『ハッスル&フロウ』(2005)

金在源

 クレイグ・ブリュワーの『ハッスル&フロウ』を今見返すことにはどのような意味があるのだろうか。本作はいわゆる「アメリカンドリーム」を手に入れる物語ではない。主人公のDジェイ(テレンス・ハワード)が投獄されることでその物語を終える本作は、単純な資本主義的成功ではなく、その外側で一人の人間が救済されることに重点を置いていると言える。だが同時にその背後で搾取され続けてきた人々の存在も忘れてはならない。本作を今見返すことの意義は、救済と搾取の二重性を引き受けながら作品を捉えなおすことにあるのではないだろうか。
 Dジェイはストリートで売春の仲介とドラッグのディーラーを生業として生きている。ある日、彼は地元メンフィスを代表するラッパー、スキニー・ブラック(リュダクリス)が凱旋ライブを行うことを耳にする。ラッパーとして生きていく道を諦めきれないでいる彼は、スキニーに自身のデモテープを渡すため、ラッパーとして再起をかけた楽曲制作をはじめる。ノラ(タリン・マニング)、レクサス(ポーラ・ジャイ・パーカー)、そしてDジェイとの子を身ごもるシャグ(タラジ・P・ヘンソン)と共に暮らすDジェイは自宅を即席のスタジオに作り替え、制作に没頭していく。
 蒸し暑く閉塞感を抱かせる室内で生まれるサウンドは、解放感と共に観る者の身体を自然と揺らす。代表曲である『Whoop That Trick』や『Hard Out Here for a Pimp』が形になっていく過程は強い高揚を生み出す。ただ、その高揚と共に後ろめたさが残り続ける。「Bitch」という言葉が飛び交い、女性たちが男性たちの創作を支える役割を担わされているその空間で露になるのは、ヒップホップが今日まで内包してきた男性中心的な価値観である。シャグは夢へ向かって傾倒していくDジェイを黙って支える存在として描かれているように見える。コーラスとして参加した彼女が歌わされるのは、「ポン引きとして生きるのはなかなか厳しい。クソみたいなことを言う女が山ほどいるからさ」という内容の歌詞だ。シャグ自身がその「女」の一人に含まれうるにもかかわらず、彼女はそれを歌い上げる。
 しかし、シャグはすべての歌詞をそのまま受け入れるわけではない。歌詞の一部を言い換えることで、所有しているものを見せつける言葉(With the Cadillac and gas money spent)から、それを維持していくので精一杯な現実(For the Cadillac and gas money spent)へと引き戻す。これはDジェイの見えている世界に対して、シャグの生きる現実が差し込まれる瞬間でもある。機材を手に入れるため、Dジェイから店主と性的な関係を強要されるノラもまた、自分を道具のように扱う彼に対して「私が求めているものはこれではない」と怒りを露にする。本作は、彼女たちとDジェイの間には愛情や依存関係が複雑に絡み合った支配的な構造と共に、そこから彼女たちが一人の人間として立ち上がろうとする瞬間も捉えている。
 終盤、Dジェイはスキニーにデモテープを渡しに向かう。だが、セルアウトしてしまったスキニーにDジェイは落胆し、暴力沙汰に発展する。彼の投獄後、楽曲をラジオ局に売り込むノラやDジェイとの子を育てるシャグは、スキニーの凱旋とは異なる文脈でDジェイの帰還を待つ仲間たちとして映る。ただし、それは裏を返せば、Dジェイという男性が社会で生きていくためのサポート役に留まり続けているとも言える。重要なのは、こうした搾取的な関係が本作においてどの程度自覚的に描かれているかという点である。本作は一見すると、ある男性の再起と自己実現の物語として捉えられてしまう。しかし、現在の地点から見返すと、その過程で前提とされている女性たちの働きと支配は、物語の背景として看過することができないものとして表面化する。ヒップホップが搾取に対する抵抗の表現であり救済となりうることを描きながら、そうした表現が女性たちを消費することで成立しているがゆえに、また別の搾取と支配の構造を再生産してきた事実を映し出しているのだ。
 2026年現在、ヒップホップシーンには多様なアーティストが誕生しており、多くの女性ラッパーが前線に立っている。だが、それでも女性蔑視的な表現や、女性を自分たちの所有物のように語る言説は未だに反復され続けている。
 『ハッスル&フロウ』を今見返すことの意味は、ヒップホップがその歴史の中で見て見ぬふりをしてきた構造を引き受けなおすことにある。社会的な成功だけがヒップホップがもたらす救済ではないという希望と同時に、誰かにとっての救いが別の誰かの犠牲によって成り立っているかもしれないことを本作は観る者に突きつける。そして、その構造の上で歌詞に高揚し、ビートに身体を揺らす私たちもまた、決して無垢な存在ではない。

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