批評と論文の違い——誰に読ませるのか

——そもそも何字ぐらいが批評にとって適切な長さだと思いますか?2万字は学会の投稿論文と同じですよね。

堅田 現在、SNSで短い文章が書かれ読まれる環境というのがおそらく主流ですよね。noteだと2000~3000字の記事は読みやすいですが、三浦くんが言うように2万字の記事を書いても多分なかなか読まれづらい。でも、長い批評を載せる媒体がないのは、結構深刻な問題だと思っています。長い字数で見えてくるもの、逆に短い文字数で見えてくるもの、それぞれあると思うので優劣はないのですが、われわれの中心的な関心は前者にあるんだと思います。長くて、一読で理解できないような文章があっていいし、そういう場も必要です。

——みなさんは研究者として論文という長い文章を書く場所がすでにありますよね。特に北大の場合は『層:映像と表現』という雑誌もある。『層』は論文だけが載ってるわけではなく、毎年ひとりの監督にインタビューしていたりとアカデミックな分野とは異なる部分もあると思います。そのような媒体の他にskiptracingをはじめた理由、かつそこで長い文章を書こうと思った理由は何だったのでしょうか?論文と批評をどのように棲み分けているのか、という問いにも繋がると思います。

堅田 私は今のところは研究を仕事にしようと論文を書いたり大学の公募に応募したりしているのですが、自分の生き方的に研究者にしか読まれない論文を書くのは嫌で。映画批評や評論と呼ばれるタイプの文章を読むのも書くのも好きだし、ひとつ言えば、実際に映画制作をしている人たちに刺激を与えられる文章を書きたい。映画学と映画批評の棲み分け=区分というのはますます進んでいると思いますが、それはどちらにとっても貧しくなっていくだけだと思います。であるなら、そういう流れには抗して、批評のような論文、あるいは論文のような批評を書くという方向を選びます。たしかに『層』でインタビューもさせてもらっているのですが、私たち3人で書いているものは、何か奇妙で、それとはまったく違う可能性があるというか…。

 三浦くんとか堅田さんは、毎回同じ問題意識を批評に対してぶつけていて。細かいところでいうと、たとえば三浦さんは「類似」とか「差異」とかを必ず気にしていますし、堅田さんの場合は身体性の問題を常に考えている。それと同じことで、三浦くんとか堅田さんには研究とは違ったインディペンデントな批評に対する向き合い方、参与の仕方が恐らく自覚的にあるのだと思います。たとえばふたりは福尾匠さんやいぬのせなか座の山本浩貴さんの名前をよく出すんですが、彼らもインディペンデントで活躍されている方々ですよね。そういう方たちとの距離感を踏まえつつ、自分たちではこういうことをやっていく、というのを考えているんだと思う。

三浦 一応私も研究者として生き残っていきたいという意識はあって。今年博士論文を出そうとしているんですけど、出したあと一文無しになるとか、お金を貰えたとしても常勤職に就けるのはいつになるか分からない。現実的な動機として、何かしら別の形、インディペンデントな形の批評でどれだけマネタイズできるかを考えています。実際にマネタイズできるかどうかは、まだまだ先のはなしなので想像がつきませんが、マネタイズを意識することで可能になる活動や文章の広がりはあるのかなと思います。

 初耳ですね(笑)。

堅田 研究だけしか選択肢がないと、ものすごくやっていきづらい。すごく窮屈になってしまう。それは精神的にもそうですし、金銭的にはますますこれからそうなっていくとも思う。だから研究をやる=論文を書くっていうのがありつつ、自分(たち)が書いたそうではないタイプの種類の文章を掲載・発信できる別の場所があった方が健康だろうなとは感じています。

——映画批評を収入源にするのはなかなか難しいことだと思いますが、skiptracingはどのように考えていますか?

