『フットルース 夢に向かって』(2011)
結城秀勇
ハーバート・ロス版『フットルース』のオープニングの足元ダンスは、みんな本当に履き古した靴なところがとてもいい。もちろんブリュワー版もその精神を受け継いではいる(靴のボロボロ度ではオリジナルのほうが上)が、真にブリュワー的と呼ぶべき改変は、この足元のダンスが、実は3年前に開かれたパーティだったとわかるシーンの追加ではないだろうか。ロス版では登場人物たちの語りの中にしか登場しなかったアリエルの兄ボビーがそこにいて、踊り、やがて自動車事故を起こす経緯が追加されている。
この変化によって、物語の起源が描かれる。別にダンスというものは、主人公がやってくるロス版のシカゴ、ブリュワー版のボストンといった外部から持ち込まれたわけではなく、このボーモントという名の架空の街にもともと生き生きと存在していたのだ(まあロス版でもブリュワー版でも、あらゆる踊りがダンスを知らない人の踊りじゃないのだが)。リメイクという行為が、先行する歴史を上書きして見えなくさせるのではなく、よりくっきりと浮かび上がらせる。
ブリュワーが脚本を担当した『ターザン REBORN』の冒頭では、主人公は「もはやターザンではなくなった男」として登場する。そこから、現在の故郷の危機を救う旅と、かつて彼がその場所でターザンとなった物語とが並行して描かれる構成になっている。過去とともに現在を生きる、あるいは現在の中に過去を走らせる。それは映画というメディアが根元的に持つ、過去に撮られたものでしかない物語を、あたかもいま起こりつつあるものとして楽しむワクワクに似ている。そして、ヒップホップ・ミュージックにおけるサンプリングが親世代の古いレコードに新しい意味を吹き込んだことや、ブルースが幾度となく繰り返された名も無き者たちの物語を語ることとも。
だからオリジナルとリメイクとどっちがいいかを論じることがこれほど無意味な作品も珍しい。やっぱり、アリエルがプロムの前に父親とハグし、「ねえ、私たち踊ってるわ」と言うシーンはいい。ダンスは、常にすでにそこにあったのだ。でも、アリエルの母を演じるダイアン・ウィートンが、娘たちのパーティを遠巻きに見守りながら夫に言う、「ねえ、私たち踊ってるわ」もまた、やっぱりいいのだ。