——もうひとつ画面を見ていて気になったのが、「リップ・シンク」*1が意図的にずらされている瞬間がありますよね。ひとつは琵琶湖について先生が授業を行っている冒頭の場面。もうひとつは浜辺で歩きながらアイコと美和が会話をしている場面です。

安川 リップ・シンクのずらしは『ミューズ』(2018、『21世紀の女の子』の一篇)でもやっていて、面白いということで今回も使っています。アイコの混乱をどう表現しようかと考えた時に、何かはしゃべっているんだけど頭に入ってこない感じというか。そういうことを表現できたら良いなと思い、使うとしたらここだなと。脚本にも彼女がどんどん混乱していくことが書かれてあって、実際に画で撮るのは難しいですが編集で表現してみようと思いました。

——また、美術において気になった点としては、原作だとアイコは実家住まいですが、映画だと一人暮らしという設定で、間取りの窮屈なアパートに住んでいます。一方、飛坂の住むマンションは、ある程度生活に余裕があるのか、間接照明などのインテリアがあることからも、どこかアイコの家との対比になっているように思いました。

安川 「住む世界が違う」という原作の要素は残そうと思っていたので、飛坂のマンションのレベルは悩みつつもロケハンをしていました。間接照明のいけ好かない感じもそうですね(笑)。つまりアイコがこれまで出会ったことのない男性として、飛坂を演出しても良いんじゃないかと思ったんです。そうやって彼女がドキドキするような「アーバンな感じでお願いします」とは美術さんに伝えました(笑)。照明の力も大きくて、お洒落な空間をつくってくださいました。そういった同じ日常生活を営んでいても、ふたつの異なる場所の対比は意識していました。

写真:隈元博樹

——飛坂のマンションにアイコが勝手に入って料理や掃除をしている場面もありますよね。あそこはどのような意識のもとで演出されていらっしゃったのでしょうか。

安川 飛坂の家にアイコがひとりでいる場面をつくりたいと考えた時に、彼女が家事全般を担当しているようなイメージではなく、どこか手持ち無沙汰であることを表現したいなと思ったんです。『恋する惑星』(1994、ウォン・カーワイ)でもフェイ・ウォンが勝手にトニー・レオンの家に入り込んで掃除するシーンがありますよね。実は結構あの場面が好きで、掃除をするところはそのイメージから来ていたりします。

——飛坂の自宅の場面に関して言えば、自身が書いた脚本をアイコに読んでもらったり、彼女がつくった夕飯を前にプロデューサーと電話で脚本について打ち合わせを行うなど、飛坂の所作や行為を通じてひとつの創作物が劇中の中でつくられていくことの生々しさを同時に感じました。それは『ミューズ』において私生活を題材に小説を書く人物や、『ここにはいない彼女』における自身の生活をそのままフィクションに仕立てていく人物ともリンクしているのではないかと思いました。

安川 『ミューズ』の時はそう思っていましたが、今回は私から企画したものではなく、たまたまそういう題材だったということで何か不思議な縁だなとは思っています。『よだかの片想い』をご覧になった方の感想の中にも『ミューズ』に対するコメントなのかなと思うようなものもあって、「また同じような題材を私は撮ったんだ」と後から気付いたところもあります。ただ、映画監督に関して言えば昨今さまざまな問題が取り沙汰されていますし、芸術至上主義みたいなものに自分自身も傷つくことは少なくありません。自分も誰かをそうやって傷つけたことがあったかもしれないので、罪の意識というか、そのことはずっとテーマとしてあるのかなと思います。

——本作には印象的なキスシーンが2回出てきます。台所でアイコがふと振り返った瞬間に飛坂から不意にされる場面と、ラストにミュウ先輩が彼女の頬に軽く行う場面です。

安川 キスシーンは私も気に入っています。アイコの視線を気にすることなく、飛坂は目の前を行ったり来たりして作業を続けるけれど、彼女がそれでも見つめてくれば自然にキスをする空気になるんじゃないかと現場で思いました。中島さんも「それはうまくいきそうな気がする」って言ってくださって、やってみてもらったらすごく自然なキスシーンになりました。彼女からすれば宮沢賢治の本棚の隙間に美和の写真を見つけたあと、どういうことなのかを聞きたい気持ちにも繋がっていきます。またミュウ先輩とのキスシーンも私が足して書いた部分です。本当はアイコの唇を想定していたんですけど、ミュウ先輩演じる藤井美菜さんの自然な流れにおまかせしました。ミュウ先輩の恋愛の指向は分かりません。だけどキスも恋愛だけに発生するものじゃなくて、自然と可愛くてキスしちゃうのも良いことなんだと思って書き足しました。

——ミュウ先輩とアイコの場面においてとくに素晴らしいと思ったのは、後半の病室の場面です。ミュウ先輩がひどい火傷をしているなか、ふたりはあまり目を合わせることなく会話を行っていきます。ただ、視線は合っていなくても、アザがあることで自身を判断するのではなく、ひとりの人間として私と一緒にいてくれる人と関係性を築いてきたことをアイコは告げます。こうしたふたりの会話によって、これまでの親密な関係性が浮き彫りになっていく瞬間でもあります。

安川 アイコは見られることが嬉しかったけど、一転して見られることが辛くなった過去も持っています。そういった見ることや見られることの喜びと辛さの両方を知ってる人なので、アイコは真っ直ぐ前を向いて先輩を見ている。だけど先輩のミュウはなかなか彼女の目を見ることができません。ここでの視線の所在は自然とそうなっていきましたね。私も原作で一番好きなところだったので、この場面は迷いなく脚本に取り入れました。

——ラストシーンでミュウ先輩は「全てさらけ出して受け入れてもらう必要なんてないでしょう。人は裸で生きる動物じゃないんだから」とアイコに言います。彼女はアザがあるからこそ今の自分があるんだという気持ちではいるけれど、ミュウ先輩はそれを化粧によって隠して生きていくことも可能なんだと。そういったどちらか一方しか選べないというわけではなく、どちらを選んでも良いんだよという境地が、この映画のひとつの根幹をなしているのではないかと思いました。

安川 飛坂の描き方と同じように、白か黒かっていう風にはしたくありませんでした。たしかに、何も悪くないのだから隠さずに生きていくべきだというメッセージを発するようにもできたのかもしれません。ただ、隠したい人も絶対にいるはずで、そのメッセージはそう思っている人たちを影へと追いやることになってしまうかもしれない。社会の側がまだ変われていないのに、「ありのままでいる」選択肢だけを当人に押し付けるのは違う気がしました。隠さない選択をする人がいて、たまに化粧をする人がいて、ずっと化粧をする人もいる。それぞれ全部がアリなんじゃないかと。その終わらせ方が一番しっくりきたので、そうすることにしました。ラストシーンに関してはアザがある状態でアイコを踊らせても、それはそれで素敵だったのかなとは思います。だけどミュウ先輩が負った火傷のことを考えると、彼女に傷をさらけ出して生きるべきだとは言えません。人の価値観なんてすぐに変わるものじゃないですし、そもそもミュウ先輩はメイクの大好きな人物なんです。だからそれは絶対否定したくなかったんですよね。

*1 画面の唇の動きと発せられる音声が連動している状態のこと

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