——他方でふたりの女性をつなぐ父親の存在も重要で、この映画では父親役を鈴木卓爾さんが演じられています。その父親の行為として、物語の後半に「ほんとの自分がどうだとか、ほんとの気持ちがどうとかより、何をすることに決めることが大事なんだよ」と父親が娘の育美に語りかけますが、この言葉によって最終的にあのラストシーンが生まれることになったのではないかと思いました。

安川:卓爾さんとはあまりやりとりをする時間がなく、単純にその場で思ったことを言っていただく感じでした。嘘をついている訳じゃないのに、娘からすると嘘に見えてしまう複雑な役だったんですが、引き裂かれたような状態の父親をすごく繊細に現してくださったと思います。

たしか脚本の段階ではそのラストシーンのセリフとして「ゴメン」と一言書いてあったかもしれないです。だけどあのシーンは言葉にできないからこそ真実ではないのだろうかとも思ってました。言葉にしてはっきりさせてしまうことは、同時に切り捨てていくような冷たさもあるわけで、言葉じゃなく伝わるものこそが映画の魅力でもあると思ったんです。だからラストシーンでキララちゃんがふと微笑むのも、とくに指示したわけではなく長めにカメラを回したことでああいった自然な表情が生まれました。相手役の佐藤歌恋(かれん)ちゃんのお芝居を見ていたこともあると思うんですけど、自然にこぼれた笑みを見て「何もしゃべらせずに、ここで終われば良いんじゃないか」と決めました。劇中では主人公の育美が相手の女の子にひどいことをしているのに、謝りに来て微笑むっていうのは甘いと思われるかもしれません。でも育美の気持ちは、彼女を演じたキララちゃんのその表情の変化で伝わるのではないかなと思いました。

——そんなキララさんの瞬間をカメラに捉えた四宮さんとは、撮影に際してどのようなやりとりを行っていたのでしょうか。

安川:四宮さんの印象はシャープで締まりのある画作りが特徴的で、とくに私の中では寄り画のイメージが強かったんです。だけど元々はエドワード・ヤンが好きだとおっしゃっていたこともあり、全体的に引き画のイメージでお願いすることにしました。それに私は人物の表情が単にクロースアップされるだけでなく、広い風景や空間の中に人が存在しているような画に惹かれることがよくあります。だからその空間の中に漂うような人物の感情を掬い取るために、この映画では引きの画が多くなっていると思います。だから『Dressing Up』は「え、四宮さんだったの」って言われることが多いですね。だけど四宮さんにはかなり助けていただきました。役者さんのお芝居も見てくださるし、ラストシーンを始めとしたキララちゃんの表情もつぶさに捉えてくださっているのは、本当に四宮さんのおかげだと思います。

また撮影当時は一眼レフカメラでの映画撮影が流行り始めたころでした。でも一眼だと画面はキレイすぎるし、この映画の内容と噛み合わないのではないかと思ったんです。だから見る人には画のインパクトより、もっとスムーズに物語へ入ってほしいと思い、四宮さんにも相談して一眼レフレンズも使えるビデオカメラで撮影することに決めました。

——引き画が多いことに加え、『Dressing Up』は高低差のあるロケーションで撮られているシーンが多いと思います。中盤の育美が母親の残した犯行前の日記を読んでいるシーンでは、高台にある階段よりもさらに高い位置から育美を見下ろしているような構図を取っています。

安川:高低差のある場所を多く選んだのは、人物を俯瞰で撮ることによって何者かの新たな視点をそこに生み出したいと思ったからなんです。だからこの映画が母親を求めている娘の話である以上、亡くなった母親が娘を見守っているのか、あるいは見ているのかといった視点を入れたいという思いが強かったので、そういった場所を選んだというのはあります。

——それにしても『Dressing Up』のスタッフの方々を見ると、監督をやってらっしゃる方が多いですよね。

安川:四宮さんも監督志望だったとお聞きしてますし、助監督の清水艶さん(『灰色の鳥』)や福田良夫さん(『さぬき巡礼ツアー』)、制作の草野なつかさん(『螺旋銀河』)も監督作品を持っている。録音の松野泉さん(『GHOST OF YESTERDAY』)も元々監督さんだし……。

——父親役の鈴木卓爾さんも監督ですからね(笑)。

安川:ほんまや、監督だらけや!(笑)。

——そういう監督ばかりの現場はいかがでしたか。

安川:今だったらそんなに気にならないと思うんです。だけど『Dressing Up』は初の長編だったので、現場中はずっと緊張していた記憶しかないですね。だけど緊張している場合じゃないんですよね。それどころじゃなくて、良い作品にしなきゃって思わないといけない。この現場のときは周りの反応を気にしちゃうこともありましたが、今はそれどころじゃないよって思います。撮れる機会は大事にしないといけない。

——今後とも『Dressing Up』の育美のような「引き裂かれた女性」の存在を、ご自身の映画の中で描き続けていかれるのでしょうか。

安川:たとえば万田邦敏監督の『接吻』(2008)は、小池栄子さんが演じる女性の病的な側面がフューチャーされますけど、そもそも女性を描くこと事態が複雑ですごく難しいと思います。どこか一面的な側面に落ち着いてしまいがちですが、女性にだってさまざまな面があるわけだし、そういった側面をきちんと描いていきたいですね。たとえば感情的になっている女性でも、「ああ、私は感情的になっちゃってるな」といったように自身を客観視する部分があると思うし、狂気に苛まれているように見える女性でも、どこか冷静な部分もあるからこそ苦しむのではないでしょうか。本当の狂気は客観視できなくなることだけど、実はそうなってしまったほうが葛藤は少ないのかもしれません。そういった女性の多面的で複雑な部分もきちんと映画の中で描いていきたいと思っています。『Dressing Up』に関して言えば、自分の母親が犯罪者だと知ったときに、その人物は幸せになれるのかということを考えたかった。そういった引き裂かれた状況に置かれる女性をこれからも描いていくことになる気がしますし、一方で独りよがりに追求するのではなく、映画を見た人に楽しんでもらえるようなエンターテイメントな部分もちゃんと取り入れていきたいですね。

だけど最近は女性を描くならば、男性も同じように描けないと女性を描いたことにはならないと思うようになりました。少し前であれば女性の描き方ばかりを考えていたけど、男性もいるから女性もいるわけで、男性もやっぱりちゃんと描けないと女性を描いたことにはならないなとも思っています。

取材・写真=隈元博樹
構成=隈元博樹、渡辺進也

←前へ 

最初 | 1 | 2