クリエイションの実感

——この作品は最終的に64分という時間に辿り着いていますが、そこに至るまではどんな経緯があったんでしょう。プロデューサーの松井さんと相談しながら編集を進めて行ったと伺っていますが。

松井:編集はやはり悩みましたよね。最初のヴァージョンは40分ぐらいで、三宅と鈴木とぼくで一緒に見たんですが、鈴木もぼくもこれは違うなと思いました。いいとこ取りのダイジェスト映像集、という印象でした。「退屈な時間」がないと思った。退屈な時間は絶対に必要なんですよね。実際に現場では、とくにOMSBがトラックをつくっている時間帯には、みている側からするとおもしろさと同時に、言ってしまえば退屈さだって当然あるわけです。それはまったくネガティヴなものではなくて、ものをつくる行為のプロセスに必要不可欠なものなんだと思います。

三宅:たとえば1分のニュース映像で、90分のサッカーの試合を伝えようと思ったら、極端な話ゴールシーンだけを見せるしかない。でもゴールシーン見たからってその試合すべてが見えるわけじゃない、攻撃だってあれば守備だってある。0-0で続いている膠着時間を、退屈だと思うか、めちゃめちゃスリリングな時間だとみるか。曲作りの時間をどう捉えるか、というのもそれと同じだと思います。一瞬一瞬のあいだに、どっちに転ぶかわからない状況が続いて、いろんな判断がくだされていくって、自分にとってはめちゃめちゃ刺激的です。

©Aichi Arts Center, MIYAKE Sho

もともと映画の尺に関しては、自分が新しい映画をつくるときは70分からせめて90分以内の映画がいいなとちょうど思っていて。でも、だからって無理矢理64分にしたわけではなく、今回はたまたま64分になった。もし被写体にとって3時間必要だと思えたら、この映画を3時間にしたと思います。40分版とか80分版とか複数のヴァージョンをつくってみたんですが、64分が一番面白かった。80分版は、あえていうなら、映画としての正しさや記録のリアリティーみたいなものは濃いけれど、でもなんだか長いというか、ちがう。その長さは、ヒップホップとしてちがう、と思った。ヒップホップにまつわる映画をつくる以上は、面白いもの、カッコいいものをつくりたいわけで。映画たることよりもヒップホップたることが、被写体に忠実という意味においてはまさしく映画たることなんだとも考えてた。たとえリアリティーだとか悪い意味での映画的正しさがあっても、それでつまんなくなったり、ダサくなる、ヒップホップに反するというのは避けたかったです。

松井:たとえば三宅から、このショットにおける人物の顔がとてもいい、だけどショット自体は弱いから使うどうか迷う、みたいな相談をされたら、積極的にそういうのは使ったほうがいいよねと話していました。強いか弱いかという言い方もおかしなものですが、とにかく、ある映画的な水準に達していないショット、正しくないショット、とでも言えるものでしょうか。それはドキュメンタリーだからそうしたほうがいい、という意味ではありません。フィクションにおいてだってそうだと思っています。要は、自分たちが「これが映画だ」と考える枠組みなんて壊れたっていいじゃん、怖がることはないじゃん、と。弱いショットでも、そこにざわめき立つなにかが感じられ、作品がより豊かになるんだと感じられれば、使っていこうよと。

三宅はこの1年以上、「無言日記」という、iPhoneだけで撮った映像日記みたいなものをboidマガジンで毎月発表しているんですが、そのおもしろさって、「あのショット、このショットがすごい」ということではないんですね。少なくともぼくにとってはそうではない。かといって編集だけが問題かといえば、それも違う。『THE COCKPIT』も「無言日記」も、技術的にも理論的にも誰にだってできるはずです。なのに、たとえばぼくがそれをつくったって、絶対にあんなふうにおもしろくはならない。いったいなぜだろう? と考えるのはすごく刺激的です。

——恵比寿映像祭での『《無言日記/201466》-どこの誰のものでもない映画』の上映のとき、「あえて面白いと思ったアングルは選べても選ばないように撮影してた」というお話をされてましたけども、最近の「無言日記」を見るとそうした縛りみたいなものさえ希薄になってますよね。どういう映像が映画になるかならないかといった判断、分別がどんどん消えていってる。