堅田 最近「1ヶ月後に、ZINEを売るフリマがあるのでよかったら出ませんか?」と知り合いの人に誘ってもらって、急遽ZINEを作りました。元々作ろうとしていたものとは違うものです。それが思っていたより売れて、これならもっと売れるんじゃないかという感触もあった。それで生活できるかと言われたら無理だけど、でも少なくとも興味を持って買ってくれる人はいるんだなという認識は持てました。

 三浦くんがそのときたまたま忙しかったので、私と堅田さんでZINEの料金をどうするかと考えていたときに、「こんなものを買う人がいるわけない」みたいな感じで、ナーバスになって、低い値段をつけたんです。そしたら後から三浦くんが「それはおかしい、そんなに安くするもんじゃないよ」って(笑)。半信半疑で三浦くんが言っている金額に近づけました。だから、三浦くんがマネタイズのことを将来的に考えていたのには少し納得しました。結局それで売ってみて、一応売れたわけなので良かったなと。

三浦 論文の良いところでもあり悪いところでもあるのは、マネタイズのことを考えなくていいところですよね。学会や大学といった歴史や権威のある共同体に守られているので、ポイントさえ押さえておけば何でも書けるところはある。ただ、以前nobodyの定例会議に参加したときに、「論文は誰にでも読めるように書けと言うけれど、ほとんどの人が読まないでしょう」という発言があったと思うのですが、その通りですよね。文体の面でも、流通の面でも論文のように書かれた文章を読めないという人もいる。そういう人たちは読者から排除されてしまう。一方で批評はお金を稼げるかどうかという別の問題は入ってくるけど、論文を読めないような人たちにも読んでもらうことができるかもしれない。批評と論文において、読者をどう集めてどう排除するのか、そのやり方が違うんだと思います。

——メディアとしてのskiptracingは、どのような読み手を想定して文章書かれていますか?

 noteはそれぞれ個別に書き方があります。堅田さんは本当に普通に日記を書いていますし、私は映画を見てぱっと考えたことそのまま書いて、即席的なタイトルを付けたりする。でもあるとき、滅多に更新しない三浦が何かを更新したなと思って確認してみたら、三浦は『運動とダンスする』というオシャレすぎる題名をつけていた(笑)。センスだなと思って、自分の題名が恥ずかしくなりました。しかも読んでみると、博論を書く人のすごくちゃんとしたサイドエピソードになっている。なので、それぞれがどのような読者を想定しているのかはまだわからない。
 一方で、直近でやった『イングロリアス・バスターズ』は、かなりカジュアルなWeb座談会形式をやる機会で、読み手の方が同時に加筆して、「この人が書いているんだ」「この人が読んでいるんだ」とわかって新鮮でした。読み手に対する意識の変化を感じた。

——skiptracingのプロジェクトからすると、読み手も文章の中に含まれているわけですよね?

 そうですね。Wordのコメント機能とかって、コメントが文章の部分にそのまま入っていく感じですよね。だから「これによってこれを変える」みたいな上下関係はなくて、そういう意味では結構フラットな「これ」に対して反応していくっていう。かなり小さい形ですが、ある種のソーシャル・ネットワーク的な使い方があって、それが批評と同時に展開されているのは割と不思議に感じています。これが今後どうなっていくのかとは、私自身ちょっと不安に思いながらも楽しみにしてるところですね。

堅田 noteのアクセス数をチェックしていると、トレンドの映画の記事はやっぱりぐーんと伸びます。朴さんが『ファーストキス 1ST KISS』(塚原あゆ子、2025)について書いた記事を作品公開の翌日ぐらいに投稿したらかなりバズってた。速効性・リーチ力はやはりTwitterや noteにはありますし、普段なら届かないような読者層にも届く。研究だけをやっていたら届かない人にも届くっていうのは、書き手として幸福だし、そういう環境を使わない手はない。でもかといって、さっき三浦くんが言っていたように、トレンドだけを必死に追いかけてそれに狙いをしぼって何かを書くというのだけでは、貧しくなっていく。そういう層と、たとえば『ミュンヘン』について2万字書いたものを読んでくれる層とはおそらくかけ離れているので、そういった異なる読者層を上手くクロスオーバーさせることができれば良いですね。媒体、文字数、文章の難しさとかによって読者が全然違ってくるのが、この一年間で身をもって知れました。

——ZINEは自分たちで売られたんですか?

堅田 そうですね。記事としては私と朴さんが書いたものプラス、同じ大学院の文学を研究しているパラギナ・アレクサンドラさんと哲学を研究している昆佐央理さんという方々にお願いして書いてもらって、デザインを三浦くんがやりました。

——どういった方が買われていたのですか?

