「福岡爆音」までの道のり
——今年で第3回を迎える「爆音映画祭 in 福岡」(以下「福岡爆音」)ですが、まずはどのようにして福岡爆音が実現される運びとなったのでしょうか。そのきっかけとなったご自身と、爆音映画祭の主宰である樋口泰人さんとの出会いからお話いただけますか。
木下竜:樋口さんとの出会いは20数年前にさかのぼります。当初は直接知り合ったわけでなく、学生時代に「Position(ポジション)」という雑誌の編集委員として参加していたことに始まります。雑誌名はジャック・デリダの著書「Positions」(1972)に由来していて、当時は非常にジャック・デリダが人気のあった時代でした。だから知的虚栄心を持った若者は、内容を分かりもしないのにデリダの本を持ち歩いていたものです(笑)。「Position」は批評の立ち位置を明確にするといったコンセプトのもと、基本的にはロックミュージックと現代美術を扱う批評誌で、編集長は「ユリシーズ」を主宰して今も精力的に活動をなさっている河添剛さん*1でした。結局その雑誌は2号で終わってしまうんですが、僕はそこで映画のコラムやディスクレヴューを書かせてもらっていたんです。
貧乏雑誌だったので、出版社、書店、喫茶店などから細かく広告を取っていたのですが、その中のひとつが「パラレルハウス」という高円寺の伝説的なレンタルレコード屋で、そこの店長が樋口泰人さんでした。「パラレルハウス」はものすごく通揃いのセレクションがなされたショップで、樋口さんとはその広告の件で初めてお会いすることになります。学生時代は大したお付き合いはなく、アテネフランセのシネクラブでお見かけしたときも「樋口さんって、映画も好きなんだなぁ」ぐらいの印象で(笑)、軽くご挨拶する程度でした。就職してから数年後に訳あって福岡へ引っ越すことになるんですが、それ以降も実に細々としたメールのやりとりは続けていました。日本で数十人しかファンのいないようなミュージシャンの話題で、「とうとう亡くなったんですね」みたいな内容(笑)。

西鉄ホール
−−「Position」での活動が終了したあとも、何かの媒体を通して映画批評や音楽批評を引き続き書いていらっしゃったのでしょうか。
木下:いや、僕はさして文才もなかったもので(笑)。ただ大学を卒業してすぐの頃、小さな映画の輸入会社で働いていた時期がありました。配給ではなく、海外から買い付けた作品をビデオ会社や配給会社に売る会社です。そこは社長とソリが合わず、短い期間で辞めてしまったのですが、かといって映画業界で踏ん張る根性が無かったので、その後企業の広報誌などを編集する会社に入りました。で、その輸入会社で買ったジャン=ジャック・ベネックスの『溝の中の月』(1983)や、これは本当につまらない作品でしたがアンジェイ・ズラウスキーの『狂気の女』(1985)などをシネセゾンに買ってもらい、シネセゾン渋谷で上映してもらいました。支配人はのちに「プレノンアッシュ」の社長になる城戸俊治さんで、スタッフには篠崎誠さんもいらっしゃいました。当時は香港映画にのめり込む映画好きが多くて、僕もその中のひとりでした。だからプレノンアッシュの篠原弘子さんとも仲良くさせてもらっていましたし、のちに福岡でウェブの制作も手がけ始めた時は、同社の配給作のサイトは殆ど手がけました。あと、福岡に越した直後から数年間「福岡アジア映画祭」にスタッフとして関わりました。
−−そういった作品そのものを取り扱うお仕事を経たのち、もう一度今回の福岡爆音のような興行へと駆りたてられた動機とは、いったい何だったのでしょう。
木下:福岡に越して来て、仕事や子育てに追われてほとんど映画から離れてしまった期間が10年ぐらいありました。ところがある時、クライアントで北九州の某大手メーカーの重役の方と忘年会でご一緒したんです。そしたら、その方が無類の映画好きで、周りそっちのけでふたりして成瀬巳喜男の話ですごく盛り上がってしまった(笑)。それ以降、ふた月に1回ぐらいのペースで映画の話をしながらご飯を食べたり、そのお付き合いで湯布院映画祭へ行くようになったことで、またぞろ映画好きの血が騒ぎ始めたんです。そして東京出張時に噂の「爆音」を体験して、沸々とその気持ちが湧き上がってきました。
−−ご自身が最初に吉祥寺バウスシアターでの爆音映画祭を体験したのは、いつごろだったのでしょうか。
