——この作品はあなたにとって、最初の監督作品となるのですね。

メラニー・パヴィ(以下、MP):学生のときはまず歴史と民俗学を学び、それからドキュメンタリー監督のコースで映画製作を学びました。その後、自身の短編作品を撮りながら、映画の編集技師として映画やテレビ作品にも携わるようになりました。一方で共同監督のイドリサは、まず写真家としてキャリアをスタートし、その後カメラマンとして仕事を始めています。彼の処女長編であるドキュメンタリー作品『Barcelone ou la mort』(2008)は、多くの映画祭で評価されました。彼と共同で仕事を始めたのは、幸運なことにこの作品のプロジェクトのおかげです。イドリサは明子と子供の頃からの友人で、16年間日本に住んでいた彼女に久しぶりに連絡を取ったところ、パリに住んでいた母親である恭子さんが亡くなり、その灰を日本の家族のところに持って行かなくてはならないのだと伝えられたのです。その際に、恭子さんの驚くべき人生の断片を、明子を通じて彼は知ることになったわけです。彼からその話を聞いて映画をつくるべきだと確信しました。恭子さんの出演作品、日記、資料……彼女の人生の欠片はたくさん残されてはいましたが、そのときはまだ、娘である明子自身すらも知らないことが沢山ありました。そして私たちは、この作品を制作する過程で彼女とともに手探りで多くのことを発見していくことになるのです。

−−この企画は、明子さんから提案されたものだったんですか?

MP:いいえ、私たちから明子にお願いしました。彼女は即座に私たちの企画を受け入れてくれました。彼の父(フィリップ=ドミニク・ゲッソォ)がドキュメンタリー作家であり、母親の恭子が女優であったように、彼女にとっては当然のことだったのかもしれません。彼女の被写体としての素晴らしさは、その自然な振る舞いももちろんのことですが、彼女がこの作品のために無意識的に自分自身を演出していたことだと思います。これは私の想像ですが、おそらく私たちがカメラを向けなくてはしなかっただろうことを、彼女は作品のためにしてくれたと思うんです。この作品は私たち3人の共同監督作品とも言えるかもしれません。たとえば、彼女は普段どちらかと言うと黒っぽい服を来ているんですが、最後のシーンで彼女は自ら真っ白なワンピースで現れます。私たちはそれに驚かされました。

−−この作品は三部構成をとっています。(「母ありき Il était une mère 」、「帰郷 Retour au pays natal」、「自分の人生Vivre sa vie」)。小津安二郎『父ありき』(1942)、そして、ジャン=リュック・ゴダール『女と男のいる舗道(原題:Vivre sa vie)』(1962)といった作品から一部、二部のタイトルは取られているのだと思うのですが、「帰郷」というインサートタイトルにもレフェランスがあるのでしょうか?

MP:「帰郷」は映画から参照したのではなく、フランス/マルチニークの詩人で批評家、劇作家、また政治家でもあった、エメ・セゼールAimé Césaireのテキスト 「帰郷ノートCahiers d'un retour au pays natal」から来ています。このテキストはアイデンティティーを主題としています。第二部で描かれるのは、明子が広島で過ごす、家族でありながらそれまで会うことのなかった人々と過ごす時間です。そこで、彼女は日本人でありながら、彼女にとって未知なる日本人としてのアイデンティティーに出会うことになるんです。

−−明子さんが広島に住む親戚の方々とのシーンは素晴らしいですね。まるでカメラなど存在していないかのように彼らは自然に見えます。同時に、重要な瞬間、そして言葉をしっかりと捉えている。

MP:このシーンはイドリサがほとんどひとりで撮影しました。光も自然光のみで撮られています。私たちは必要最低限の少人数のスタッフで仕事をしました。実は私は広島での撮影には同行していないんです。イドリサによると、彼らは亡くなった恭子さんを迎えるため、本当に忙しくしていたそうです。だからもちろんその場所にはいたのですが、スタッフも監督も日本語をまったく理解できないがゆえに、そこ存在していないも同然で、完全に集まった人々の関心の外にあったそうです。もちろん彼らがどんな話をしていたのかも、撮影中はまったくわからなかった。その内容を発見したのは編集に入ってからのことです(笑)。だからこそ撮影中は映像に集中していました。言葉ではなく、被写体の持つ空気感、雰囲気を読み取りながら、目の前で起こっている出来事を捉えようとしていたのです。

−−最初のパリでのシーンと比べると、広島での撮影は現場の状況がまるで異なっていたということですね。撮影の後、この作品の物語はどのように構築されていったのでしょう?

MP:ラッシュは70時間ほどでした。ドキュメンタリー作品なので当然のことですが、シナリオはありません。私たちはまったく到着点を考えていませんでした。撮影中に目の前で起こることをそのまま受け止めていくしかなく、撮影中は驚きの連続でしたし、かなり大変でした(笑)。これはイドリサのやり方なのですが、撮影しながら、毎日その夜に最初の編集作業を行っていました。そのとき同時に明子に日本語で話されている部分を翻訳してもらっていたのです。

もし、この作品で私たちが演出したことがあるとすれば、明子に物語を語らせることを避けるということでした。私たちにとって重要だったのは、彼女が何かに出会うということだったのです。語られる物語はどちらかと言えば明子ではなく、母親である恭子に属しています。明子の進んでいく時間は時系列に沿って捉えられたドキュメンタリー的なものであるのに対し、恭子を巡る時間は複雑なものであり、彼女のイメージはすべてフィクションとして捉えられているのです。

クロード・シャンピオン『Quatre d'entre elles』(1968)、ジャン=リュック・ゴダール『メイド・イン・USA』(1966)、ピエール=ドミニク・ゲッソォ『Bye Bye Butterfly』(1969)といった作品のなかに映像として残っている彼女は当時20~25歳でしたが、『灰』の中で引用した映像の時制と、彼女が書いた日記をナレーションで読み上げる声の時制は、完全にズレています。というのも日記の大部分は2000年以後に書かれたものだったからです。たとえば40年ぶりに級友である山田宏一さん(恭子さんは、彼の映像作品『私の詩』で主演を務めていました)に会ったのは、彼女が65歳のときのことです。そのエピソードのナレーションに合わせられたのは、『Bye Bye Butterfly』の断片映像でした。恭子の映像と恭子の言葉の間には、つねに時間のズレがあります。どうやって彼女の人生の断片からその全体を映し出せるかどうかを考えていました。

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