
『モンタナ 最後のカウボーイ』
©Ilisa Barbash and Lucien Castaing-Taylor
——今回上映される4作品はどれもふたりの共同監督による作品ですね。共同監督による制作体制にはどういった考えがあるのでしょうか。
ヴェレナ・パラヴェル(以下VP):いま、その質問をお受けするのはとても興味深いですね。というのも、私たちはこの2カ月間日本に滞在して、フィクション映画の制作現場に同行させてもらっていたんです。大きなクルーで映画をつくるそのプロセスを撮影していたんですね。この撮影現場は、私たちからすると、非常に上下関係の厳しい制作体制に見えましたね。私たちの普段の制作現場だとクルーの人数も少ないですし、ひとりが監督でもうひとりがサブといった関係をつくらないですから、この違いはすごく際立っていました。私たちにとって、映画づくりは常に共に何かをつくりあげることです。それは監督同士であったり、被写体との関係性のなかにあったりするわけですが、一緒につくりあげるコラボレーションのプロセスなんですね。ルーシァンはイリーサ・バーバッシュと『モンタナ 最後のカウボーイ』をつくりましたし、私も『ニューヨーク ジャンクヤード』で、J.P.シニァデツキと共につくりました。私の映画は最初ひとりでスタートしましたけど、だんだんひとりでやることが不可能になってきてしまったので仲間になってくれる人に声をかけました。それは誰かを雇ってアシスタントにすることとは違います。ふたりだけで映画をつくるには、大きなクルーに匹敵するような関係性をそこに築かなければなりません。それは、まるでダンスを踊るような関係性と言えるかもしれません。あなたがこっちに立ったから私はこっちに立とうとか。あなたがカメラをこう向けているから私は音を取ろうとか。だから、私たちの制作の仕方はそんなふうにお互い支え合いながら撮っていくかたちになっています。
——ダンスということですと『ニューヨーク ジャンクヤード』に、踊っている現地の人とクルクル回りながら撮影しているシーンがありました。制作者同士だけではなく撮影される側の人とも共に映画を撮る、そのことがよくわかる場面ですね。
VP:ダンスというのは不確定要素が多くて、常に動き続けているプロセスですよね。いったい誰が自分のパートナーになるのか。何人がパートナーになってくれるのか。どういうダンスになるのか。そして、ダンスはどう終わるのか。私たちはそうしたことを考えながら撮影現場に入っていきます。前衛映画や、最近ではアートの世界でもそうかもしれませんが、ひとりの天才が自分のヴィジョンを押し出して制作する、そんなロマンチックな考えがあるように思います。しかし、私たちが目指しているのはそういうことではありません。現実を撮影していると予測の出来ない不可抗力の部分がドンドン入ってきます。私たちが狙っているのはまさにそういったことなんです。
ルーシァン・キャスティーヌ=テイラー(以下LCT):今回の特集タイトルを「ハント・ザ・ワールド」と付けていただきました。しかし、そういう意味では「ダンシング・ウィズ・ザ・ワールド」というタイトルでもよかったかもしれませんね。ハントという言葉だと狩りであったり、追いかけていくといったことをイメージさせます。しかし、ただ追いかけていくだけでは世界を捉えられないとも思うんですね。撮る側と撮られる側の関係性は常に一定ではなく不安定です。さらには自分たちのことを追いかけていたり、世界と一緒に踊っていたりする。それさえも私たちが追いかけている世界の一部なんですね。そう考えると、一面的ではない世界の捉え方に至れるんじゃないかと思うんです。
——ふたりで撮影することはひとりの一面的な見方ではなく、複数の見方を提示することでもあると思います。たとえば撮影中にふたりでディスカッションをして方向性を探るといったこともあるのでしょうか。
LCT:今回日本で撮影している作品では、自分たちがディスカッションをしている音声も録音しました。いままでそうしたことはやったことがないんですけど、今回はそれも映画のなかに取り込むかもしれないです。
