現場での演出のつけ方

——『イヌミチ』(2014)のDVDのメイキング映像では、まず俳優の立ち位置や動きを見て、それに合わせてどこから撮るかを決められていました。今回も、現場での演出では同じやり方を採用されたのでしょうか。

万田 ええ、『UNloved』のときは、家でガチガチに絵コンテを全部描いてから現場に臨んで、その通りの芝居をやってもらう方向で演出していたんですけど、自分の中でそのやり方に限界を感じて、それからは違うことをやろうとしたんです。『接吻』のときから動きはけっこう現場で考えるようになりましたけど、それがどんどん昂じて、今ではもう撮影前にはほぼ何も考えず、最初の立ち位置さえ決めない。役者さんに「どこに立ちたいですか?」って聞くときもあるし、現場で自分で動いてみて「ああ、こういう芝居になるのか」と発見することもあります。
今回はクランクイン前にリハーサルの時間が取れたシーンもいくつかあるんですけど、そこで決めた流れを撮影ではまるっきり変えたところもありました。以前と比べると、たぶん現場のライヴ感みたいなものを楽しんでるのかな。前はそんなこと怖くてできませんでしたね、もう不安で不安で。現場に向かう駅までの道で吐きそうになってましたから(笑)。その不安を解消するためにびっちりと絵コンテを描いたりしてたんですが、今ではもうそんなこともせず駅までスキップですよ(笑)。「楽しいなあ。今日は何ができるかなあ」って感じ。

——とはいえ、日ごとの撮影の分量の目安はありますよね。それはプレッシャーにならないんでしょうか。

万田 今回は一日に10分以上のOKカットを出していかなきゃいけないスケジュールだったんですが、ぜんぜん大丈夫でした。『UNloved』も『接吻』も予定の撮影期間を大幅にオーバーしてしまっていたんですが、芝居とカット割りに悩まなくなったんです。うまくいけそうだったらそのまま、うまくいかなそうなら「じゃあこうしましょう」と見切りをつけるのが早くなった。おかげで今回は翌日の撮影予定だったシーンを前日に撮っちゃったりもしたんです。そのひとつが貴志がひとりで診察室から電話をする重要なシーン。「できるならやっちゃおうか」みたいな気持ちでお願いして、仲村さんもその場では「いいですよ」って言ってくれたんですけど、「こんな重要なシーンをそんなに慌てて撮るの?」ってあとでこっそり怒られました(笑)。

——予定を早めて撮られたのが良い方向に働いた部分もあるのでしょうか。

万田 ええ、その場面の仲村さんはすごい芝居になってましたね。今回はそもそもロングテイクでの撮影がけっこう多くて、カット数がさほど多くなかったことも早く撮影が進んだ理由です。僕の芝居のつけ方が変わってきたことによると思うんですけど、役者さんのいろんな動きを、そのままずっと撮っておきたいっていう気持ちになってる。カットを割っちゃうと、そういう一連のリズムがなくなっちゃうんで。

——テイクが長くなると、思っていた通りにいかないことが増えたりはしないものなんですか。

万田 いわゆるスタジオシステムの時代の映画は、勝手知ったるスタジオ内で、人物の動きに付けたカメラが前進、後退、横移動、クレーン移動と縦横無尽にスムーズに動いている。たとえば画面奥からやってきた人物をまず正面で受けて後退移動して、その人物が右方向に行くと横顔を捉えたままカメラは横移動して、そこにもう一人の人物の芝居が絡むと後退移動して画角を広げて2ショットで捉え直して、芝居の流れで最後は一人の人物に前進移動していく、とか。しかもカメラの動きはものすごくスムーズ。そういう贅沢なスタジオ撮影は、今ではほとんど不可能ですね。予算が潤沢にあるなら話は別かも知れませんが、しかしそういう撮り方は現代にそぐわないかも知れないという問題もある。それで僕がやっているのは、カメラの動きに変化を付けるということではなくて、芝居の動きの方をカメラに合わせる、ということなんです。たとえば二人の人物がいて、芝居の流れで二人ともがカメラに背中を向けるとして、それでもカットを割らずに二人の顔を撮るためには、二人にもう一度カメラの方を向く芝居をつけるということです。カメラの方を向くきっかけを、芝居としてつくるということです。