三宅:映画にならなくたって、つまり失敗したって、別にいいと思っているからですかね。それより、いろいろ試して、どんどん可能性を広げるというか、新しい部分を発見していくほうが面白い。発見できなかったらできなかったで、またちがうことやってみればいいし。そのためにいろいろやれているのが「無言日記」だし、明らかに『THE COCKPIT』も同様のテンションでつくっていると思います。ちょっとこれは映画としてどうなの、というアイデアが浮かんだら、とりあえず試してみる、みたいな。それでハマれば、「おお映画が広がったぞ」と思えるし、失敗しても場合によってはいい。『Playback』や、とくに『やくたたず』のときは、やっぱりどうしても、なんとか映画にしようしよう、というのは強くて、それはたまに辛かったりもして。今回はもっと楽しさや喜びが、よりシンプルにあって。自分で戸惑うくらい。

松井:今回は対象が対象なので必然的に、クリエイションとはなんなのか、ということに触れざるをえない。いや、それこそがこの作品の対象と言えるかもしれません。「ひとつの作品ってなに?」「芸術ってなに?」と。そしてそれは「映画とはなにか?」よりも、もう少しだけ重要な問いだと思っています。

©Aichi Arts Center, MIYAKE Sho

この作品をつくる数ヶ月前に、こんなことがあったんです。俳優をやっているある友人の家に遊びに行ったら、ちょうどそこにBimも来た。ふたりは友達で、いまから遊びで一緒に曲をつくる、というんです。Bimの持ってきたパソコンにトラックが入っていて、それを流しながらふたりとも無言で、ものすごく真剣にリリックを書き始める。最初は、おいおいなにしてるんだよと思ったけど、みているうちになにかが少しずつ姿を現してきて、どんどん興奮してくるわけです。いてもたってもいられなくなってぼくもリリックを書き始めたけど、まったくうまくいかず……。その日は結局録音までやったのかな。Bimは終電があるんで、最後は急いで作業して、「じゃ、おつかれっした」と、さくっと帰って行った。すごく楽しかった。

でもこういうのって、けっして特殊なものではないんですよね。同じようなことが世界中でおこなわれている。音楽でなくとも、友達と部屋に集まって、なにかちょっとやってみて、つくってみる。ユーロスペース支配人の北條誠人さんは『THE COCKPIT』をみて、学生のころに友達の家に集まってなにかをしようとしたり、あーでもないこーでもないと部屋で過ごしていたあの感覚を思い出して、懐かしいと言ってくれたんです。それはBimと友人が曲をつくっているのと、なんら変わらない感覚だと思うんです。なにが出来上がるかわからない、でも「なにかをつくっている」「なにかが生まれつつある」という実感だけは確かにある。その実感こそが、とても大事ですよね。結局なにかが出来上がらなくたって、その実感を忘れずにいておけば、それでいいんだと思います。

三宅:俺も多分そういうことをすこし見失ってたのかもな、と。小さい頃に部屋の壁に落書きしたかんじ、そういう感覚は映画をつくるにしてもやっぱり必要なんだよね。OMSBが毎朝起きてすぐMPCの前に座っていると言っていたけれど、もうそれはつくりたいからつくってるだけ。それが最高だからやってるだけなんだよね。義務でもなんでもない。いま「無言日記」を今年も続けているけど、これは単純にOMSBだったりいろんなラッパーやトラックメイカーが日々手を動かしている、それに刺激されながら続いています。シナリオでもいいんだけどね。

松井:ものすごくおこがましいことを言いますと、リチャード・リンクレイターの『6才のボクが、大人になるまで。』と同じ時間がこの作品にも流れてほしいなと、そう考えていました。あの作品だって、先々どうなるかわからないまま、リンクレイターは被写体ありきでつくっていましたよね。そして同じように、現実と作為のバランスを取りながらつくっている。三宅もぼくも『THE COCKPIT』が「ドキュメンタリー映画」だとは、あまり思っていません。ただどうしたってそういう括りを周りから迫られるので仕方なくドキュメンタリーですと言いますが、それ以上のことはありません。三宅が最初に言っていたように「おなじ場所にいて一緒に映画をつくった」だけなんです。きっとリンクレイターもそういう感覚だったんじゃないかな、と……。おこがましいですね、これは。

三宅:全然おこがましくないよ、Yo, what’s up?って話しかけてみたいよ。『6才のボクが~』の主人公、彼もコツコツ「無言写真」撮ってたし。まるで俺みたいだあ、と……。すいません。

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