何かを愛するためにカメラを使う

——ひとつ率直にこの映画で驚いた場面をあげるとすると、この映画の本当に終盤にあった「顔」のインサートです。その「顔」のショットは、ある出来事の終わりの瞬間を隠してしまうものである。しかし一方でそれ以上に何かを見出している顔だったように思うんです。

松井:あれはあそこに入れるべきだと、直感的に思いました。

©Aichi Arts Center, MIYAKE Sho

三宅:撮影素材をみているときに、いい顔だなあと見惚れていたんですけど、あのカットもまた鏡というか、というのも、映画を見るひともあの瞬間にきっと、あのOMSBとほとんどおなじ顔をしてると思うんですよね。あのカットがなんなのかを言葉で説明するのは難しいんですが、でも鏡の反射のように、スッとみるひとが直感的に納得するような顔だと思います。

——その「顔」は何かを、たとえば創作に伴う苦悩とかを代弁しているものじゃ全然なかった。あえて表現するなら、まるで背中みたいな顔だなと。何かを語ろうとしてるというよりは、むしろそのショットによって映し出されなかったあらゆるものを肯定する、そんなふうに押し黙った顔というか。

三宅:肯定というより、愛と言ってもいいですかね。その人のことが全部わかんなくても人を愛することはできると思うんです。そのための具体的な実践として、映画があるんじゃないか。そもそもすべてを知ることなんてできないし、すべてを知らなくても知らないことを込みで愛せる可能性がある、と思えるかどうか。もし全部知ることが愛だとしたら、愛は不可能になってしまう。俺はやっぱりなにかを愛したりするためにカメラを使いたいです。逆に、自分が愛せないものをそこに晒すために映画があっては絶対ならない。

©Aichi Arts Center, MIYAKE Sho

あと、この映画は『THE COCKPIT 2』『THE COCKPIT 3』みたいにシリーズ化できるよね、といい意味で言ってくれるひとも少なくなくて、とても嬉しいしつくってみたいとも思うんですが、でもやっぱり、これ一作だけでいいかな。変わるかもしれないけど。OMSBやBimたちと似たようなことをしてる人はとにかくいっぱいいるし、それを想像することで得られるものもとても大きい。でも、彼らが自分にとって入れ替え可能な存在じゃないってこともまた重要だと最近思いました。そういうキャスティングができたことが単純に嬉しい。映画の役柄と俳優の関係と同じですよね。誰でもかまわない、けどこの人じゃなきゃいけない。

——OMSBさんやBimさんらは映画の中の自分たちの姿を見て、どんなリアクションをされたんでしょうか。

三宅:この映画をつくって幸せだったことのひとつは、試写をしてるときにかれらが自分たちの姿をみて頭をかかえたり爆笑したり突っ込んだりしてくれたこと。笑いながら、お喋りしながら見る試写ってなかなかできないと思う。そんなことができたのがすっごい幸せ。

取材・構成 田中竜輔
撮影 白浜哲  ※作品スチールを除く

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