——カメラが芝居の演出に対する起点になることで、物事を決めるきっかけにもなっているということですね。

万田 さっき言った「ライヴ感」、現場で思いつくアイデアということですよね。こういう現場は僕にとってすごく面白いし、たぶん役者さんも面白がってくれるとは思うんですが、はたしてその演出がきちんとシナリオに書かれている内容とか、登場人物たちの気持ちや感情の流れを伝えられているのかと言えば、また違う話だと思うんですよね。僕がやってることって、脚本に書かれてることを伝えようとしてるんじゃなく、脚本をいわば踏み台にして、僕がやりたいことをやっているだけなんじゃないかとも思うんですよ。
このあいだ、濱口竜介くんと対談したときに「万田さんはリアリティをどういうふうに考えますか?」って質問されたんですけど、そのとき気付いたのは、僕はいつもぎりぎりのところでしかリアリティを考えてないってことでした。そして芝居に関してはほとんどリアリティを考えてないのかもしれない、と思い当たりました。僕は日常的な動きを現場でほとんどやらせないし、「うっそー」とか「~てか」とか「マジやば」みたいな日常的な台詞は全部シナリオから外して、「普通はしないよね」「普通は言わないよね」ってことをぎりぎりのところで、さも普通であるかのように見せたいと思ってる。でも、結果的にはそういう動作が突出しちゃっているのかもしれなくて、それが作品全体にとって良いことなのか悪いことなのか、自分の中でもまだちょっとわかってない。

——ただ、そうしたリアリティのない演技をこの物語が要請しているような印象も受けるんです。この映画の貴志と綾子は、他人との社会的な繋がりや生活のない、本当にふたりだけの世界を生きようとしているわけで。

万田 貴志と綾子については、ふたりの日常的・社会的な背景を消したいって欲望があったので、この映画では背景を全部合成にしようかなってことも一回考えたんですよ。Zoomのバーチャル背景みたいな感じで、いろいろな町の写真とか部屋の写真とかを背景にしてしまえばどうかなと。ただ、やっぱりそこまでやっちゃうと結局はスクリーンプロセスを多用したラース・フォン・トリアーの『ヨーロッパ』(1991)みたいなことになっちゃうのかと。そこでぎりぎりのところでリアリティを担保する選択をしつつ、診察室に関してはかなり抽象的な空間にすることにしました。

——ただ一方で、クリニックの受付の池田さんや貴志の義父母のような、いわゆる普通の人物たちと関わる部分とのリズムの違いも面白かったです。

万田 密度の高い抽象的な場面を撮りたい一方で、それこそ小津や成瀬のようなフィクショナルな日常を撮りたい欲望もあって、一本の映画の中にそれらが両方あるから変になっちゃうんです。映画をよく見られる人とか、僕のことを知ってる人には好意的に見てもらえるんですが、一般のお客さんが見ると「何だか変だね、これ」っていう感じに思われがちなんですよね(笑)。

写真:隈元博樹

切り返しをできる限り避ける

——本作において非常に重要な場所である診察室の場面ですが、ここでは貴志と綾子のふたりの演技が、ライティングや音楽の挿入の仕方も含め、あたかも舞台のように演出されているように思われました。どのように撮影は進められたのでしょうか。

万田 僕は、現場である程度役者さんの芝居が固まると、その動きをいろんな角度から見ながら撮り方を考えるようにしているんですが、僕の動きを見て撮影の山田達也さんが「ここはレールで移動撮影なんだな」っていうふうに判断してくれる(笑)。「カット割りが決まりました」とみんなに説明している段階では、山田さんはもう助手なり制作部に「ここレールいるからね」とかの耳打ちをしている。『イヌミチ』もそうでしたが、山田さんとはこういうコミュニケーションが取りやすいチームになっていて、非常にスムーズでしたね。

——やはりそうしたスムーズさも、以前と万田監督の演出の仕方が変わったことに繋がっているのでしょうか。

万田 そうだと思います。最近はなるべくワンテイクでOKにしているんですよ。昔は、撮影中にモニターを見ながらちょっとでも自分の考えていたことと違うことになっていると「もう1回」っていう感じで、5テイク、6テイク撮るのが普通でした。でも、いざ撮影が終わって編集に入ってみると「あれ? これなんで6回も撮ってるの!?」ってなる(笑)。撮影現場ではものすごくはっきり見えていた違いが、時間を空けてしまうと、自分でも「これ何が違うの?」って思うくらいわからない。そういうことが馬鹿らしいんでやめたんです。

