メナヘムとヨーラムの“ラヴ・ストリームス”

——過去のフッテージなどではふたりが仲良く並んでいる姿が見られますが、『爆走風雲録』ではそれぞれ別にインタヴューをされています。最後になるまでふたりが一緒にいる場面は出てきません。このようなかたちで映画を構成したのはなぜでしょうか。

HM:何よりふたりの間のやり取りがすごくおもしろかったんです。撮影をはじめてすぐにふたりがまったく真逆の考え方を持っているということに気づきました。実は最初のインタヴューのときにはメナへムとヨーラムふたり一緒に撮ろうと考えていました。しかし、当日になってヨーラムが急に来られなくなってしまい、メナへムひとりのインタヴューを撮っていたら、彼はヨーラムの悪口をかなり言うんですね。それを聞いて、やっぱりふたりを別々に撮ったほうがいいと思いました。そこで、ふたりのそれぞれの考え方を尊重し、丁寧に描くことをまず行おうと考えたんです。最後までふたりの見方を平行に見せていき、最後になって初めてふたりを会わせるというスタイルを意図的にとっています。

——キャノンフィルムズからメナへム・ゴーランが去った後、ふたりは完全に仲違いしてしまったと言われています。『爆走風雲録』はふたりが並んで映画を見るところで終わります。ふたりは最終的に仲直りしたんでしょうか。

HM:1980年代終わりにキャノンフィルムズが破綻し別れてしまってからは、ずっとお互いに話していなかったようです。それが、2010年にニューヨークのリンカーンセンターでレトロスペクティブが開催されたときになって初めて再会し、その後私の映画で再び顔を合わせることになりました。最初は少し話すくらいの仲でまだまだ溝がある状態でした。それが、何年も撮影をしていくうちに少しずつふたりの距離が縮まってきました。一番大きな転機となったのは、2014年のカンヌ国際映画祭で『爆走風雲録』が上映されたときのことです。プレスの人たちに囲まれ、人々は彼らにリスペクトを示してくれました。それによって、ふたりとも共に仲が良かった当時の輝かしい日々のことを思い出したようで、そこで一気に距離が縮まったのだと思います。もうひとつ、カンヌではある出来事がありました。それまでヨーラムはすべてをメナヘムの責任にして悪口など言っていたのですが、私に「自分が最も後悔していることは、メナヘムと一緒にキャノンフィルムズを去らなかったことだ」と初めて打ち明けてくれたんです。その後、7月にイスラエルで『爆走風雲録』の上映を行い、その翌月にメナヘムは亡くなりました。最後の3ヶ月間は、ふたりはすごく距離を縮めていたと思います。

——この映画の始まりから完成するまでのあいだ、キャノンフィルムズやふたりに対して、自分のなかで印象が変わったところはありますか。

HM:ふたりと何年も関わっていく内に、お互いのことをよく知るようになり、彼らの好きな側面、逆にあまり好きではない側面がよく見えてきました。ふたりのことをより理解することでわかったのは、彼らの人間性が、彼らの作品をつくったのだということです。だからこそ、キャノンフィルムズは成功し、そして失敗したのだと思っています。すべては彼らふたりの人間性が出発点になっています。会社のなかでも次々と何でも即決していってしまう。話を聞いているだけでも会社のマネージメントがあまりうまくいってなかったことがわかります。破綻に向かっていったときも、これだけの資金がある、これだけの従業員がいる、じゃあどうすれば解決策を見出せるか、と普通は考えると思いますが、彼らはつねに前に進んでいっているので、それがコントロールできていませんでした。原題のタイトルである「The GO-GO Boys」は、彼らのそうした性質、性格をよく表している言葉だと思います。私は彼らがつくった300本の映画の内250本ほど見ていると思いますが、それらのキャノンフィルムズの映画を通して、どの部分が成功の要素だったのか、どの部分が失敗の要素だったのかを学ばせてもらいました。この作品をつくっていくなかで、人間としても、映画の制作者としてもたくさん学ぶことができたんです。この作品は、映画を愛する人たち、映画関係者だけが楽しめるものではなくて、彼らの人間性が見えるからこそ、誰もが楽しめる作品になっていると思います。よく私がたとえるのは、この作品はふたりのラブストーリーだということです。愛し合ったふたりが、やがて離婚してしまう、そうした波瀾万丈な関係を描いた作品だと私は思っています。