 フリマに来られる方も本当にいろんな目的で、たとえばおもちゃのソフトビニール人形を売っている店もありましたし、レコードを売るだけじゃなくて、買取もするお店もありました。そういう中で私たちのテーブルだけやたら白くて物が置いてなくて、デザインもすごくスタイリッシュな感じだったので、その意味ではちょっと浮いていたと思います。でも人通りが多いところが会場だったので、ぱっと通り過ぎた方の中で本当に興味持った人が買って行かれた感じでした。結構雑多だったんじゃないかなと思います。だいぶお年を召した方も買ってくれたし、大学院に入ろうと思ってるんです、という学生の方も買ってくれました。

——Web版のskiptracingを普段読んでいる層よりも、偶然みなさんを見かけた方達が買っていったんですね?

 そうですね。映画研究をしたいんですっていう方がいて、その方は前から見てたっていうふうに話してましたけど、他の方は運が良ければこれから知ってくださるのかな。

——今後ZINEを出されていくときにも、偶然見つけてくれる人や売る場所のことを意識していくことになりそうですか?

 いや、今回は堅田さんが衝動的にやりたくなったみたいで、われわれ的にも形を作ってみようということでやったものです。次作る事があるとしたら内容や売り方もかなり違った形になるんじゃないかと思っています。

三浦 来年出すZINEの特集としては、ハリウッド映画と戦争と陰謀論を扱いたいと思っています。流通方法としては映画館より、いわゆる文フリみたいなところで売っていこうと考えています。やっぱり映画のパンフレットやnobodyのMUGもそうだと思うんですけど、その映画を見た人がそれについて書かれた文章を買うっていうのが割と映画批評のスタンダードな流通のさせ方ですよね。ただそれだけでなく、映画を見てない人にも買ってもらう形にしたい。映画についての文章を載せるけど、もう少し広がりを持ったものとしても売っていきたいなと思っています。

——映画を見ていない人にも、見ていない人にこそ、なのかもしれませんが、その層に売りたいのはどうしてでしょうか?

三浦 パンフレットやDVDのブックレットって、映画批評の流通のさせ方としてはスタンダードになっているけど、非常に特殊な書き物だと思っていて。書き手が有名であれば、後に本として出版されることもあるわけですけど、基本的には映画の公開が終わってしまったり、DVDの生産が終了してしまうとアーカイブもされずに読めなくなってしまうことが多い。札幌に住んでると、批評だけでもせめて読みたいのに、上映される映画館がないから入手できないとか、一瞬で公開が終わってしまってパンフレットも販売されなくなっているというパターンも多々ある。映画雑誌が売れなくなった結果、映画の流通経路と批評の流通経路とがほぼパラレルになってしまっているのではないかと感じています。他方で、ネット上には映画についての言説が溢れているわけですけど、それらも映画の公開が終わると注目されなくなる。それはある意味で、映画批評が映画作品のサブテクストに過ぎないものであることを、流通のレベルで強制されてしまうということだとも思うんです。そういった状況を変えたいという考えもあります。
 2万字の文章を3つぐらい書いてわかってきたことなんですけど、ひとつの映画についての論文を書くときは理論的前提とか歴史的背景とかが大半を占めるので、映画についての部分は3分の1ぐらいだったりするんです。ただ、映画だけについて2万字を書くとなると途中から作り話みたいになってくる。無理やり解釈をねじ曲げてフィクション化する方向になっていく。そういうふうな書き物として完成させることができれば、映画を観てない人にも面白いと思ってもらえるんじゃないか。作品に対して誠実であることと、作品から離れて勝手であることとが両立するような読み物というのを目指したいですね。

