむ子供それぞれを比喩にすることの善悪も、兵器と毒ガスの差も、さらには王室における婚外子の是非についても、観客は先入観で説明しようとするだろうが、それは恣意的でしかないといつしか気づくだろう。ブリュワーは、現実において異なるとされる価値観や善悪をワンフレームに収めながら決して説明しない。それこそがブリュワーの映画におけるモラルだからだ。