VP:ここ数週間はずっと毎日4時間ほどの睡眠時間で撮影していましたから、帰ってからフッテージを見る時間がほとんどなかったんです。そうするともちろん話し合いもするんですけど、撮影の方法でコミュニケーションをとっていったところがありました。「今日、私は1日中ピントの合わない映像ばかり撮っちゃったんだよね」とか「今日は長めのレンズばかりを使って撮影してたよ」とルーシァンに言うと「実は僕もそうだったんだよ」と返ってくる。言葉以外のところでディスカッションがあったような気がするんです。もちろん編集の段階になると止めどないディスカッションになります。相手の意見を変えさせようとお互いに説得していきます。それで結局お互いが意見を変えてしまったりして、また元の対立が生まれたりもするんですが(笑)。そんなふうにして議論を通して常に進化していますね。でも、そのプロセスは必ずしも言葉だけではありません。
LCT:現場でのふたりのコミュニケーションは非言語的なものであって、かたちに固められないような関係性なのだと思います。長年一緒に仕事をすればするほどその傾向が強くなって来ています。私自身にとっては一番人間味に溢れていると考えているのは撮影をしている現場です。そこでは世界と出会っている感覚があるからです。編集の段階に入って初めて、撮影してきた素材との距離が生まれてきて議論が始まるわけですけども、その際にも現場を録音している、記録している出会いの場の共生関係こそが私にとっては基本になっています。

『マナカマナ 雲上の巡礼』
©Stephanie Spray and Pacho Velez
——いま編集の段階で激しい議論があると仰ってましたが、自分たちが撮影していない作品、たとえばおふたりがプロデューサーというかたちで参加している『マナカマナ 雲上の巡礼』でも、撮影してきた素材を見てみんなで議論したりすることもあるのでしょうか。『マナカマナ』はカメラがずっとロープウェイのゴンドラから出て行かないですし、しかも最初の数十分は会話がされません。
VP:初めて『マナカマナ』のラフカットを見たときには本当に圧倒され、すぐにこれは重要なものになると確信しました。私たちふたりは編集の段階から参加することになったんですが、何十回もラフカットを見ましたし、議論にも積極的に参加していったと思います。自分たちの作品以上に多くの時間を彼らの編集に付き合いました。『マナカマナ』は一見単純に見えますけど順番がとても大事です。まずはロープウェイを登るときと降りるときの順番ですね。それから、声がどこで聞こえるかのタイミングも詳細に決めなければいけません。自分たちをこの映画のプロデューサーなどとは思っていないですけど、ただ監督たちがあの旅路を真ん中で切ると言い出したことがあったんですね。そのときはプロデューサーの強権発動じゃないですけど、そんなことをしたら大失敗してしまう、素材が持っている構造を尊重しなければいけないと強く言いました。
LCT:『マナカマナ』はおそらく自分たちが参加した作品のなかでもっとも編集が困難だった作品だと思います。アンディ・ウォーホールやジェームス・ベニングの作品を彷彿させる構造的な部分、形式的な部分がある一方で、そこに生きている人たちの実存的な生活も映しこまれています。その肖像画とランドスケープの組み合わせというのも非常に奇妙な珍しいコンビネーションじゃないかと思います。
——おふたりは人類学者でもあるわけですけれど、そういった観点から議論することもありますか。
LCT:私たちは常々回復中の人類学者だと言っています。アルコール中毒から回復するように人類学から逃げ出したいと思っているんです。人類学者の多くが目隠しをしたまま、知識や世界と向き合っているのではないでしょうか。すべてをある特定の意味に還元してしまったり、文化人類学の理論に当てはめるようにして世界を見ている気がします。きっと彼らからしたら私たちがつくっている映画の価値などわからないんじゃないですかね。確かに私たちは人類学の勉強をしてきたわけで、それが間接的な仕方で作品に影響していることはあると思います。私たちが人類学者として世界を表象していると言うつもりはありません。ただ私たちの長年のフィールドワークと参与観察的な撮影の方法を通して見てきた世界の在り方というのは、学術的なベースを基にしているかもしれません。映像人類学と言われる分野はほとんど、芸術としても、映画としても、学術としても一流でないものばかりです。私たちはそのことを大変憎んでいるわけですけど、一方では、ジャン・ルーシュのようにいまでも私たちをインスパイアして尊敬しているような人たちが映像人類学の分野にいることも確かなんです。