 先程から重ね重ね2万字書くのがいかに大変だったかという話をしてると思うんですけど、量だけじゃなくて文章の強度がすごい高かったのをいま思い出しています。最初の方は書き方が固すぎるのが不安になって、せっかく論文じゃない形で書いているのに大丈夫かなってふたりに聞いたんですね。そしたらふたりは言い方の圧力を少し下げてしまうと言いたい内容も変わってしまうんだと。まあそうか、とそのときは思ったんですけど、やっぱり今読み返してみても文章の圧力はかなり強い。それをZINEにするときにどうするんだろうというのはあります。
 同時に、冒頭で話していたようにアカデミックとか批評とか関係なく、その人の分析が妥当か、面白いか、独創的か、正確であるか、そこを評価する基準がよく分からないという問題意識が三浦くんにはある。ときとして、それは厳しい評価にもなるし、あるいは逆にカリスマ化するような評価にもなり得るから。そういうところから三浦くんは既に、これは合っているのか合ってないのかという正誤ではなくそれを決める基準のことを考えていた。そこから同様の問題を孕んだ陰謀論のこととか、あるいは自分たちの文章に対する評価軸の揺らぎを気にしてたんです。そうしたことがZINEでテーマになってくるとしたら、互いの分析を互いに観察し合うことがもう少し追求されて、自分たちがやってきたこと自体がテーマになるのではないかといま感じました。

——陰謀論と、3人の共同執筆というやり方が、実は結びついてるのは興味深いですね。それがさっき三浦さんが言っていた、批評がその元とセットで読まれるものとして思われているけど、必ずしもそうではない独立したフィクションでもあり得るのではないかという問いとも関係しているような気がします。

  漫画の考察って非常に流行ってるじゃないですか。それと分析の違いとは何なんだろうみたいなことがたまに話題にあがったりしますけど、とにかく分析とか考察をする人がもっと増えたら、というか増えることにわれわれが何か関与していくと良いというのは堅田さんが常々言っていることですよね。堅田さんは何かを経て自分が変わってしまうこと(たとえば映画を見た後と前では鑑賞者の身体が変わってしまうとか)を重視していて、そのような変身を他の人にも求めているんだと思います。
 そういう意味では、さきほど三浦くんが言っていた、必ずしも映画を見て、それに対する他人の理解を聞くという固まってしまった形式で我々の文章を読む必要もなくて、出された論考の裏にある種創作があると思われてもいい。それは嘘をつくというより、因果関係を見出すというような意味ですけど。でも、その方が読む人の役割が固定されないからいいと思います。関係あるかわかりませんが、三浦くんはフェイクドキュメンタリーホラーがすごく好きで、それはまさにそういうものですよね。はじめから嘘であることを告げられているにもかかわらずわれわれは見てしまう。だから同時に、自分たちでもそこに新しいつながりを作りたくなる。あれはすごく盛り上がるじゃないですか。もちろん制作者側もそれを企んでいる。それもたぶんskiptracingのZINEとかでは、部分的に参照するんじゃないかな。

三浦  考察とかも、もうほとんど2次創作のようになってしまっているものも多かったりします。でも2次創作は原作を読んでいなくても読まれたりする。やはりアカデミズムだとそんなものは駄目ですよという話になってしまうのですが、批評だったらそういうことをしてもいい自由さがあるわけです。ただそれをやり過ぎてしまうと、陰謀論のような形で、目の前の世界についての異なるフィクションを勝手に作って、すごく安易に信じてしまうことにもなってしまう。だから2次創作のようなものとして批評をやるにしても、ある種書き手の倫理が必要とされてくる気がする。その辺が何なのかをずっと考えているかもしれないですね。

  確かにわれわれ3人は、後半になると、思い出したように倫理とか書くよね(笑)あれは最初からあるわけじゃないと思うんですよね。後になって急に自分たちが陰謀論に与しているかもと不安になっているのかもしれない。

——これまで取り上げてきた作品が『アメリカン・スナイパー』だったり『ミュンヘン』だったり、「Based on true story=事実に基づく」ものだったということと関係してる気がします。

堅田 そうですね。そこは歴史映画というか、そのような題材で縛りというか、それで連続してやっていけば面白いんじゃないかなという狙いがありました。

——そのZINEを作る過程で、skiptracingの一番のウリである「批評を書くプロセスを見せる」という部分はどうなるのでしょうか。

三浦  これはすごく難しい。ZINEを出すことは既に完成したものを差し出すことですからね。たとえば、われわれが書くものに関しては、QRコードを読み取ったらその執筆のプロセスが可視化されて、さらにそこから各自が自由に編集できるようにするのもありかなと思いつつ、なかなかそれに適したライティングサイトが見つからない。書いている流れを何かしらの形で可視化する仕掛けは用意したいと漠然と考えています。