——実際に『爆走風雲録』を見たふたりの反応はいかがでしたか。

HM:本人たちに見せることはとても緊張しました。メナヘムは監督もしていますので、撮影の現場でも、カメラの位置や照明の具合など、いろいろと演出に口を出してきました。どういう感想を抱くのかとても心配だったのですが、全体的に好意的に気に入ってくれました。見た後に彼からひとつだけリクエストがあったのですが、それはハッピーエンドで終わってほしいというものでした。つまり、メナヘムとヨーラムがまた一緒に映画をつくり始めることで終わってほしいと。しかし、実際にそうしたことは起こらなかったので、そのリクエストは聞き入れることができませんでした。最終的に落ち着いたところが、最後のエンディングの音楽です。途中までは、少し悲しめな音楽だったのですが、エンドクレジットがはじまるとそれが明るい音楽になります。最後の音楽をそのように変えるということで、メナヘムも納得してくれました。ヨーラムも撮影がはじまった当初は全然心を開いてくれなくて、インタヴューも苦戦しました。彼としては、ジャンカルロ・パレッティに関する話などにあまり触れてほしくなく、自分に対する批判を見てほしくなかったんです。しかし驚いたことに、彼もこの映画をすごく気に入ってくれました。それ以降もずっとこの作品をサポートしてくれています。

——キャノンフィルムズが見出した俳優のひとりがジャン=クロード・ヴァンダムですね。彼もまた『爆走風雲録』でインタヴューに答えていますが、彼とはどのようなやり取りをしましたか。

HM:それに関してはまだ誰にも話していない面白い話があるんですよ。ヴァンダムにインタヴューをお願いするとすぐに受けてくれると言ってくれたのですが、こちらから会おうとすると「翌週にしてくれ」、「そのまた翌週にしてくれ」と、どんどん延期になっていったんです。最初に連絡してから1年ほど過ぎた頃です。知り合いからタイの同じホテルにヴァンダムがいると連絡が来ました。すぐにその友人にヴァンダムのインタヴューを撮影してもらうように頼みました。ですから、あのシーンは私の友人がプールサイドで水着姿でインタヴューしたものなんです。『爆走風雲録』が完成しヴァンダムにこの映画を送ったら、「こんなに良い作品なら、もっと長く話をしたのに」と言っていました。それから「僕の作品もつくってくれ」と(笑)。ふたりに関して批判的なことを言う役者は多いのですが、ヴァンダムは「僕にチャンスを与えてくれてありがとう」という心をつねに持っていて、メナヘムの家族にメッセージを送ったり、贈り物をしていました。キャノンフィルムズに関わった役者として、彼はやはり特別な存在です。

——最後に、今回のメナへム・ゴーラン映画祭でオススメの作品があれば教えてください。

HM:メナヘムが一番好きだと言っていたのは、『サンダーボルト救出作戦』(1977、メナへム・ゴーラン)です。彼は「この作品がアカデミー賞を獲るべきだった」と言っていました。『バーフライ』もとても良い映画です。『ニンジャ』(1984、サム・ファーステンバーグ)はクエンティン・タランティーノが35mmフィルムを持っているほど気に入っている作品です。私はあまり好みではないんですが(笑)。イスラエル時代にメナヘムが製作した『グローイング・アップ』 (1978、ボアズ・デヴィッドソン)は馬鹿らしいですが、とても面白い好きな作品です。これは日本でもヒットしているんですよ。『アップル』(1980、メナへム・ゴーラン)はとても奇妙な作品です。最初に見たときは「オーバー・ザ・トップ」(非現実的)すぎてわかりませんでした。でも、何度か見ていくうちに、音楽の素晴らしさがわかってきてやみつきになってしまいました。最初は失敗した作品と言われていたのですが、カルト映画的に人気が出て、いまでもどこかで上映されている息の長い作品になっていますね。

取材・構成・写真
渡辺進也、高木佑介

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