木下:第3回爆音映画祭の『愛のむきだし』(2009、園子温)です。「これは凄い!!!」と思いました。観た後で樋口さんから「いやー、あれは最低の爆音なんだよ」と言われてガックリきたんですが(笑)。でも「これを福岡でもやりたい!」と思い始めて、翌年には居ても立っても居られず「爆音を福岡でやらせてください!」と樋口さんに相談したのが福岡爆音のはじまりでした。
−−なるほど。ただ福岡爆音を開催するとは言うものの、初年度は予算や場所などの問題もいくつかあったのではないでしょうか。
木下:すべての興行をボランティアでお願いするわけにはいかないので、まずは大きな意味でのパートナー探しから始めました。すると古い知人を介して「JABUP」というレコードレーベルの松下貴之さんを紹介され、彼が「LOVE FM」という福岡のFM放送局と結んでくれました。実は、第1回はLOVE FM、JABUP、利助オフィスの3社共催でした。LOVE FMは事業主が鉄道会社の西鉄グループで、「西鉄ホール」という劇場施設を運営しています。そこであれば音響の設備も整っていますし、加えて立地的にも福岡市の繁華街である天神のど真ん中です。それから2012年の春ごろに担当の永島亜美さんのもとへ伺うことになるんですが、そしたら「うちも実は2、3年前から爆音をやりたくてしょうがなかったんです」と (笑)。
−−まさに奇跡としか言いようがありませんね (笑)!
木下:ほとんど相思相愛状態で (笑)。爆音は音の調整に丸々2日は取らないといけないわけです。まともに会場費用を払ってしまうと黒字にならないので、LOVE FMとの共催によってはじめて福岡爆音は実現できた部分がありますし、西鉄ホールという施設なくしては本当に成立しませんでした。
「NOBODY」の読者の方なら言わずもがなだと思いますが、日本の映画館状況は2010年ごろから劇的に変わってしまいました。とくに地方都市の福岡では上映場所を探すことすら難しく、現在でも単館の劇場では僕たちのような興行が実現できないほど壊滅的な状況です。いま、福岡市内でそうした興行が可能なのは「KBCシネマ」と「中洲大洋」だけで、他はどこもかしこもシネコンばかりになってしまいました。ある調査によると*2、福岡は100万人あたりの映画館数が35.8館らしく、それがなんと東京(23.0館で全国4位)を押さえてトップなんですが、その実態はシネコンに席巻されています。シネコンがそれまでの硬直した興行形態を変えた側面もあるかもしれないけど、あれはやっぱり映画を見る環境ではないと僕は思っています。ハンバーガーを売る代わりに映画をかけているみたいな感じがして、どうしても好きになれない。だからと言って、小洒落たカフェのような閉じた空間で仲間内だけの上映会ごっこはやりたくない。だから西鉄ホールは、ほんとうに理想的な会場だったんです。唯一の難点と言えば、キャパが464席もあるということでしょうか。200席ほどのバウスシアターに比べると広すぎるので、当初「あそこで会場全体に音を回すのはかなり大変だね」と言われていたのですが、昨年樋口さんの機転で元々下置きのスピーカーを上から吊り上げたことで飛躍的に改善しました。
−−永島さんのほか、当初からご自身と一緒に企画を進める仲間はいらっしゃったのでしょうか。
木下:味方は社内でも僕の直属の上司ひとりだけで、最初はかなりの暴挙だと言われました。ウチの事務所(利助オフィス)は広告を中心とした企画制作会社ですが、これまでにいわゆる「興行」はやったことがありません。しかも、いきなり大きな会場を5日間借りっぱなしでやるわけですし、上の人間は否定的だったんです。会社からすると「趣味だか仕事だかわかんないことをやりやがって」って感じです (笑)。だから、最初は通常の業務に支障が出ないよう、ほとんど土日をつぶして準備にあたりました。今も実質的に動いているのは僕と相方であるLOVE FMの永島さんの二人だけです。2回目の去年は多少の人手に恵まれましたが、第1回の時は「見たい映画も見られず、いったい何のためにやってるんだろう」と思いながら、チケットをもぎったり、上映中ずっと受付に座っていたり……。時には学生のようにチラシを持って街中を駆けずり回ったりと、本当に大変でしたよ。