堅田 初耳でした。実現できれば面白そうだけど。

三浦 いまはじめて言いました。

 それは無理だろう(笑)。

——簡潔に言ってしまうと、skiptracingがやっていることは映画批評のメイキングを見せることですよね。気になるのは、紙やファイル上で書いたり消したりするのが見えたとして、それで執筆過程はどのくらい浮かび上がってくるのでしょうか。映画批評を書くときって、書いている時間だけではないじゃないですか。その映画を何回見たかとか。全部は見なかったけどここだけ見返したとか。

  すごく難しいですね。極端な話を言うと、何かを考えている時点で、それまでのプロセスは決して他人に分からないどころか、自分でも分からない。ただわれわれ3人の執筆の共同プロセスだと、何回も何回も同じことを繰り返しつつ、あるとき、「ここの映像にこういうものが映っていた」みたいなことが共有されるんですよね。共有された途端に、その後に書く文章ではなくて、それまでに書いていた文章がそこに吸い寄せられて、結合していく感じがあるんです。その映像の中の確実なところみたいなものが出てくると、それまでの3人の思考プロセスはそこに結構はまっていく。そうすると、気づいてなかったけど、この文章はここに来るために用意されていたという気になってくる。ある意味では自分が実は着想したのに気づいてなかったことを他人のアイデアを通して自分で再確認するようなことだと思います。そういうものが、いま三浦くんが言ったアイデアにうまく反映できたら、もしかしたらこれまでなかったようなものが見せられるのかもしれない。

——ひとつのカットの存在に気づいたら、それまで書いていたことが全部そこに引き寄せられていく、という感覚はひとりで書いている場合でも共感できる部分があります。

三浦 堅田さんがいまnoteで日記を書いていますけど、執筆プロセス中の各自の日記をドッキングさせるというのはありかなといま聞きながら思っていました。日記を強制することになっちゃうけど(笑)

堅田 いままでは、その執筆プロセスのメイキングを見せる用のものとしては書いてないので、たぶんそのまま見せても何のことか分からないと思う。メイキングを見せるためのひとつの仕掛けとしてやるには、それを意識した残し方をしておかないといけないですね。メイキングのための書き方じゃないですけど、もうちょっと分かりやすく、この考えがこのように変わった、ぐらいに残しておく工夫があれば、それも成立するかなと思います。

——たとえば『イングロリアス・バスターズ』でやっていた最初の座談会は、メイキングとしても読めますよね。

堅田 そうですね、あの座談会も、私たちだけではなくて他の参加してくれた人が書いてくれた論点が、後々になって別の論点に繋がっていたりして、メイキング的な部分も読めると思います。

三浦  最近セルジュ・ダネーを博論の関係で読んでいて、80年代ぐらいからかな、どんどん彼の書く文章が断片的なものになっていくんです。日記とかエッセイのようなかたちで映画の記述を進めるようになっていった。読んでいると、たぶんDVDとかビデオ、テレビといったメディアが出てきたこととパラレルになっているのではないかと思うんですよね。映画を見ている時間と日常の時間の境目がどんどん無くなっていったときに書かれた文章なのだという気がした。もしかするとセルジュ・ダネーのようなことをできたらいいなと思ってるところがあるのかもしれないです。

堅田諒

高知県生まれ。北海道大学大学院専門研究員。映画研究・批評。論文「自分自身を撮る——バーバラ・ローデン『ワンダ』における監督兼俳優という制作手法」(『映像学』)、「方法としての即興——ジョン・カサヴェテス『アメリカの影』における制作過程と俳優演技について」(『映像学』)、批評「俳優と時間、そのシンプルな可能性——三宅唱『密使と番人』について」(『ユリイカ』)など。

朴舜起

1992年、兵庫県西宮市生まれ、鳥取県境港市出身。立教大学文学部英米文学専修を卒業後、北海道大学大学院に進学。現在北海道大学博士後期課程在籍。

三浦光彦

北海道大学大学院文学院博士後期課程。フランス映画、映画理論。論文「断片のネットワーク ——ロベール・ブレッソン『少女ムシェット』(1967)におけるイメージとナラティブの論理」(『映像学』)、論文「他性的知覚と誤認の能力 ——映画の分析(不)可能性をめぐって」(『表象』)

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