——編集の方向性というのは、現場での撮影時点ではどの程度目測をつけられているのでしょうか。

万田 最終的な繋ぎは編集の段階で探ります。『接吻』以降、2台以上のマルチカメラで撮影をすることが多かったんですが、今回は4Kカメラ1台で回したんです。マルチで撮影すると、Aカメだけだとここちょっと画が足りないなってときはBカメの素材を使えたりするんですが、今回はそれができなかったんでけっこう苦労しちゃいましたね。現場では成立していると思ってたんですけど、いざ編集してみるとやっぱり足りないなと。ただ、今回は4Kで撮ったことで、粒子が粗くならないまま、編集で画面を拡大することができたんです。なのでたとえばそもそもツーショットで撮影した映像からそれぞれの人物を拡大して切り出して、ワンショットずつにして繋げるというようなこともしました。たとえば2ショットの引き画から、その画を拡大して切り分けたアップのワンショットをポンよりのようにして繋げると、普通のポンよりとは違う、なんとも奇妙な効果が出るんです。初めてやったことなんですが、「何だこれ、変なの」って(笑)。見たことないけど面白いなって。

——診察室ばかりでなく喫茶店でもそうなのですが、貴志が対話をする相手に対し、正面に座らずわざわざ椅子をずらして斜めに座る場面があります。これは撮影のために必要とされた演出なのでしょうか。

万田 対面して撮ると基本的には切り返さないと顔が撮れない。でも横に並べばどっちも顔が撮れる。言ってみればそれだけなんですけど、普通なら対面に座るべき人が横の位置に座るためには、たとえば椅子をその位置に持っていかなければならない。そのための芝居のきっかけとか理由をどうしようかなと考えつつ、カメラの都合に応じて対応していますね。

——現在の万田監督の演出として、切り返しでの撮影を極力避けられているということですね。

万田 そうですね。ここ4、5年、僕はとにかく役者に一連の流れで動いてもらう芝居に集中していて、その結果ロングテイクが多くなっているんです。そういう動きをやっぱりそのまま撮りたい。そうすると、切り返しではどうしても動きの一連感がなくなっていっちゃう。とはいえヒッチコックなんか見ると、圧倒的に切り返しの強さがあるわけですよ。その強さが決定的に映画を面白くしてるんだよなって思うんですけどね(笑)、難しいです。

——診察室の場面は時間帯によって照明も非常に細かに調整されていたように見えました。

万田 照明はざっくりとしか指示してなくて、撮影の山田さんと照明の玉川(直人)くんがほとんど設計してくれたんです。玉川くんも映画美学校の仲間でずっと一緒にやってますから、僕がどうやりたいのかを何となくわかってくれてると思うんです。今回は本当に何も言わなかったかもしれない。

——診察室での仲村さんと杉野さんの対話の流れに合わせて光が急激に変わる印象的なシーンがありましたが、そこも指示はされていないのでしょうか。

万田 綾子がテーブルの方に来て、貴志がふっと立ち上がって綾子の方に向かうと、ぱーっと明るくなるところですよね? あそこはもう玉川くんが勝手にやってたの(笑)。撮影の山田さんも「何やってるのかな?」って思ったそうなんですが、誰も現場では聞かなかった。撮影中、僕は気付いてさえいなかったかもしれない。編集のときに「この光、何だろうね? どっかの反射?」くらいに思ってた(笑)。玉川くんによれば「あれは死んだ奥さんの霊がふうっと光った」という狙いで一生懸命つくってくれていたそうです。

——診察室の場面では、音楽の出し入れもドラマの動きと完全に、あるいは非常に極端に設計されていました。音の演出はどのように考えられたのでしょうか。

万田 基本的には僕が長嶌寛幸さんに指示してお願いしています。ただ、僕はもう音楽が本当によくわからないんですよ、毎度毎度難しいなと思っていて。この作品には、いわゆるシーンとシーンの繋ぎの音楽はなくて、シーン内で何か物語に動きがあったり、人物の気持ちが動いたりするときにわかりやすくすっと音楽を入れている。狙ってるというより、それしかできないってことなのかもしれません。先ほどロケについてお話ししましたが、僕の映画って空間と空間とが直結しているようなところがあるから、そのあいだの風景にすーっと叙情的に音楽が流れて映画が一回休みに入ってそこからまた始まる、みたいな流れがつくれない。だから僕の映画には音楽をつけるのが難しいとよく言われるんです。でも、一方で音楽が全くないというのもやっぱり不安なんです。

続き

←前へ | 次へ→

最初 | 1 | 2 | 3